カテゴリ:南アフリカ( 4 )

南部アフリカ旅行記 その14(最終回)

ケープ半島のボルダースビーチは、ペンギン保護区になっています。
ここのペンギンはアフリカペンギン(鳴き声がロバに似ているのでジャッカスペンギンともいう)で、このままだと50年後に絶滅する恐れがあるため、ここを保護区としています。
こちらの国立公園や保護区、みな共通しているのは、餌は一切与えていません。あくまで自然のままで動物達は暮しています。
ただ病気や怪我があると、リカバリーしてから自然に戻すという管理方法をとっています。

波打ち際をペンギンが列を組んで歩いてきます。
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波が来ると慌てて逃げてゆきます。
ペンギンはこうした仕草が可愛くて、いつまでも見飽きないですね。
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ボルダースビーチの周辺は砂浜が続いており、一帯が高級リゾート地になっています。
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夕暮れ時のラグーンの景色です。
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日没直後のテーブルマウンテンのシルエット。
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シグナルヒルの上から見たケープタウンの夜景です。
100万ドルはともかく、50万ドル位の価値はありそうです。
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南部アフリカのお土産ですが、一番のお薦めは「ルイボスティ」です。
色は紅茶、味はウーロン茶に近いですが、ノンカフェインでタンニンも微量ですから健康的です。
血液がサラサラになるだとか、ダイエットに効果的とか、効能書きがありますが、何より安いのが魅力です。現地のスーパーだと、ティーバッグ25個入りで、1個70円程度で売っています。
日本で買うと10倍は取られますから、お買い得。

それ以外は、先住民族の人たちが作った木彫り人形が良いです。
ナミビアのキリン像、
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南アの親子像、
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デザインもシャレていますし、値段も手頃です。

今回の南部アフリカ旅行は、楽しさという点では今まで参加したツアーの5指に入ります。
勇壮なビクトリアの滝、大きなアフリカ象の群れに出会えたチョベ国立公園、ナミブ砂漠の美しさはそれぞれ思い出に残る光景となりました。
同時に南アフリカで過去に行われたアパルトヘイト(人種隔離政策)の名残りや、現在に及んでいる悪影響など、こいした負の遺産についても考えさせられる旅となりました。

アフリカに行かれていない方でこの記事を読まれた方々の中には、アフリカに対するイメージが変わったという人もおられるでしょう。
私自身もその一人でした。
考えてみれば、アジアという国、ヨーロッパという国、南米という国が無いのと同様に、アフリカという国もありません。
それぞれが一つの国であって、異なった歴史、文化を持ち、異なった社会を形成しています。
そろそろ「アフリカは・・・」とか、「アフリカ人は・・・」といった発想は、改めなくてはいけないでしょう。

南部アフリカ旅行記、今回で最終回となります。
長い間お付き合い頂き、有難うございます。
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by kanekatu | 2007-08-12 10:19 | 南アフリカ | Comments(2)

南部アフリカ旅行記 その13

15世紀から始まった大航海時代、先陣を切ったのがポルトガルで、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰にたどり着きますが、この時は乗組員の反乱によって撤退してしまいます。
バルトロメウ・ディアスはここを「嵐の岬」と名づけますが、後にポルトガル王が「希望の岬」(英語表記では「Cape of Good Hope」)という名前にします。
日本名で喜望峰になったのは、誤植が原因とされています。

続いてヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えて、1498年にインドに達し、ここにアフリカ周りのインド航路が開拓されます。
東西の交易は膨大な富をもたらしますが、当時は船の遭難や、新鮮な食料が入手できないことによる壊血病などで、時には8割もの乗組員の生命が奪われる危険な航海でした。
そこで喜望峰とその周辺を中継基地にすることを思いついたのはオランダで、1652年オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが植民、これが後のケープタウンとなります。

1806年になって、ナポレオン戦争のドサクサにイギリスがケープタウンを接収し、1814年よりイギリス領となりました。

現在この辺り一帯が喜望峰自然保護区に指定されており、動植物が保護されています。
保護区の終点が「ルックアウトポイント」で、先ずはここにあるレストランで昼食となりました。
海を眺めながらのロブスター料理、なかなか結構でしたよ。
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今回のツアーで食した南部アフリカの食事は、いずれもヨーロッパ風料理で、美味でした。
ビールも地元産のものでおいしかった。しかも安い。レストランやホテルで250-300円程度です。
もちろんワインは上質、酒飲みにはうってつけです。

