ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(7)

5日目はキエフから黒海の街オデッサまで航空機での移動です。
早朝にホテルを出発、キエフ空港からウクライナ航空に搭乗、
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約1時間でオデッサ空港に到着。
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オデッサはウクライナ最大の港湾を備え、ウクライナを代表する工業都市、リゾート地としても知られています。 ロシア帝国時代には黒海に面する港湾都市であるオデッサはロシア帝国と外国の経済・文化の交流の拠点となっていました。
オデッサの名称は、この地に古代ギリシアの植民都市オデソスが存在するという誤認に由来するそうで、実際のオデソスはブルガリアに存在していたようです。
黒海といえば西側にはロシアとの紛争地域であるクリミア半島を控えているので、多少は緊張感があるかなと思っていましたが、そんな様子は微塵もない。
空港から昼食レトランへ直行。
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昼食のメイン。
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午後からはオデッサ中心部の観光。気温は30℃を越え、南部に来たことを実感します。
現地ガイドは若い男性で、年配の女性でないのはここだけでした。
ソ連崩壊の時には小学生の低学年だったとのこと。つまり昔のソ連の教育を受けていない年代なので少し質問。
「ソ連についてどう思う?」、答えは「ソ連時代の方が良かった。今もソ連に憧れている」。
「なぜ?」、答えは「みんなが平等だったから」。
「クリミアがロシアに編入されてしまったが、どう思う?」、答えは「クリミアの人たちが羨ましい」。
う~ん、意外な回答。
ウクライナ独立後、オデッサは経済的に困窮した時期があり、そういう思い出が残っているのでしょうか。あるいは彼自身がロシア人かも知れませんが。
これは他の地域のガイドに訊いたことですが、ソ連時代は医療費が無料だったというのが大きいようです。
今も公立病院に行けば診療費は安いそうですが、優秀な医者がみな私立に移ってしまっているので技術が低く、まともな医療を受けようとすれば私立の医療機関に行かねばならない。そうすると、バカ高い医療費を支払わねばならないのだと。
私たちは社会主義の否定的面ばかり目が行くのですが、本来持っている良さもあったということかな。
ただ、私が今まで訪れた旧ソ連の国では、こうした声には接して来なかったので、ベラルーシやウクライナ独特のものかも知れませんが。

オデッサ市内のトラム。交通渋滞の原因になっていて廃止の声もあるそうです。
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市内の様子は、いかにもリゾート地らしい風景です。
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プリモールスキー並木通り、木陰のベンチはカップルで一杯。
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通りの西端にかかる橋が愛の橋。恋人たちや新郎新婦は愛の誓いとして橋の欄干に南京錠をかけていった事からこう呼ばれてきました。南京錠は数が多すぎるので、橋の袂に南京錠掛け専用の格子が立てられています。
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黒海です。名前の由来は、ギリシアからはるばるこの地に来た人が、天候が悪かったので海面が黒く見えたので黒い海と名付けたそうです。この日は好天だったので海も真っ青でした。
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美術館。
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中央広場。
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ポチョムキンの階段。
1837年から1842年にかけて建設された階段。最上段の幅は12.5m、最下段の幅は21mと下に向かうにつれて広くなっています。
下から見上げると踊り場は見えず、
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上から見下ろすと踊り場は見えるが段は見えない。
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これが踊り場。こんなに広い。
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オデッサを訪れていたセルゲイ・エイゼンシュテインは、この階段にインスピレーションを得て『戦艦ポチョムキン』の制作に取り掛かったことからこの名が付きました。
この階段を赤ちゃんの乗せた乳母車が落ちてゆく場面は衝撃的でした。
今ではこの映画を見た事がない人も多いでしょうが、階段は現在もオデッサ観光の中心です。


中央広場に立つリシュリュー像。
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この地に長官として就任したリシュリューによって、オデッサの都市計画が進み現在のような街になりました。
オデッサの開発にあたって必要な石材は現地で調達されました。石材の採掘跡として1,000kmにわたる地下道が残され、第二次世界大戦期に地下道はパルチザンの拠点となりました。
プーシキン像。
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プーシキンは一時期ここオデッサに滞在していました。
オペラ・バレエ劇場は、1887年に建てられました。
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オデッサ中央駅。
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夕食は久々の魚料理です。確か鯖だったと思います。
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泊まりのホテルは、アレクサンドロフスキー。
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Commented by saheizi-inokori at 2017-08-13 10:51
日本も規制だらけ、社会主義国だと言われた頃の方が新自由主義で壊された今よりいい時代だったと言えるのかもしれないです。
一見平和なウクライナの自然の陰に人間の陰惨な戦いがあるのですね。
Commented by kanekatu at 2017-08-13 11:42
佐平次様
オデッサはドイツ占領下レジスタンス運動が起こり、長期におよぶ戦いがありましたが、建物の多くは破壊され28万人という犠牲者を出しています。
体制が変わることにより暮しが良くなる人もいれば、その反対の人も少なくなかったのでしょう。ガイドの説明を聞いて、そう思いました。
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by kanekatu | 2017-08-13 07:19 | ウクライナ | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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