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西バルカン6ヶ国周遊記14(ボスニア・ヘルツェゴビナ1回目)

ボスニアへの入国は緊張していたのですが、呆気ないほど簡単でした。楽勝かなと思ったら、入国してバスで1時間程走った所で停車。ドライバーによるとNATOの検問所だとか。いつものようにトメさんが全員のパスポートを抱え走り回っていました。やがて戻ってきてパスポートの返却されましたが、今度は係官がバスに乗り込んできて一人一人パスポートの写真と実物とを比べてチェック、これでようやく通過となりました。ドライバーが言うNATOなのか、この国の監督機関として和平履行評議会(PIC)の下にある上級代表事務所(OHR)なのか、あるいは治安を維持するEUの部隊である欧州連合部隊アルテア(EUFOR Althea)が実質的な入国審査をしているのかも知れませんが、よく分かりません。いずれにせよ、この国の複雑さを物語っているような気がします。

正式国名はボスニア・ヘルツェゴビナ、面積は5万1126k㎡で北海道の約5分の3。人口は379万人、首都はサラエヴォ。
民族構成はボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%。
宗教はイスラム教、セルビア正教、ローマン・カトリック。言語はボスニア語、セルビア語、クロアチア語。
通貨はマルカ(KM)で、1㎞=約68円。モスタルではユーロが通用するが、サラエヴォではマルカしか通用しない。

最初の訪問地はモスタルで、近郊の風景。
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泊りは”MOGORJELO”。
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ホテルの窓から見た景色、モスタルの中央を流れるネレトヴァ川が見えます。
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夕食のビール。あれ、料理の写真がないや。
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観光8日目のスタートはモスタル近郊のクラヴィツェの滝から。森の中を分け入っていくと、ゴォーっという音が聞こえてきます。
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高さは25mほどですが、幅が広く迫力があります。
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メジュゴリエはカトリックの聖地の一つです。1981年6月24日日曜日に6人の子どもがマリアを目撃した事からこの寒村が一躍有名になりました。
とにかく大変な人出で、欧州を始め全世界から巡礼者が集まるようです。
マリア様はこういう恰好で現れたという。
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こんな立派な教会が建てられました。
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涙を流しているキリスト像、人々は代わる代わる銅像の足に触っていました。
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参道の商店です。早く言えば仲見世ですね。
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子供たちがマリアに出会ったなんて話、信じますかね。ウソでしょ。
キリスト教の事はよく知りませんが、イエスは復活しますがマリアも復活したんでしょうか、分からない。
マリアが子供たちに話しかけたのは、この地域だからクロアチア語だったのかな。マリアはクロアチア語が話せるんでしょうか、分からない。
キリスト像の涙にしても、雨に当たって材料の一部が溶けだしたんだと思いますが。
以前イスラエル旅行記でこの手の事を書いたら、お叱りを受けたので止めておきましょう。

モスタルに到着、バスはこの教会の下あたりに駐車し、これから先は徒歩。
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この辺りからモスタルの旧市街が始まります。
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モスタルというのは「橋の守り人」の意味で、ネレトヴァ川に架かる石橋・スタリモストが中心となってこの街は発展してきました。オスマン朝時代の1566年に架橋。橋台を使わず両岸からのアーチ状にかかる橋は見た目の美しと共に、この時代の建築技術の高さを示すものです。
しかしボスニア紛争中の1993年にこの橋は破壊されてしまい。ユネスコの協力で2004年に復元されました。だからボスニア復興の象徴とも言えます。
橋の上は人で溢れ、渋滞してました。
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橋の上から見たネレトヴァ川の風景
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この橋の上から川へ飛び込む若者がいました。男の勇気を見せるんだそうで、見物人からヤンヤの喝采を浴びてました。
こういうのは阪神ファンだけじゃないんですね。
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画像中央のカラジョズ・ベコヴァ・ジャミーヤは1557年に建てられた寺院で、ヘルツェゴビナを代表するイスラム建築です。
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コスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤは、1618年に建てられたイスラム寺院です。
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ここで昼食、レストランは川の傍にありました。
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メインは、ウーン、思い出せない。
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橋の東側はムスリムの地域です。
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トルコ人の家は17世紀に建てられたオスマン朝時代の伝統建築。
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2階には当時の調度品が展示されています。
バスの駐車場の近くにあった建物でコンクリート部分だけが残されていましたが、銃撃の跡かと思われます。
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これでモスタルとお別れで、次は首都サラエヴォに向かいます。
by kanekatu | 2014-06-28 07:21 | ボスニア・ヘルツェゴビナ

憂きな中にも旅の空


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