箱根「紗ら」に泊まる(2017/9/12_13)

9月12日より箱根湯本温泉「月の宿・紗ら」に1泊。
温泉での宿泊はとにかく何もせず、お湯に浸かってゴロゴロするだけと決めている。
従来は温泉といえば旅館に泊まることにしていたが、今回は妻の希望で洋室のある施設ということでここ「紗ら」にした。
というのは、和室の場合どうしても避けられないのが布団の上げ下げだ。
そこ行くと洋室ならチェックインからチェックアウトまで気兼ねなくごろ寝していられる。
自宅もベッドなので、今ではベッドの方が馴染みが良くなってしまったこともある。
温泉+和食+洋室という組み合わせが希望にかなったというわけだ。
「紗ら」は箱根湯本駅からゆっくり歩いて15分ほど、早川の畔にある。
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チェックインはホテルと同様にフロントで手続きしてから鍵を貰って部屋へ。
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露天風呂付きということだったが、広めのベランダにバスタブが設置されているという感じだが、思ったより開放感があった。
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向かい側は山だ。
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特別サービスとして、室内の冷蔵庫の中にある飲み物は無料ということだったが、ミネラルウオーターと缶ビールが一人一本ずつしか入ってなかった。
先ずは大浴場で温泉となったが、かなり狭い。他の貸し切り風呂が2か所あったが、使用せず。
浴場の出入り口にはソフトドリンクのコーナーがあり、これも自由に飲める。
入浴後の屋上庭園に出たが殺風景で、フリードリンクの缶酎ハイを飲んで部屋に戻る。

夕食は5時半と7時半の2回に分かれていて、当方は5時半の回に。
食事会場はレストランだったがあまり高級感はなく、居酒屋風。
飲み物はアルコール類を含め飲み放題(70分間)で、酒好きには助かる。
夕食の前菜。
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刺身。
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土瓶蒸しは松茸と鱧。
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焼き魚。
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メインのしゃぶしゃぶで、当方は海鮮しゃぶしゃぶを選んだ。蟹、金目鯛など。
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しゃぶしゃぶの野菜。
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締めの饂飩。
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スイーツ。
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翌朝の朝食。玉子焼き、蒲鉾、香の物など。
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魚は網で焼いて食べる。
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野菜類は蒸篭蒸しで。
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他に温泉玉子、ご飯、汁が出た。

全体的な感想。
【部屋】
ベッドはセミダブルでゆったりとしており快適だった。
部屋の露店風呂は、バスタブが座って足を伸ばせる程度の大きさで、大浴場よりこちらを愛用。
室内の装飾は高級感は無かったが、機能的だった。
【大浴場】
脱衣所も浴場も狭い。とても大浴場とは言い難い。
露店風呂も三方と天井に囲まれ、開放の面には目隠しパネルがあり、「露店」には程遠い。
一番いけないのは、お湯が常に給湯されていないこと。給湯口から断続的にお湯が出るが、この時間が短い。
温泉というよりは、小型の銭湯というイメージだ。
温泉にたっぷりと浸かりたい人には、ここは不向き。
【食事】
メニューはよく工夫されていて、量も過不足なかった。
ただ、焼き物や煮物の味付けは、他の同等レベルの旅館に比べ劣る。
客層は若いカップルが目立ったが、若い人向きな施設といえよう。


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# by kanekatu | 2017-09-15 16:40 | 伊豆・箱根 | Comments(0)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(10・最終回)

7日目午後の観光はオルヘイ・ベッキにある、旧オルヘイの洞窟修道院です。
中世にキリスト教の僧侶たちが世界各地に布教に向かいますが、13世紀ごろにこの地に修道院を作ったようです。随分と辺鄙な場所にと思うでしょうが、修業の場所としては最適だったのでしょう。
18世紀ごろに一度はここを離れたようですが、現在は修道士がいて修業しています。

入り口は人ひとりがやっと通れるほどの広さ。
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ここは修道士たちが生活していた場所で、7人が暮らしていたそうです。
天井が低くかがまないと歩けない。
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丘の上に教会が見えてきました。最近建った教会だそうですが、この修道院とは直接関係がないそうです。
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確かに新しい。
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ただ、昼食でのワインがぶ飲みが効いていたせいか、ガイドの説明も添乗員の通訳も聞いているこっちも、みな曖昧模糊だったのは否めません。

一つだけ思い出しました。
ガイドに、ソ連時代のKGBは怖くなかったかを訊いてみましたら、答えは「私は何も悪いことしなかったから、怖くなかった」。
悪名高いKGBも、体制側にいる人間や体制批判をしない人間には手出しをしなかったのでしょう。
もしかすると、昔のソ連が良かったと言っている人たちって、そいう人たちだったのかも知れません。


