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荒れる中学校と生徒会活動(7)

喜田豊の家は、私の家から2-3分のところにあり、小学校の直ぐ近くで文房具屋をしていました。
喜田の母親というのが、とても穏やかな優しい人でしたし、彼の下に弟が二人(この3兄弟は揃って成績優秀)いた関係で、私はしばしば喜田の家に遊びに行きました。
喜田も我が家に遊びに来るのですが、私の母は必ず“おや、シンキチさんが来たよ。”と言ってました。
喜田が新聞気違いなので、シンキチと名づけたのです。喜田は怒った顔を見せたことが無く、いつもニコニコしており、きっと母親の性格を受け継いでいたのでしょう。

齋藤誠の生徒会改革や、我々の生徒会新聞がどれだけ効果があったのかは分かりませんが、学校全体の努力もあって、荒れた学校も徐々に落ち着きを取り戻し、暴力沙汰も減ってきました。
齋藤と喜田は、その後豊玉高校に進みましたが、齋藤はやはり家庭の事情から家を出て、祖父の実家がる能代に移り、能代高校に転入しました。能代では同人雑誌を創刊し、小説を書いてました。
齋藤は、人を集めたり動かしたりするのが巧みで、若い時からリーダーの素質がありました。
大学のときに再び東京に出てきて、一人で下宿し、昼間は働いて生活費を稼ぎ、夜は夜間に通う勤労学生でした。その当時に芝居にのめり込んで、卒業後は業界紙の記者をしながら、アマチュア劇団を主宰して、現在も演劇活動を続けています。
そういう意味では、初志を貫徹したと言えるでしょう。

喜田は学芸大学に進み、卒業後は念願の高校の夜学の教師になりました。社会科の先生で、私も一度授業を見学させて貰ったことがあります。現在も都立高校の教師をしており、彼もまた初志を貫徹しています。

一人、私だけは家の経済事情から大学進学を諦め、工業高校に進みメーカーに就職しました。
齋藤、喜田という素晴らしい友人と知り合い、思い出深い中学生活を送れたなと、つくづく感じます。

中学時代の思い出は、今回で終了します。
次回からは、別のシリーズを予定していますが、期日は未定です。
by kanekatu | 2005-04-12 01:14 | 生い立ち

憂きな中にも旅の空


by kanekatu