さて南アフリカ美女ですが、ここのレストランのウエイトレスを一人紹介しましょう。
ご覧の通りとても美しい方ですね。
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てっぺんに灯台のあるルックアウトポイントまではケーブルで登ります。
この灯台は現在では展望台になっていています。
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日本人の若い男女が抱き合っていましたので、何をしているのかと近付いてみたら、この灯台に落書きをして、「私たちは今ケープポイントに着きました。記念の言葉を灯台に書きました、イエーイ!」と叫んでいるオノレの姿をビデオに納めていました。
バカ! 死ね!
日本の恥さらしです。

アフリカ最南端で、インド洋と大西洋がぶつかり合うのが、ケープポイントです。
先端にはアフリカで最も明るい灯台が設置されています。
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下りは徒歩でしたが、海岸線の美しい景色を楽しみながらの散策です。
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ここから喜望峰に向かいました。
途中の海岸にダチョウがいましたが、海とダチョウというのも珍しい取り合わせです。
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さあ、いよいよ喜望峰に到着と意気込んでいたら、看板が立っているだけで実に殺風景です。
せっかくなので、ここで皆さん記念写真をハイパチリ。
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伊豆の海岸ではありません。
大西洋です。
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喜望峰は富士山と一緒。
遠くから見ると美しい。
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次回は最終回となります。
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by kanekatu | 2007-08-08 11:06 | 南アフリカ | Comments(0)

南部アフリカ旅行記 その12

南アフリカ共和国の首都はヨハネスブルグと思っている人が多いと思います。私もその一人でした。正解はプレトリアです。ヨハネスグルグから北へおよそ60kmの位置にあります。
ここは「ジャカランダ・シティ」の名で知られていて、春には街全体が7万本のジャカランダの花で覆われ、とても美しいそうです。
私も他人から「南アに行くなら10月」と勧めれていましたが、余り興味が無かったのでこの季節にしました。
花が一面の咲き誇るという光景は、私は好きではありません。
桜だって1本だけでも十分美しい。数さえ揃っていれば良いというもんじゃ無いでしょう。

プレトリア、各政府機関は勿論、通信制大学として世界的に有名な南アフリカ大学もここにあります。
道路は碁盤目で整然としていて、ジャカランダの街路樹が街の景観に落ち着きを与えています。
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大統領執務室など政府機関が入っているユニオンビル、かつてネルソン・マンデラさんが大統領に就任した場所で、ここで行われた就任演説の時は、全世界からマスコミが押し寄せた場所でもあります。
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南アフリカというと白人対黒人の対立を連想しがちですが、大航海時代に最初にこの地の重要性に気付いたのはオランダ人でした。
17世紀になると大量のオランダ人がケープ地方に移民してきます。
これがボーア人と呼ばれる人たちで、一方では原住民達との戦いを起こしながら、一方で混血(カラード)も進みます。

処が18世紀の終わり頃から、金やダイヤモンドが産出することが分かり、イギリスがこの地を狙い、先ずケープタウンを占領します。
その後南ア全体を支配するようになりますが、このときに英語を話さないボーア人を二等国民と呼んで差別します。
これ以後ボーア人は自らをアフリカーナーと呼び、イギリスと戦うことになります。
これが「ボーア戦争」です。
最終的にはイギリスが勝ち、南アは英連邦の中のアフリカーナー自治国となります。

アフリカーナーはアパルトヘイト(人種隔離政策)を進めて廃止を求めるイギリスと対立し、1961年に英連邦を脱退し、南アフリカ共和国を樹立します。
しかし1980年代から全国各地で黒人の抵抗運動が拡がり、国際世論の後押しもあって、1994年にナルソン・マンデラ大統領が就任し、再び英連邦に復帰します。