ここ今回のツアーの全ての観光は終了しました。
夕食は、近くの村Trebujeni(トレブジェニ)の”casa din lunca”というヴィラでとることになりました。
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ここが入り口で、右側が宿泊所、左奥にオープンエアーの食卓が備えてあります。
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プールもあって、なかなか立派なヴィラです。この日の家族連れが利用していました。
後で調べたら、日本からも予約できるんです。でもここまで来るのが大変ですね。
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夕食の前菜です。
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ここでもワインは無料で飲み放題。昼に飲んだワインがそろそろさめてきた頃で、また乾杯。
空になれば、従業員がピッチャーに入れてどんどん運んでくれます。
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夕食が終わると、モルドバの歌と踊りを披露してくれました。
家族経営のようで、子どもたち総出の歓迎です。
真ん中の2歳の女の子が大人気でした。
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最後は、私たちも一緒に踊りの輪に入って盛り上がり。
もちろん私も輪の中に入りましたよ。若い女性と手をつなぐなんて機会は、滅多にありませんからね。
お陰ですっかり酔いが回ってきました。
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♪酒は美味いしネエちゃんはきれいだ、うっわー、うっわー、うっわっわー♪

この村ではまだ馬車が使われています。
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こうした教会がある所を見ると、比較的大きな村なのでしょう。
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バスでキシナウに戻ります。
途中の日没風景。
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泊まりはキシナウのブリストルセントラルパーク。
機能的な良いホテルでした。
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全工程が終了し、復路はキシナウ空港から出発、モスクワ経由で成田着です。
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帰着便では、装置の故障とやらでエンターテイメントは利用できず、モニターも消えたまま。
機内食も往路と比べるとかなり落ちました。上から前菜、サラダ、メイン。
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ここら辺りがアエロフロートらしさでしょうか。


さて、この連載も今回が最終回となります
全体的には、期待していたより楽しい旅行となりました。
どこの国でもそうですが、来てみないと分からない事って沢山あります。
今回の4ヶ国は、特にそれを感じました。
訪問した4か国はいずれもソ連崩壊まではソ連邦の一員で、崩壊後にそれぞれ独立を果たしました。
しかし、未だに旧ソ連の残影が見て取れるという共通点がありました。それはEUとロシアの境界にあるという地政学的なものかも知れません。

最後までお付き合い頂いた方に感謝します。
―終り―

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# by kanekatu | 2017-08-18 10:24 | モルドバ | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(9)

6日目の夕方、沿ドニエステルを出国し、最後の訪問国モルドバに入国。
モルドバはヨーロッパで最も貧しい国です。アパートも今まで通ってきた3国に比べ簡素な印象です。
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真っ直ぐに夕食レストランへ。
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前菜。
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メインはシャケの揚げ物でした。
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ここでモルドバの概要を説明します。
正式国名は、モルドバ共和国。
国旗は、ルーマニアの国旗にモルドバ国章を配したもの。
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面積は約3万4千km2で九州よりやあや小さい。
地図は下記の通り。
西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接している。
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人口は、約290万人。
首都はキシナウ。
政体は、共和制。
民族構成は、モルドバ人が78%、ウクライナ人が8%、ロシア人が6%、その他。
宗教は、ロシア正教、ルーマニア正教。
言語は、モルドバ語(ルーマニア語)とロシア語。
一人当たりGDPは、4666ドル。
通貨は、モルドバ・レウ (MDL)。


現地ガイドに、これだけルーマニアとの関係が深いのなら、なぜソ連崩壊後にルーマニアと統一しなかったのか、訊いてみました。
ガイドは大変いい質問ですと言ってから、答えはルーマニアが当初からEU加盟志向だったのに対し、モルドバ国民の間では反対の声が強かった。
現在はEU加盟を目指しているが、経済状況が悪く財政基盤も弱いため難しい。国民の間では、EU加盟によりインフレが起きて物価が上昇することを警戒する声も根強いそうです。


7日目の午前中は首都キシナウの見学です。
中央広場。
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凱旋門。
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シュテファン大公の像。15世紀のモルドヴァ公国の公で、シュテファン大公と呼ばれています。
反オスマン帝国闘争を展開し、ローマ教皇から「キリストの戦士」とたたえられた聖人でもあります。
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正教の大聖堂と、手前は鐘楼。
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中心部にあるシュテファン・チェル・マレ公園。
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いかにも首都の中心部らしい、落ち着いた佇まいを見せていました。


次は昼食を兼ねてのミレスチ・ミーチワイナリーの見学です。
ここのワインセラーは地下100mにあり、全長が120kmという途方もない広さです。その一部を見せて貰いました。
ワインの樽で、かつてはこうした木製のものが使われていました。
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今ではこうした容器に詰められています。
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膨大な数のボトルが寝かれています。
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特別に契約すれば、この様に個人がセルを貸し切ることができます。
良かったら、あなたもどうですか?
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入り口にあるワインの噴水、かと思ったら中身は水でした。
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ソ連時代は、ワインはここモルドバで集中的に生産していたようです。
ゴルバチョフ時代には、ワインを飲むと働かなくなるという理由で、このワインセラーの全てのワインを廃棄させらたそうです。
でも秘密の倉庫を作って一部のワインは保管し続けたとか。
映画になりそうですね。

