カテゴリ:パナマ( 3 )

南米北部旅行記その4(パナマ③)

ここで簡単にパナマの歴史を振り返ってみましょう。
パナマを最初に訪れたヨーロッパ人は、1501年のスペインの探検家バスティダスで、翌年にはコロンブスが探検しています。
1513年にバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが、始めてパナマ地峡を横断して太平洋側に到達してから、パナマは交通の要衝として、またスペイン人の居住都市として繁栄します。
1530年代には、スペインはパナマを拠点にしてインカ帝国を征服します。インカから奪い取った金銀財宝は、パナマを中継してスペイン本国へ持ち帰ったんですね。
1671年に、パナマシティはイギリスの海賊ヘンリー・モーガンによる焼き討ちにあい、壊滅状態になります。
その破壊されたパナマ・ビエホは、遺跡として世界遺産に登録されています。
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殆ど破壊し尽くされていますが、唯一大聖堂の鐘楼だけが、1619年の建設当時の面影を残しています。
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高さ33mの鐘楼のてっぺんから見た遺跡ですが、廃墟となっている様子が分かると思います。
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1821年、パナマは大コロンビアの一部としてスペインから独立しますが、今度はコロンビアから支配されるようになります。
この頃から米国が次第にパナマに関心を持つようになります。
1840年代以降、米国東部の人々の米国西岸への移住にパナマ地峡を利用したため、交通の要衝としてのパナマの重要性は高まったのです。
アメリカ東部の人間が全て馬車に乗って、西部を目指したわけではないんですね。いったんパナマまで船で来て、それからパナマ地峡を越えて、再び船で西海岸に向かったんでしょう。

1881年よりフランス人レセップスがパナマ運河の建設に着手しますが途中で頓挫し、1902年から米国がこれを引き継ぎます。
1903年パナマはコロンビアから独立しますが、これにはパナマ運河の権益を確保したい米国の後押しがありました。
この独立に伴い米国は、パナマ地域への使用料支払いと引き換えに、パナマ運河の建設権、運河地域の永久租借権及び排他的管理権を獲得します。さらに米国は、パナマ国内に混乱が生じた際には、混乱を解決するために介入する権利も得ました。この権利により米国は、パナマ内政への介入も可能となったわけです。
以後パナマは度々米国からの軍事介入が繰り返され、アメリカの影響下に置かれます。

第二次大戦後、スエズ運河がエジプトに返還されたのをきっかけに、パナマ国内でも運河の国有化を求める動きが活発になります。
米国は、自国の安全保障の立場からパナマ運河を手放したくないわけで、利害は真っ向から対立し、政治的混乱が続きます。
その象徴的事件としてあるのは、1980年代に起きたパナマの「ノリエガ将軍の軍事独裁」と、それに伴う米軍による「パナマ侵攻」事件です。

この事件は、表面的には当時のブッシュ(父)大統領が、麻薬密輸により不法な利益を上げていたノリエガ将軍を逮捕するという名目でしたが、元々ノリエガはアメリカの支援によって権力を握った人物でした。この辺りは、ビン・ラディンやフセインとよく事情が似ています。
一説には、ブッシュ大統領がCIA長官時代に、ノリエガの中南米撹乱協力の見返りにコロンビア産コカインの密輸入を秘密裏に容認していたため、大統領に就任した自分自身の政治生命を守るために、パナマ侵攻を命じたものとされています。
このアメリカの手口は、その後の湾岸戦争から、さらに息子のブッシュによるイラク戦争へと繋がってゆきます。
ブッシュ家というのは、父子二代にわたり、ロクなことをしないですね。

この事件を契機に、パナマは憲法を改正し軍隊を撤廃しました。
現在は警察力が主体の国家保安隊が、治安維持にあたっています。

米国としては何とか口実をつけて、運河返還後も引き続き軍隊をパナマに駐留させておきたかったのすが、最終的には20世紀の最後、1999年12月31日の正午にパナマ運河は返還され、駐留していた米軍は撤退しました。

