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ポーランド・北東ドイツ旅行記(7)

観光2日目の午後はクラクフ近郊にあるアウシュヴィッツの見学で、今回の旅行目的の一つでした。
私たちが普段耳にするアウシュヴィッツですが、次のように分かれています。
アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)
アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ
アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ

アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市に、ビルケナウは隣接するブジェジンカ村につくられました。周辺には同様の施設が多数建設されていました。
モノヴィッツは連合軍による爆撃や爆破のため今は何も残っていません。
そのため「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」というのが一般的な名称とされています。
いずれもナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により生まれた強制収容所であり、ホロコーストの拠点として絶滅収容所とも呼ばれています。
ユネスコは二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて「負の世界遺産」に認定しました。
現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開しています。

ではなぜこの地域が強制収容所として選ばれたのかというと、
・ヨーロッパの中心に位置する
・鉄道の接続が良い
・工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する
・広い土地の確保が容易
などが挙げられます。
もう一つ、ポーランドではユダヤ人比率が高かったというのも理由だったかも知れません。

これから紹介する画像は決して気持ちの良いものではありません。見学していて吐き気をもよおす程でした。
しかし現実の世界なので、目を逸らさず注視して欲しいと思います。
アウシュヴィッツの入り口で、ここでチケットを買いますが必ずガイドが付きます。
私たちのグループには日本人ガイドとして中谷剛さんが案内してくれました。
毎年150万人の人がここを訪れますが日本人は少ないと嘆いていました。
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収容所のゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられています。なんという皮肉な言葉でしょう。
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使用したガスは「チクロンB(防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治にも使用)」で、効率良く処刑を行うための研究班を配し「32分で800名の処刑が可能であった」とされています。
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その空き缶がうず高く積まれて残されていますが、これも極く一部とか。
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収容者から刈り取った髪の毛です。布を織ったり毛布にしたりして軍隊に支給していました。
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障碍者が付けていた義足です。使える物は前線に送られ使えない者は資材として保管されていました。
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収容者からとり上げたトランクです。生年月日から5-6歳の子どもの物もあるそうです。
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殺された人々が履いていた靴です。
ユダヤ人からとりあげた貴金属、衣服、履物などで使える物は貧しいドイツ人に支給され、とても感謝されたとか。残酷な話です。
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この壁の前で銃殺が行われました。このように花束が絶えません。
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収容者はこの辺りに集められ毎日点呼を取りました。もし脱走者がいると知れると、その周辺にいた人たちが共犯とみなされ処刑されました。
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この周辺の建物は病院だったようです。病院って言ったって病気の治療をする所じゃない。人体実験をする施設でした。どうしたら効率的に殺害できるかとか、女性を不妊にする手術が行われました。
ユダヤ人女性が全員不妊になれば絶滅できると考えたのでしょう、沢山の若い女性がこのため命を落としました。
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各施設は有刺鉄線で仕切られ、鉄線には電流が流されていました。コンクリートの柱や碍子は当時のままです。
あまりに劣悪な環境に堪えられず自殺する人も多かったそうですが、殆んどはこの有刺鉄線に自ら触れて死んでいったとか。
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公開絞首刑が行われた所です。
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ガス室で、死体の焼却場としても使われていました。
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アウシュヴィッツからバスで10分位の所にビルケナウ収容所があります。規模としてはこちらの方が遥かに大きい。
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ヨーロッパ各国から集められたユダヤ人は貨車でここに運ばれ、収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに分けられました。
価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分されましたが、その多くが「女性、子供、老人」でした。
学校や孤児院から集団で送られて来ていた子供たちは形式的な審査もなく、引率の教師とともにガス室へ送られたそうです。
正面がビルケナウの入り口で、その奥に見える森の向こうにガス室が設置されていたそうです(終戦時に破壊されている)。
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収容者は「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さらには「ユダヤ」などを区別され、ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、最下層にユダヤ人や同性愛者とロマ・シンティ。下層にあればあるほど食料配給量や宿舎の設備、労働時間などあらゆる面で過酷状況に置かれていたそうです。
こうしたヒエラルキーを形成することにより、下層の被収容者がいることで上層の者に多少の安心を与えると共に、被収容者全体がまとまって反抗する機運をつくらせない狙いがあったと考えられています。
一部のドイツ人収容者は看守の様な役割を負い、他の収容者を勝手に処罰していました。
建物は収容棟です。
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収容者の3段ベッド。といっても1段に3-5名が詰め込まれていたそうです。
床下は傾斜していて、汚物がそのまま流され溝に集められていました。衛生状態は推して知るべし。
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これが2千人分のトイレで、しかも午前と午後2回に制限されていたため、一人数秒という時間で用を足さねばならなかった。
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感想は、正に鬼畜の所業とした言い様がありません。
人間というものはかくも残酷になれるのか。
ナチス・ドイツのヒットラー政権は、当時もっとも先進的といわれたワイマール憲法のもと、民主的選挙によって誕生したことを忘れてはならない。
ナチスの幹部というのは残虐な連中かといえば、収容所の所長が自宅に戻ればピアノ演奏を楽しむ人だったり、悪名高い収容所の幹部がペットの犬が雨に濡れたといって涙を流していたというエピソードも残されています。
ナチス・ドイツの誤りは、我々日本人にとっても決して他人事ではありません。

気分が沈んだままの夕食になりました。
前菜。
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メインはポーランド風餃子、半分位しか食べられなかった。
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スイーツ。
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次回でポーランドともお別れになります。
by kanekatu | 2013-08-11 12:17 | ポーランド

憂きな中にも旅の空


by kanekatu