さあ、いよいよお待ちかねのワインの試飲会。何種類かのワインのボトルが並び、係員からそれぞれの説明がありました。その後は各自のテーブルに置かれたグラスに、次々とワインが注がれます。
説明が終わると係員はボトルを置いたまま出て行き、ここから後は飲み放題。テーブルに並んだおつまみを食べながら、あれだこれだと言いながらグラスを飲み干していきます。
終りの頃は、全員がかなり出来上がっていました。
写真が無いのは、撮る暇がなかったからです。
食事のメイン。
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おまけに、全員に赤白ワインフルボトル1本ずつのお土産付、もう天国でしょ。


バスの中で爆睡しながら、次の観光地へ。
次回が最終会です。

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# by kanekatu | 2017-08-17 11:55 | モルドバ | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(8)

6日目はウクライナのオデッサを出発し、最後の訪問国モルドバに向かいます。
その前に、モルドバの中にあるもう一つの独立国。沿ドニエステルを訪れました。
下の地図に示したように、ドニエステル川の東岸で東側はウクライナと国境を接しています。長さはおよそ200km、幅は一番細い所で4kmという細長い国土の国です。
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18世紀にロシア帝国は、西の国境であったこの一帯を防衛する意味もあってロシア人、ウクライナ人が移住させました。
ソ連時代はソ連を構成する国の一つとなりましたが、ソ連崩壊後にモルドバ民族主義の昂揚により、モルダビアからモルドバへの国名変更や主権宣言が行われました。
これに対して、1990年にドニエストル川左岸のロシア語系住民が「沿ドニエストル共和国」として独立を宣言。1992年にはトランスニストリア戦争に発展しましたが、その後和平協定が締結され、ロシア、モルドバ、沿ドニエストル合同の平和維持軍によって停戦監視が行われています。
平たく言えば、ルーマニアの影響の強いモルドバに対して、親ロシアの住民が分離独立をしてしまったということです。
何だか旧ユーゴに似てますね。
緩衝地帯を通過した感じでは、停戦監視は主にロシア軍によって行われている様子で、ここでもロシアの影響力が及んでいるなと思いました。

国際的な承認は得ていないとはいえ独立国ですから、国境ではウクライナから出国しモルドバへ入国。次いでモルドバを出国し、沿ドニエステルへの入国手続きを終えてこの国に入ってきました。
正式国名は、沿ドニエストル・モルドバ共和国。
国旗。
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言語は、看板を見る限りではキリル文字一色で、会話もロシア語を多く使われているようです。
首都は、これから向かうティラスポリ。
面積は、4162km2.
人口は、47万5千人。
通貨は、沿ドニエストル・ルーブル (PRB)。
一人当たりGDPは不明ですが、モルドバよりは高いと推定されています。

入国して先ず目に付くのは一面のブドウ畑です。
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ヒマワリの栽培も行われています。
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ドニエストル川。
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先ずは昼食レストランへ。
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もちろん先ずビールです。料金は本来はこの国の通貨で支払うんですが、便宜的にモルドバの通貨を認めてくれました。
昼食のメイン。
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美人のウエイトレス。
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午後からはティラスポリ市内の観光。
市議会の前にはレーニンの胸像が置かれていました。国会の前は立像でした。
未だレーニンは死なず、といった所でしょうか。
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アレクサンドル・スヴォーロフの像。
ティラスポリは1792年に、第二次露土戦争を戦ったロシア帝国の軍人アレクサンドル・スヴォーロフによって建設されました。
建国の英雄ですね。
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トランスニストリア戦争の慰霊碑は、モルドバからの独立闘争で犠牲になった人々を慰霊する碑です。
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幹線道路に立てられた看板には、国章が描かれています。旧ソ連の国旗がデザインされていて、この国の性格を表していうようです。
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正教会。
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アパートはソ連スタイル。
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これは何かの政府機関のオフィスだと思います。
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ドニエストル川の河岸では、沢山の人が水遊びを楽しんでいました。
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この後、地元のスーパーに立ち寄り、買い物をしてレジでモルドバの通貨を出したら拒否されてしまいました。
昔のソ連に迷い込んだような、不思議な国でした。

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# by kanekatu | 2017-08-15 11:03 | 沿ドニエステル | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(7)

5日目はキエフから黒海の街オデッサまで航空機での移動です。
早朝にホテルを出発、キエフ空港からウクライナ航空に搭乗、
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約1時間でオデッサ空港に到着。
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オデッサはウクライナ最大の港湾を備え、ウクライナを代表する工業都市、リゾート地としても知られています。 ロシア帝国時代には黒海に面する港湾都市であるオデッサはロシア帝国と外国の経済・文化の交流の拠点となっていました。
オデッサの名称は、この地に古代ギリシアの植民都市オデソスが存在するという誤認に由来するそうで、実際のオデソスはブルガリアに存在していたようです。
黒海といえば西側にはロシアとの紛争地域であるクリミア半島を控えているので、多少は緊張感があるかなと思っていましたが、そんな様子は微塵もない。
空港から昼食レトランへ直行。
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昼食のメイン。
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午後からはオデッサ中心部の観光。気温は30℃を越え、南部に来たことを実感します。
現地ガイドは若い男性で、年配の女性でないのはここだけでした。
ソ連崩壊の時には小学生の低学年だったとのこと。つまり昔のソ連の教育を受けていない年代なので少し質問。
「ソ連についてどう思う?」、答えは「ソ連時代の方が良かった。今もソ連に憧れている」。
「なぜ?」、答えは「みんなが平等だったから」。
「クリミアがロシアに編入されてしまったが、どう思う?」、答えは「クリミアの人たちが羨ましい」。
う~ん、意外な回答。
ウクライナ独立後、オデッサは経済的に困窮した時期があり、そういう思い出が残っているのでしょうか。あるいは彼自身がロシア人かも知れませんが。
これは他の地域のガイドに訊いたことですが、ソ連時代は医療費が無料だったというのが大きいようです。
今も公立病院に行けば診療費は安いそうですが、優秀な医者がみな私立に移ってしまっているので技術が低く、まともな医療を受けようとすれば私立の医療機関に行かねばならない。そうすると、バカ高い医療費を支払わねばならないのだと。
私たちは社会主義の否定的面ばかり目が行くのですが、本来持っている良さもあったということかな。
ただ、私が今まで訪れた旧ソ連の国では、こうした声には接して来なかったので、ベラルーシやウクライナ独特のものかも知れませんが。