フォールトレッカー開拓者記念堂には、こうしたアフリカーナーの苦難の歴史が刻まれています。
他国へ侵入してきて、武力で原住民を追い払い、黒人達を奴隷として働かせておいて、「苦難の歴史」もないもんだと、私などは冷ややかに見てきましたが。
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プレトリア市内見学は駆け足でヨハネスブルグ空港に向かい、南アツアーの目玉であるケープタウンに移動です。
今回のツアー、昼間の移動が多く、そのため昼食が機内食というのが5回ありました。
キャリアは全てブリティッシュ・エアウエイですから、毎回出てくる食事は一緒、さすがに飽きました。
でも贅沢は言ってられません、このツアー、中味が濃い割に料金が安く、お土産店に連れて行かれることも殆ど無かったのですから、言う事なしです。

ケープタウンではタウンハウスホテルに2泊しましたが、室内はコンパクトながらインテリアがシャレていて、使い勝手が良い快適なホテルでした。
今回のツアー全体を通してホテルは良かったのですが、さすがにケープタウンは洗練されていると感心しました。
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ホテルの窓から撮った、シティホールの鐘楼です。ロンドンのビッグベンの2分の1レプリカだそうです。
ここのバルコニーで、解放されたネルソン・マンデラさんが最初に民衆にスピーチした場所として知られています。
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ケープタウンの中心街も落ち着いた美しい景観を呈しており、歴史的建造物と瀟洒なビルが程よく調和しています。
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写真のように、街の至る所でテーブルマウンテンとデビルスピークを見ることができます。
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ケープタウンの象徴ともいうべきテーブルマウンテンですが、標高1087mの頂上が平らな山です。
海底から隆起してきた岩盤が、写真のように平行に鉱物層が形成されていたため、風雨で侵食されても平らな状態を保っていたわけです。
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頂上へはケーブルカーで登ることが出来ますが、このケーブルが回転しながら登るという優れもので、世界で2基しかないそうです。
写真は霞んで見えにくいですが、ロベン島です。
アパルトヘイト時代に、マンデラさんを始め3000人の政治犯が収容されていた刑務所がここにありました。
現在は世界遺産に登録されていて、ここを見学するツアーもあります。
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頂上から見たケープタウン市内とライオンズヘッドです。
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ケープタウンから南に延びるケープ半島、ここが南ア観光の中心です。
その先端に喜望峰やケープポイントがあり、いよいよ私たちはアフリカ大陸の南端に向かいます。
ハウト湾から船で、短時間のクルージングです。
写真は、出航して間もなく見える、標高800mのセンチネルの絶壁です。
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ドイカー島には沢山のオットセイが生息していて、船はこの島を一周して港に戻ります。
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海岸の険しい岸壁に沿って道路が作られているのが、チャップマンズ・ピーク・ドライブです。
その美しさ南アでも有数と言われています。
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南アで最も人気の高いビーチ、ミューゼンバーグです。
サーファーのメッカでもあり、国際大会の舞台になっています。
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次回は喜望峰とその周辺です。
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by kanekatu | 2007-08-05 19:05 | 南アフリカ | Comments(0)

南部アフリカ旅行記 その11

私たちは南部アフリカの中心であるヨハネスブルグ空港に降り立ちました。
実際の旅程ではこの空港を何回も通過するのですが、編集上ここで初めて南アフリカ共和国(南ア)に入国したことにしておきます。

ヨハネスブルグ空港ですが、不正が行われる場合があるので、次のような注意が必要です。
①空港での保安検査や入国の通関検査の時に、現金を抜かれる場合があるので、係官が手荷物検査している間は、絶対に目を離さないこと。
私を含めて数人が経験しましたが、暗がりに連れて行かれ、手荷物の中の紙幣だけを検査されます。その際、別の係官が話しかけてくることもありますが、自分のバックをじっと見つめていることが大事です。
②現在液体の機内持ち込みが制限されていますが、その空港の売店で購入し、密封包装された液体は機内持ち込みが許されています。
処が、ヨハネスブルグ空港に限っては、係官の判断で商品が平気で没収されます。
特に高級酒類やブランド物化粧品が狙われ、抗議しても受け付けないので要注意です。きっと係官の臨時収入に化けるのでしょう。
③預け入れ荷物のロストですが、ヨハネスブルグーナミビア間でコンテナー1本分の積み忘れがありました。スーツケースが開けられる場合もあるようですから、貴重品や生活必需品は手荷物にした方が良いでしょう。

