クロアチア・スロベニア旅行記(6)
2008年 05月 30日
先ずは「お約束」の旧市街全景の写真を。
青い海と赤い屋根の対比がとても美しく、さすが「アドリア海の真珠」と称えられるだけのことはあります。それに後方に見える山々が又良い雰囲気を醸し出しています。
玄関口にあたる旧市街西側のピレ門から入場します。
橋を渡って最初に目に入るのが堅牢な城壁と要塞です。これが旧市街の周囲をぐるりと取り囲んでおり、先ほどの全景写真との落差を感じます。
実はこの城壁と要塞こそが、ドブロヴニクの歴史を語っているのです。
ここはクロアチアの他の都市とは大きく異なった歴史を辿ってきました。町が誕生したのは7世紀とされ、当時の名前ラグーサ共和国は交易によって繁栄しようとしていたのですが、アドリア海の制海権を奪うべくヴェネツィア共和国が虎視眈々と狙いを定め、戦いを挑んできます。
ラグーサ共和国は他国への領土拡張には全く興味がなく、城壁をめぐらし専守防衛に達すると同時に、外交交渉によって名目上は支配下にされながら、実質は自治を貫きます。
十字軍のドサクサで13世紀にはヴェネツィア共和国により実効支配されますが、14世紀にハンガリー帝国の支配に移管されると又自治を回復します。
しかしラグーサ共和国が壊滅的な打撃を受けるのは戦争ではなく、1667年に起きた大地震で、この時町の殆んどが崩壊します。
その後一度復旧しますが、今度はナポレオンによって降伏させられ、ラグーサ共和国は完全に消滅してゆきます。
城壁だけは幾多の戦歴や地震に耐え、今日その姿を私たちの前に見せています。
ピレ門を入って直ぐ左にフランシスコ会修道院があります。
14-15世紀にかけて建てられたもので、現在の建物は大地震の後再建されたものです。
ロマネスク様式の美しい回廊です。
中庭だけは14世紀に造られたままの状態です。
ドブロヴニクの歴史で忘れてはならないのが、1991年の旧ユーゴスラヴィア軍の攻撃による街の破壊で、この時危機にさらされている世界遺産リストに載ってしまいました。しかしその後驚異的な復旧が行われ、今ではどこがオリジナルで、どこが修復されたのか区別がつきません。
この修道院では、その時の攻撃で打ち込まれたミサイルや爆弾をこうして展示し、戦乱を戒めているのです。
東西に走るメイン道路はプラツァ通りといい、突き当たりにルジャ広場があり、この付近に多くの歴史的建物が集まっています。
かつての海の玄関口ルジャ広場の脇に建つのがスポンザ宮殿であり、この建物だけが大地震の被害を免れています。1516年に建てられ、当時は税関事務所でした。その後文化人サロンとなり、今は古文書館として使われています。
総督邸はラグーサ共和国総督の住居と同時に、共和国の評議会や元老院など行政機関が集まっていました。15世紀にゴシック様式によって建てられましたが、その後幾度かのルネッサンス様式による補修が行われ、両様式が融合した建物となっています。
現在は文化歴史博物館として内部が公開されています。
大聖堂は12世紀に創建されたそうですが、現在の建物は17世紀にバロック様式で再建したものです。
旧港はドブロヴニクの海の玄関口で、この場所が街の繁栄を支えてきました。かつてはこの場所にアルセナルという造船所がありましたが、今は3つのアーチがその面影をとどめています。
現在は遊覧船や連絡船の船着場となっています。
写真の左側の娘さんが傘を抱えていますが、前日は天気が悪くヒヤヒヤしていたのですが、ドブロヴニク観光の日は快晴でほっとしました。日頃の行いが良い証拠ですね。
城壁は周囲が約2kmありますが、ここから見る旧市街が最も美しい。赤い屋根とアドリア海の青の対比が見事です。
城壁の突端には巨大な要塞が聳え立っています。
上から見たプラツァ通りです。
昼食はロブスターでしたが、観光の後で青空の下で飲むビールの味は、また格別でした。
スロベニアもクロアチアも、ビールやワインがとても美味で、アルコール好きには堪りません。
レストランの可愛いいウエイトレスです。
ドブロヴニクはさすが見所が多く、堪能しました。
午後は海岸を南下し、国境を越えてモンテネグロのコルトに向かいます。