オデッサ市内のトラム。交通渋滞の原因になっていて廃止の声もあるそうです。
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市内の様子は、いかにもリゾート地らしい風景です。
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プリモールスキー並木通り、木陰のベンチはカップルで一杯。
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通りの西端にかかる橋が愛の橋。恋人たちや新郎新婦は愛の誓いとして橋の欄干に南京錠をかけていった事からこう呼ばれてきました。南京錠は数が多すぎるので、橋の袂に南京錠掛け専用の格子が立てられています。
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黒海です。名前の由来は、ギリシアからはるばるこの地に来た人が、天候が悪かったので海面が黒く見えたので黒い海と名付けたそうです。この日は好天だったので海も真っ青でした。
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美術館。
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中央広場。
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ポチョムキンの階段。
1837年から1842年にかけて建設された階段。最上段の幅は12.5m、最下段の幅は21mと下に向かうにつれて広くなっています。
下から見上げると踊り場は見えず、
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上から見下ろすと踊り場は見えるが段は見えない。
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これが踊り場。こんなに広い。
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オデッサを訪れていたセルゲイ・エイゼンシュテインは、この階段にインスピレーションを得て『戦艦ポチョムキン』の制作に取り掛かったことからこの名が付きました。
この階段を赤ちゃんの乗せた乳母車が落ちてゆく場面は衝撃的でした。
今ではこの映画を見た事がない人も多いでしょうが、階段は現在もオデッサ観光の中心です。


中央広場に立つリシュリュー像。
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この地に長官として就任したリシュリューによって、オデッサの都市計画が進み現在のような街になりました。
オデッサの開発にあたって必要な石材は現地で調達されました。石材の採掘跡として1,000kmにわたる地下道が残され、第二次世界大戦期に地下道はパルチザンの拠点となりました。
プーシキン像。
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プーシキンは一時期ここオデッサに滞在していました。
オペラ・バレエ劇場は、1887年に建てられました。
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オデッサ中央駅。
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夕食は久々の魚料理です。確か鯖だったと思います。
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泊まりのホテルは、アレクサンドロフスキー。
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# by kanekatu | 2017-08-13 07:19 | ウクライナ | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(6)

キエフは東ヨーロッパ最古の都市であり、キリスト教の聖地でもあります。
それだけに歴史的な教会や修道院が数多く存在します。
キエフの中心部に立つのは聖ソフィア大聖堂。
ウクライナ最初の中央政権国家キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立されました。その後何度か修復を重ね、現在の姿になったのは1740年で、外部はウクライナ・バロック様式に塗り換えられています。
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1740年の修復の時に建てられた塔。
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ペチェールシク大修道院は1051年の建立。ソフィア修道院とともに世界遺産に登録されています。
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その門。
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聖ムィハイール修道院は、黄金ドーム修道院として親しまれています。
修道院は1108年から1113年までの間の建立された中世キエフ最大の教会です。
1240年のモンゴル軍と、1482年のタタール軍の略奪によって大きな損害を蒙ったが、1469年にウクライナ正教会の修道院として復元され、1620年以後キエフ主教庁の本拠となりました。
ソ連時代の反宗教政策により建物が破壊されましたが、ウクライナ独立後の1998年に修復されました。
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聖アンドリーイ教会は1747年から1754年までの間に建立。
ソ連時代には閉鎖されていましたが、ウクライナ独立後のウクライナ独立正教会所属となりました。
現在は工事中でした。
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ウクライナの教会や修道院は、ポーランド支配下ではカトリックに改宗させられたり、ソ連時代は閉鎖させられたりといった悲劇的な経緯をへて今日に至っています。
市内のその他の施設を紹介します。

独立運動の犠牲者の慰霊写真、一人一人の名前と顔写真が掲示されています。
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その脇に立っていた十字架。変わった形をしているのは、犠牲者の母親の気持ちを表したものだそうです。