現在のパナマ政府は、米国との関係が良好ですが、国民レベルでは対米感情はあまり良くないとされています。

パナマでの最後の夜は、食事をしながら民族音楽と舞踊を観賞しました。
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フィナーレは、観客も舞台に上がって踊りに加わっていましたが、この女性、冗談かと思うほどスタイルが良かった。
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街で歩いていると、こうした豊かなバストの女性が多く、当初は「ォォ」と反応していたツアーの男性たちも、そのうち馴れっこになってしまいました。
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今回でパナマ編は終了で、次回からベネズエラ編となります。
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by kanekatu | 2007-04-10 07:36 | パナマ | Comments(0)

南米北部旅行記その3(パナマ②)

サンブラス諸島から、パナマの首都パナマシティに戻り、ました。着陸直前に、眼下に見えたのはラス・アメリカ橋で、この橋で北米と南米がつながっています。パンアメリカンハイウエイがこの橋を通っていることになります。
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先ず世界遺産に登録されているパナマ旧市街、カスコ・ビエホを見学することになりました。
ここはフランス広場といい、フランス大使館が隣接しています。
広場の中央には、パナマ運河建設を最初に手がけたレセップスの像が置かれています。
レセップスはスエズ運河を開き、その後パナマ運河に着手しましたが資金が続かず途中で断念し、その後米国によって完成しました。
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フランス広場は海岸近くにあり、写真右手奥に見えるビル群は新市街の中心地です。
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独立の英雄、シモン・ボリバルの像が立つのはボリバル広場で、右手に見えているのはサンフランシスコ教会です。
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ボリバル広場の裏手にある通りで、こうした風景を見ると、いかにも中南米に来たという実感が湧きます。
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独立広場と
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その中心にある大聖堂です。
このカテドラルは、1688-1794年に建てられた、旧市街の中では最古で最大の建物です。
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次に私たちは、パナマ運河の観光に向かいました。
パナマ運河は、パナマ共和国のパナマ地峡を開削して、太平洋とカリブ海を結んでいる運河で、全長は80kmに達します。
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当初スエズ運河を拓いたレセップスが開発に着手したものの中途で断念し、アメリカ合衆国によって建設が進められ1914年に開通しました。
その後アメリカによる管理が続きましたが、1999年12月31日正午をもってパナマに返還され、現在はパナマ運河庁が管理しています。

運河はパナマの一番狭い部分で、高い山脈が無い場所を選んで開削したのですが、最大の難問は大西洋に比べ、太平洋側の海面が24cm高いということです。従って、単純に貫通させることが出来ないわけです。
この問題解決のため、この地域の豊富な降水量を利用して、標高の高い部分を船の水位を上げて通過させるために閘門(こうもん)を採用しました。
船をいったん標高26mの人造湖であるガトゥン湖にまで徐々に上げ、その後徐々に高さを下げてゆくという方法です。
この結果パナマ運河には、三つの人造湖と三つの閘門があります。

私たちは、太平洋側のミラ・フローレス閘門を見学しました。
写真では左側太平洋からタンカーが閘門に入ってきます。
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その後閘門が閉じられ、注水されると水位が上がってきます。
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水位がミラ・フローレス湖の水位に達すると、閘門が開けられ右の船のように湖に進みます。
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写真で見て分かるように、大型船になると運河の幅ギリギリに船が通過することになります。
運河の幅が33.5mであるのに対し、船の最大幅は32.3mですから、そのギャップはほんのわずかです。
船舶が自力で航行できないため、写真のように専用の電気機関車を用いて船を牽引しています。
運河の両側に線路が敷設され、両側の機関車からそれぞれワイヤーで引っ張って船を水路の中央になるように保ちながら牽引します。この機関車は日本の製品です。
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パナマ運河は、想像していたより遥かに難しい技術を駆使して、運航されていました。
2003年実績で通過船舶数は11725隻、通行料は6億6600万ドルといいますから、パナマ経済に大きく貢献していることになります。
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by kanekatu | 2007-04-07 19:10 | パナマ | Comments(0)

南米北部旅行記その2(パナマ①)