のっけから物騒なことを書きましたが、ヨハネスブルグ周辺の治安の悪化がそれだけ深刻なのです。
南アには現在3つの世界一があると言われています。
①離婚率は南アが世界一
②犯罪発生率はヨハネスブルグが世界一
③殺人事件の発生率は、ヨハネスブルグのヒルフロー地区が世界一
①はともかく、②③は有り難くない世界一です。
余りに治安の悪さに高級ホテルのいくつかはヨハネスブルグを撤退しました。
ホテルに宿泊した場合日中でも、外出は控えた方が良いとされています。

強盗にあっても警官は来ないので、中流以上の家庭はみな警備保障会社(武装してます)と個別に契約し、身を守っています。この費用が毎月5-6千円取られるので、バカにならないとか。
金持ちになると、電流を流した有刺鉄線を周囲に廻らし、銃を持ったガードマンが警戒しているようです。
商店のウインドーには鉄格子が嵌められ、レストランは夕方過ぎると店を閉めてしまいます。

南アフリカといえば、かつてのアパルトヘイト(人種隔離政策)と、それと闘い黒人政権を打ち立てたネルソン・マンデラ大統領が直ぐに頭に浮かびます。
アパルトヘイトや止めさせ、民主化が行われたのに、なぜ治安が悪化したのか、率直に疑問を感じてしまいます。

治安悪化の最大の原因は、豊かな南アに周辺の貧しい国々から沢山の不法移民が押し寄せてきたことです。ヨハネスブルグに一体どの位の住民が住んでいるのか、政府は掌握できません。
そうした人々が犯罪に走るケースが多いわけです。
白人黒人の隔離政策は無くなりましたが、格差はそのままです。
かつて黒人は虐げられ、みんなが貧しかったのが、黒人政権が生まれて以後、金持ちになる黒人も出てきて、黒人内部にも格差が生まれるようになりました。
経済格差は、むしろ拡がっているという意見もありました。
政治家や高級官僚に就いた黒人の中で、汚職やワイロが横行するようになり、この点では白人政権当時よりひどくなっているそうです。
そうした事が、貧しい黒人層の怒りを買っているようです。

アパルトヘイト時代は、確かに黒人に対する差別や弾圧がありましたが、反面白人達が彼らを保護していたという一面もあるようです。例えば義務教育が無料であったとか。
それが現在有料となり、貧しい黒人層の子供たちが学校に行けないという事が起きているようです。
教育が受けられなければ、就職が出来ない、だから犯罪に走る。
警察力が圧倒的に弱いといことも、犯罪が多い理由の一つでしょう。
マンデラ政権の時に死刑を廃止したので、凶悪犯罪が増えてしまったという人もいました。
勿論、現在の政権を否定するものはありません。ただ治安対策に遅れがあるのも事実です。

2010年にはこの地で、サッカーのワールドカップが開催されます。
それに向けて現政権がどのように治安回復を進めるのか、大いに注目されます。

ヨハネスブルグは夕方の到着となり、バスでソウェット地区に向かいました。
ここはアパルトヘイト時代の黒人居住地域で、その当時黒人はここでしか住めなかったのです。
現在はそうした制限は廃止されましたが、貧しい層の人々が今でもここに暮しています。
走行中のバスの車窓からの撮影で、しかも夕方なので、少々ボケていますが参考までに。
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中央に見える建物はマンデラ・ハウスです。
ネルソン・マンデラさんが1963年に逮捕されるまでここに住み、27年後に釈放された時も、この家に戻ってきました。
3DK程度の質素な住宅です。
マンデラさんが使っていた机、ベッド、洋服などが展示されています。
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なお現在のマンデラさんは政界を引退し、3度目の結婚をして、幸せに暮しているそうです。
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by kanekatu | 2007-08-02 11:18 | 南アフリカ | Comments(0)

憂きな中にも旅の空


by kanekatu
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