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外務省。
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中央公園付近。
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ここからキエフ市内の風景をいくつか。
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これは珍しい、アール・ヌーヴォー様式の建物でしょうか。でも、ちょっと趣味が悪い。
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ガイドに日本についての印象を訊いたら、殆ど知識はないがヒロシマ、ナガサキ、フクシマの事は聞いたことがあり、後は優れた技術を持った国だと言う印象だと答えていました。
夕食のレストラン。
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ウクライナ製ビール。この店は感心なのは、グラスまで冷えていたことです。
これが2ドルほどで呑めるんですから、天国です。
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ウクライナ風ボルシチ。
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メインはキエフ風カツレツ、チキンカツでした。
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スイーツは果実風味のアイス。
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泊まりはホリディインキエフ。
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# by kanekatu | 2017-08-11 10:27 | ウクライナ | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(5)

3日目の昼にベラルーシを出国、陸路でウクライナに入国。出入国審査は思ったよりスムースにゆき、2時間程度で済みました。
ウクライナに入国して最初に感じたのは道路の違いです。ベラルーシに比べ道路の整備が悪いようで、バスがガタガタと音を立てています。
ウクライナは最も標高の高い所で400m程度といいますから、国全体が真っ平なのです。
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先ずは昼食。
ここもビールが安い。ミネラルウオーターと値段が変わらないので、ついつい水代わりにビールを飲んでしまう。
ビールによく合う前菜、ボリュームがあって、これだけで腹一杯になりました。
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メインは、半分位しか食べられない。
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バスはこの後、クレヴァニに向かいます。

ここでウクライナの基本情報を紹介します。
正式国名はウクライナ共和国。
国旗。
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面積は、60万3700km2(日本の約1.6倍)
人口は、4474万人
首都は、キエフ。
政体は、共和制。
民族構成は、ウクライナ人78%、ロシア人17%、その他。
宗教は、ウクライナ正教、ロシア正教、ウクライナ・カトリック、ユダヤ教など。
言語は、公用語はウクライナ語だが東部ではロシア語が使われている。
通貨は、フリヴニャ (UAH)
一人当たりGDPは、8,650ドル
地図は下記の通り。
東にロシア、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシ、南に黒海を挟みトルコと国境を接している。
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ウクライナはキエフ大公国が始まりで、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、リトアニア大公国やポーランド王国に属していました。17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後ロシア帝国の支配下に入りました。第一次世界大戦後に独立しますが、ロシア内戦を赤軍が制しソビエト連邦内の構成国となります。1991年ソ連崩壊に伴って完全に独立しました。 歴史的・文化的には中央・東ヨーロッパの国々との関係が深いのですが、東部は永らくロシア支配下にあった関係から今もロシアの影響を強く受けています。

ソ連時代のウクライナでは、1930年代にスターリンによって引き起こされた人工的飢餓(ホロモドール)によって、推定で400万人から1400万人が死亡しました。
2006年にウクライナ議会は、「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定しました。
第二次世界大戦の独ソ戦ではウクライナが主戦場となり、甚大な被害を受けました。
欧州きっての穀倉地帯であるウクライナは、ドイツ、ソ連双方にとって重要な地域でした。ヒトラーはウクライナが手に入ればドイツ国民は飢えることがなくなると嘯いていました。

戦争の犠牲者は800万人から1400万人と推定されており、ウクライナ人の5人に1人が戦死しています。
ウクライナ系のユダヤ人やロマ人などの共同体は完全に破壊されました。
ウクライナの地は荒れ果て、700の市町と約2万800の村が全滅しました。

ソ連時代の1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原発事故では、国内外に大きな被害を与えました。ウクライナ国内の汚染地域には220万人ほどが住んでいて、事故後、汚染地域の外にスラブチッチという街が作られ移住しています。
国際原子力機関(IAEA)と世界保健機関(WHO)によって行なわれた調査によって明らかにされたことによると、この事故により直接的に56名が亡くなり、それ以外にもこの事故を原因とする癌によって4000名ほどが犠牲になったとされています。
2014年に起きたウクライナ騒乱とロシアによるクリミア自治共和国の編入をめぐる騒乱では、一般市民を含む死者は5000人にのぼり、欧州ではユーゴ内戦以来の規模の犠牲者を出しました。この問題は今も尾を引いています。

こうして見ていくと、ウクライナにとって旧ソ連・ロシアは正に踏んだり蹴ったりで、絶対に許すことのできない相手という感もあるのですが、果して今の人たちはどう考えているのでしょうか。

ウクライナでの最初の観光はクレヴァニです。
民家の様子ですが、日本とよく似てます。
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目的は、愛のトンネル観光。
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このトンネルはクレーヴェンとオルツィヴを結ぶ鉄道の線路上にあり、木々に囲まれたトンネルの美しい景観から人気の観光スポットとなっています。
何でもカップルがここを通ると願いが叶うんだそうですよ。
神秘的!なんて前評判でしたが、実際は天井部に相当する所から光が入っているし、第一、人が大勢でゾロゾロ線路の上を歩いていて、とても神秘的な感じはありません。
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添乗員に「これじゃ、世界ガッカリ名所だね」と言ったら、笑っていました。
この後、バスでリヴネに移動しホテル・ウクライナに宿泊。
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4日目はリヴネから首都キエフへの移動で、移動距離330km、移動時間4時間は今回のバス移動で最大です。
ウクライナでは今ヒマワリ栽培の真っ盛りです。遥か彼方まで広がるヒマワリ畑は壮観です。
映画「ひまわり」もここウクライナで撮影されました。
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午後1時過ぎにキエフに到着。
昼食レストラン。
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前菜。
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メインは肉料理でしたが、ちょっと洒落てました。
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キエフ観光は歴史的地区にある黄金の門からスタートです。
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最初の黄金の門が作られたのは11世紀で、町の境界線に立てられました。土塁を盛り、その上に赤い色にレンガや石を積み上げて塔とし、キエフがキリスト教の町であることを見せるために門上に受胎告知教会が造られました。
13世紀にモンゴル軍によって門は破壊され、そのままの状態で放置されていましたが、1832年に発掘調査が行われ史跡として保存されます。
1982年に黄金の門は復元され、新しい建物は遺跡をカプセルのように覆い隠しているそうです。
門を横から見た写真です。
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(この項続く)