パナマの正式国名はパナマ共和国、首都はパナマシティです。
北海道より小さなパナマですが、南北アメリカの接続点にあたるため、世界中にその名が知られています。現在は安保理非常任理事国の一員でもあります。
北はコスタリカ、南はコロンビアと国境を接し、西側は太平洋、東側はカリブ海(大西洋)です。国土の大半が山脈地帯であり、平地農業は廃れています。
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その代わり、地理的な特徴から南北アメリカ諸国と欧州や東洋との貿易拠点として重要な役割を果たしていて、貿易と金融が発達しています。

私たちは、前日の深夜パナマシティに着き、翌日の早朝にはホテルを出発、先ずアルブロック空港に向かいました。
パナマ運河が米国の管理下にあった時代には、運河を中心に米軍が駐留していましたが、返還後は最終的には米軍が完全に撤退しました。
アルブロック空港は、以前は米軍の施設でしたが、今はパナマシティの国内線空港として使われています。
ここから20人乗りセスナ機(エアパナマ)に乗って約1時間、最初も目的地であるサンブラス諸島に向かいました。
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アチュトップ空港からは定員数名の小船に乗って更におよそ1時間、島に渡りました。
サンブラス諸島は、パナマ本土の北カリブ海上に浮かぶ300以上のもの島々から成り、ここではクナ族の人々が、半自給の生活を送っています。
この地では16世紀にヨーロッパ人と黒人との接触が始まり、17-18世紀には英仏の海賊の拠点が置かれたこともあります。
スペイン統治時代にも、この地域の人々は独立が認められていました。
パナマ独立後はパナマの一部となりましたが、その後反乱が起きたのを契機に、自治権を認められています。
クナの人々は現在でも、昔からの生活、文化、習慣を守って暮しています。

住居は写真の通り、柱・梁は木材で、壁は竹を編んだもの、屋根は椰子の葉で葺いた家に住んでいます。
手前に見えるのは、釣り船です。
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今にも波にのまれてしまいそうな島にも人が住んでいるのでしょう、建物が見えます。
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私たちが着いた島は、島のホテル「ドルフィンロッジ」で、この島全体がホテルの敷地になっています。
つまり島ごと貸し切りなわけで、チョー贅沢気分を味わったわけです。
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ホテルの内部です。とても風通しが良くて、朝方などは涼しく感じました。ただ雨が降ると、頭の上に雨だれが落ちてくるのが欠点です。
トイレは水洗ですし、シャワーからは水が出るという豪華版です。
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ホテルの調理担当のクナ族の女性従業員たちです。どうです、美人揃いでしょう。
全員下肢に布が巻かれているのは、既婚者の証拠です。
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この女性だけは足の布が無いので、独身です。多分ミス・クナでしょうね。
ゴーギャンの気持ちが分かってきました。
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朝食を済ませて、早速アチュトップ島へ小船で渡りました。
現在クナ族の人々は約5万人で、この島は4番目に大きく、人口は1200人です。
警察から、学校、病院、みな揃っています。
私たちが散策を始めると、日本人が珍しいのでしょう、小学校の教室から沢山の生徒たちが出迎えてくれました。
みんな可愛らしいですね。
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島のいたる所で、「モラ」と呼ばれるパッチワークの刺繍が売られています。
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1軒の民家にお邪魔して、内部を見させて貰いました。
ここは台所で、おばあさんが粉を磨り潰していました。
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ホテルに戻って昼寝の時間です。
カリブ海を眺めながらハンモックでと思ったのですが、何せ猛烈に暑いので断念しました。
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夕方になってから本島に渡り、ジャングルトレッキングをしました。
島の中に大きな川があり、大きな川エビが獲れるのだそうです。
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夕食は、その川エビです。
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翌日、パナマシティに向かうため、アチュトップ空港に戻りました。
前夜大雨だったため、多くの島民が集まって滑走路にたまった水を掃いていました。
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傍に赤ちゃんを抱いたおばあさんが立っていて、カメラを向けると指を1本立てました。モデル料が1ドルです。
赤ちゃんは、どこでも可愛いですね。
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by kanekatu | 2007-04-04 16:45 | パナマ | Comments(0)

憂きな中にも旅の空


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