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# by kanekatu | 2017-08-09 11:20 | ウクライナ | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(4)

2日目の最後の観光は、もう一つの世界遺産であるネスヴィジ城の見学。
ネスヴィジ地方一帯を支配していたラジヴィウ家が最初に城を建てたのは17世紀。18世紀に入って城の巨大化と内部装飾が進められ、今の様な形になったようです。
1770年代にロシア軍によって略奪され朽ちてしまいますが、1880年代にラジヴィウ家によって再建されます。
しかし、ロシア革命の後にラジヴィウ家は城を追われ、ソ連時代はサナトリウムとして使われてきました。
1994年になってようやく城の建造物群は国の歴史的・文化的保護区となり、11年後にユネスコの世界遺産に登録されました。
巨大な建物で、全景を撮ることが出来なかったので、他のサイトから借用して紹介します。
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門を入って濠をみながら歩くこと約10分。
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ようやく城が見えてきました。
左に見える橋を渡って入城します。
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橋の向こうから新郎新婦の一行がやってきました。世界遺産で結婚式を挙げるのが流行ってるんですかね。
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中庭に入ると、2階のバルコニーでも記念撮影。
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中は展示場になっていて、城に関係する調度品や食器類、衣装などが展示されていました。
この部屋は寝室ですが、17世紀にこうしたベッドが備わっていたのは珍しい例だそうです。
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冬の厳しい寒さに備えて、各室には大きな暖炉が備えてあります。
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食器類で、一番下にある皿は日本製。17世紀にはここまで運んで来ていたという事でしょうか。
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中庭の風景です。
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午後8時頃にホテルに戻り直ぐに夕食。
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何しろ暑い中を一日中歩いてきたので喉がカラカラで、先ずビールでしょう。
今回の旅行で有り難かったのは、ビールが安いことでした。500mlのジョッキが標準で国産ビールなら2ドル前後、安いでしょう。ベルギーからの輸入ビールだと倍ぐらい。テーブルワインなら150mlで3ドル程度、輸入品でも5ドルほどです。
私たち呑み助には助かります。
味は、ごく普通です。
欠点は、これはこの国に限らないのですが、ビールが出てくるのが遅いことと、店によってはあまり冷えていないことです。
「先ずビール!」というのは日本だけかな。
料理は、前菜(又はスープ)、メイン、スイーツのスリーコース。この日もそうでした。これ以外にはテーブルのバスケットに乗っているパン。内陸部なので、ほとんどが肉です。
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ロシア料理が基本なので、味はまあまあといった所でしょうか。



3日目の午前中は、ブレスト要塞の観光です。
1941年6月22日、ドイツによるソ連の侵攻に伴い、町はドイツ軍の攻撃を受けました。それに対しブレストの要塞は、激しく抵抗。抵抗は約1ヶ月続き、その抵抗の果敢さからブレストはソ連より「英雄都市」の称号を受けました。
ドイツ軍占領後、ナチスによりブレストのユダヤ人は多くが殺害されました。
1944年にはソ連により町は奪還され、戦後はソ連領になりましたが、ソ連崩壊に伴いベラルーシに編入されています。
ここでは、当時の戦闘の生々しい跡を展示し、防衛者たちを慰霊する記念碑やモニュメントが立てられています。
入り口。
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これが全体図で、二重三重の城壁で行われていました。
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防衛兵士のモニュメント。
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城門でこちらは守備側。
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こちらが攻撃側、ドイツ軍側です。銃弾跡は当時のままで、熾烈な戦いにあったのか分かります。
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記念碑には花が供えられていました。
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城壁の外側は濠になっていて、周囲には柳が植えられています。柳は悲しみの木だそうです。
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戦いに斃れた兵士のモニュメント。
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現地ガイドがここで強調していたのは、独ソ戦において旧ソ連の国々の多くが、一時的せよドイツ占領下に入り、ドイツ軍と共にソ連を攻撃していたという事実があることでした。
それに対してベラアルーシは、最初から最後までソ連の一員としてドイツと戦い勝ったということに誇りを持っていると語っていました。
しかし、私はこう思う。
それはスターリンがヒトラーの作戦を見誤り、初戦で大敗を喫した結果だった。
また、スターリンはロシアを守るために周囲の国に多大な犠牲を押し付けた結果でもあったと。
ただ、ガイドにはこうした情報は入っていないだろうし、論争しても決着はつかないでしょう。

一つだけ質問、「独ソ戦でベラルーシの国民の4人に1人がドイツ軍に殺されたということだが、いまドイツに恨みはないのだろうか?」。
答えは、「今のドイツには何も思っていませんし、ドイツとは友好的な立場です。今のドイツ人には責任がありません」。

ブレストの鉄道線路。ここが大事なのは、欧州からの線路とロシアの線路の幅が違うため、ここで車両幅の交換が行われるからです。
戦時中は、ロシア防衛の大事なカギになりました。
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原則的で愛国的なガイド・ナターシャとも、またベラルーシとも、ここでお別れです。
異論はあるけど、彼女の話はとても面白かったし興味深かった。
有難う。
予告ですが、今回の旅行で一番面白かったのはベラルーシでした。
この後のガイドは日本語をしゃべれず、添乗員を介しての会話になってしまうので、どうしても隔靴搔痒の感が拭えないのです。
でもまあ、最後までお付き合いください。

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# by kanekatu | 2017-08-07 10:33 | ベラルーシ | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(3)


旧ソ連の都市の特徴は、街のの中心部の目抜き通りを「レーニン通り」、中央にある広場は「レーニン広場」と相場が決まってました。ソ連崩壊後は、それぞれ「中央通り」「中法広場」に改名しています。
ここミンスクの中央広場です。レーニン像が置かれています。旧ソ連の国の中でも珍しいのではないでしょうか。地下鉄の駅名も未だに「レーニン広場」とか。
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ここでガイドに、いくつか質問してみました。
「国民はレーニンを今でも尊敬しているの?」、答えは「尊敬しています」。
「レーニンが間違っていたからソ連が崩壊してしまったのでは?」、答えは「間違いはありましたが、レーニンが目指していた理想は正しかった」。
「スターリンはどう? ベラルーシでも彼によって沢山の人が粛清されたよね?」、答えは「確かにスターリンは酷い事をしました。でも独ソ戦でナチスドイツに勝利した功績は大きい。」。
「独裁体制は良くないのでは?」、答えは「スターリンもレーニンも、あの時代にあっては必要な人だった。国によっては独裁は必要だ。ベラルーシも独裁と言われるが、現大統領が進めた政策によって国は上手くいっているし、国内の争いも起きていない。むしろ民主化した国々に戦闘が起きているではないか」。
「ソ連についてどう思っている?」、答えは「ソ連時代は良かった」。
「今の方が自由があって良いのでは?」、「ソ連について、外側から見るのと、私たちの様に中で暮らしていた立場から見るのとでは、見方が違う」。
「ゴルバチョフについてどう思う?」、答えは「ソ連を解体させたとんでもない人間」。
ガイドは続ける。「私の国籍はベラルーシだが、心はソ連人」。
どうです? なかなか説得力あるでしょ。
久しぶりに筋金入りの人の話を聞けましたよ。

聖霊大聖堂はバロック式の建物。1642年にカトリック教会の修道院として建てられたが1852年からロシア正教の教会となりました。ソ連時代の宗教弾圧で一時閉鎖されていましたが、その後に回復。現在はベラルーシ正教会の中心的教会となっています。
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聖シモン聖エレーナ教会は「赤い教会」と呼ばれています。
教会の敷地内には、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマの土がカプセルの中に入って埋められています。
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この教会の脇には、長崎から贈られた鐘が設置されていて、ツアー参加者一人一人が鐘をついてきました。
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旧ソ連時代にウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故、当時は強い南風が吹いていたため、放射性物質を含んだ灰の多くがベラルーシに降ってきました。汚染地域の住民は国の費用で他へ移住し、その後も定期的な健康診断を受けています。
ベラルーシでは放射性降下物の70%が国土の四分の一に降り、50万人の子供を含む220万人が放射性降下物の影響を受けたと報告されています。ベラルーシ政府は15歳未満の子供の甲状腺癌の発生率が、2001年には1990年の2000例から8,000-10,000例に急激に上昇したと推定しています。
こうした事がらから核爆弾や原発事故に対する国民の関心が高まったとのことです。

中央公園。
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中央広場をぐるりと巡ってみました。
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この他のミンスク市内の風景です。
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昼食は、マチャンカという地方料理で、豚肉のサワークリーム煮。
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次の観光は、世界遺産のミール城です。
ミール城は、15世紀末から16世紀初めにかけてミール村付近ゴシック様式の城として建設され、1568年に城はリトアニア大公国の大貴族であるラジヴィウ家の手に渡り、ルネサンス様式の城として完成しました。
その後、城はナポレオン戦争で損傷を受けましたが、19世紀末に修復され、第二次世界大戦中はドイツ軍に接収されゲットーとして使用されました。
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内部は展示場になっていて、上は甲冑(ヨーロッパ様式)、下は16世紀ごろの男子の服装ですが、日本と似たような帯を締めています。
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それより目に付いたのは、結婚式の多さです。こうしたカップルを何組も見ました。
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こちらは式の列席者たちでしょう。皆さん、着飾っています。
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門の外ではマーケットが開かれ、小さな木製の人形を購入。
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# by kanekatu | 2017-08-05 19:36 | ベラルーシ | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(2)

モスクワから1時間30分、予定より約1時間遅れでミンスク空港に午後8時半頃に到着。入国はロシアと共通なのでそのまま通関。空港はキレイでした。
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空港では現地ガイドのナターシャがお出迎え、以後ベラルーシを離れるまで彼女がガイドを務めてくれました。大学で4年間日本語を習い、1年間日本に語学留学しただけあってかなり流ちょうな日本語を話します。
余談ですが、今回ウクライナとモルドバの女性ガイドも皆ナターシャでした。愛称なので、本名は違うようです。
バスで40分、午後9時半だというのに、ようやく日没です。
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この日のホテル「ルネサンス」に到着。予想していたより設備の良いホテルでした。
カジノが隣接しており、カジノが禁止されているロシアから人を呼んでいるそうです。
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荷ほどきと翌日の準備を済ませて、12時頃に就寝。

ここで、ベラルーシの概要を紹介します。
地図。
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国旗。
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正式国名はベラルーシ共和国。
東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国。
面積は207,560km2で本州よりやや小さい。
人口は約950万人。
首都はミンスク。
政体は共和制、但し大統領権限が極めて強く独裁制とも言われている。
民族構成は、ベラルーシ人84%、ロシア人8%、その他。
宗教は、キリスト教のベラルーシ自治独立正教が多く、他にロシア正教、ローマンカトリック。
公用語は、ベラルーシ語、ロシア語。
通貨は、ベラルーシ・ルーブル (BYN)。
一人当たりGDPは、17,623ドル。
気温は7月の最高気温が25℃、最低気温が15℃程度でした。㎡国土の大半が森林と湖、畑なので湿度が適度にあり過ごしやすい。

私たちが学校で習った頃の国名は「白ロシア」でした。「ベラ」は「白」、「ルーシ」は「ロシア」を意味しています。
現地ガイドは「ベラ」を白い、純粋な、混じりっ気のないという意味があると説明していましたが、どうやらこの地域を支配していたモンゴルが中国の五行思想を持ち込んで、西(即ち白)のロシアという意味が語源のようです。
永らく親ロシアの立場でしたが、石油価格の一方的値上げをかわきりに関係がギクシャクし、現在は中国に接近しています。中国もまた東ヨーロッパへの足掛かりとしたという、双方の利益が合致しているようです。

2日目はミンスクの観光です。
ベラルーシは第二次大戦で独ソ戦の主戦場の一つとなり、国民の4人に1人が犠牲になるほどの打撃を受けました。街は破壊され尽くされ、戦後は戦前の街を復元するのではなく、スターリン様式とよばれるクラシック調の建物が並ぶことになりました。
市の中心部にある勝利広場に立つ、第二次大戦の勝利を記念した記念塔。
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柱の下部にはこの様なレリーフが彫られています。
後方に見えるのがスターリン様式の住宅で、主に高級官僚が住んでいるとか。ここでは未だ「スターリン」という言葉が活きてるんです。ガイドは、スターリンが建ててくれたと言ってました。
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これに対して、ソ連のフルシチョフ時代に、労働者のためにより狭い簡素な住宅を沢山建てていて、これはフルシチョフ様式とよんでいました。
ガイドの説明では、コルホーズが中心となって農産物を海外に輸出しているなどと、懐かしい単語が並びます。
昔のソ連にいる様な気分。

突然、ガイドが1枚の写真を掲げて、これ誰でしょう?
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答は、リー・ハーヴェイ・オズワルド。ジョン・F・ケネディ暗殺の実行犯とされる人物。アメリカ海兵隊除隊後にソ連に亡命、一時ミンスクで生活し現地の女性と結婚していたが、その後妻子を伴って米国に帰国し、暗殺事件を起こしたとされています。
アメリカとソ連の二重スパイの疑いも濃く、未だに謎の多い事件です。
閑話休題。

ミンスクの中央を流れるスヴィスラチ川の小島は「涙の島」と呼ばれ、ソ連時代に行われたアフガン出兵の兵士の慰霊碑が置かれています。
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手前にある橋を渡るのですが、橋の袂には国境を示す杭が立てられていて、国を出ていった兵士たちを象徴しているかの様でした。
ここから首都を流れるスヴィスラチ川の河岸に沿って歩き、周囲の景色を楽しむことにします。
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スターリン様式の建物に混じって、近代的な超高層ビルが建てられています。

トラエツカヤ旧市街区は、無機質な建物が多いミンスクの中で19世紀の建物を再現させようとボランティアたちの力で建てた街区です。
ここだけ周囲を切り離され、ひっそりとした佇まいを見せていました。
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戦争で街全体が崩壊した中で、この建物だけが奇跡的に残りました。ユダヤ教のシナゴーグで1階は男性用、2階は女性用として使われていたようです。
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戦前、ベラアルーシには沢山のユダヤ人が暮らしていましたが、その多くは収容所に送られ殺害されました。その数はミンスクだけでも10万人と言われています。
(続く)

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# by kanekatu | 2017-08-03 09:46 | ベラルーシ | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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