カテゴリ:生い立ち( 24 )

渡辺英ちゃんのこと

歳をとってくると、子供の頃に親しかった友をふと思い出すことがある。
渡辺英行くん(名前の漢字が違うかもしれない)も、その一人だ。
英ちゃんは父親の仕事の関係で、度々引越しと転校を繰り返していたので、学校だって小学校の時に2年間、中学では半年間ほど一緒だったに過ぎない。同じクラスになったこともない。
だが家が直ぐ近くにあった時は、ボクは毎日のように英ちゃんの自宅入り浸っていた。何となくお互いウマが合う存在だったのだろう。

英ちゃんは、ボクにとってはヒーローだった。
成績は学年で一番だし、柔道部の主将だった。それだけではない、趣味が喧嘩だった。
身長はあまり高くなかったが、筋肉質で横幅のあるガッチリとした身体つきをしていた。
昭和30年代の東京中野の区立中学校はどこも荒れていて、不良グループが別の中学に殴りこみに行くことなど、日常茶飯事だった。
そうした「出入り」があると、英ちゃんは仲間を集めて撃退していた。鑑別所に入っていたという少年が中学にいて、周囲から恐れられていたが、その彼が英ちゃんには一目置いていた。

専守防衛だけではない。時には仕返しに、相手の学校に殴り込みに行くこともあった。
中3の高校受験の時は、受験勉強に飽きると夜の町に出て、相手を見つけては喧嘩をしていた。
英ちゃん自身も、暴力沙汰で警察のヤッカイになったことがあったが、絶対に普通の学生には手を出さず、喧嘩の相手は不良だけだったので、いつも説諭だけで済んだ。
時には怪我をして、血だらけで自宅に帰ってくることがあったが、父親から「喧嘩は勝ったのか?」と訊かれて、英ちゃんが「勝った」と答えると、「それなら良い」と誉められていた。
変な父子だった。

英ちゃんは数学が得意で、特に図形の証明問題を解くのが好きだった。
中学の時には、高校の幾何の問題集を手に入れて解いていた。ボクが最も苦手としていた分野であり、いつも感心して傍で眺めていた。
唄は軍歌専門で、戦前の手回し蓄音機で軍歌のレコードをかけては、大声で歌っていた。お陰で、ボクまで随分と軍歌を覚えてしまった。
と言っても右翼ではない。政府の政策には批判的だったし、昭和天皇には戦争責任があると、いつも力説していた。
英ちゃんは、天皇と吉田茂が嫌いだった。

坊主頭で、腰にはいつも手拭いを下げていた。ボクと違って、周囲の女生徒に対しては全く興味を示さなかった。要は、硬派を気取っていたわけだ。
家が貧しかったせいもあるが、とにかく金を使わなかった。
歩いて2時間くらいの距離だと、電車やバスに乗らず歩く。英ちゃんと一緒に外出すると大変だった。

英ちゃんには兄と姉がいた。兄は英ちゃんとは正反対で、女の尻ばかり追い回していた。父親はこうした兄にとっくに愛想をつかしていて、英ちゃんだけを頼りにしていた。
お姉さんという人は、当時18歳くらいだったろうか、とっても美しい人だったが、永らく肺結核を患っていた。英ちゃんの家の一部屋は、姉さんの専用になっていた。実の姉弟で、英ちゃんお姉さんとはどうしてこんなにも顔が似ていないのか、不思議だった。

ボクの母親からは、肺病がうつるから絶対に英ちゃんの姉さんの近くに行ってはいけないと、固く注意されていたが、時々英ちゃんと一緒にその部屋を訪れた。
お姉さんが起きている時は、いつも本を読んでいて、部屋に入ると本を膝に置いて、にこやかに迎えてくれた。髪をお下げにした、色白の英ちゃんの姉さんは、ボクにとっては憧れの的だった。喋ると真っ白な歯がこぼれて、まぶしかった。
しかし次第に病状が悪化し、病院に入って間もなく亡くなってしまった。
ボクはしばらく、英ちゃんの顔をまともに見ることができなかった。

お互いに高校に進んだ後に、ボクの家も英ちゃんの家も互いに引っ越して、音信が途絶えてしまった。
風の便りに、英ちゃんは大学の理工学部に進み、卒業後は建設会社に就職したと聞いた。
ボクは今でも、くたびれた学生服の腰に手拭いを下げ、ボロのズックを穿いた坊主頭の英ちゃんを思い出す。
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by kanekatu | 2007-08-26 22:06 | 生い立ち | Comments(0)

荒れる中学校と生徒会活動(7)

喜田豊の家は、私の家から2-3分のところにあり、小学校の直ぐ近くで文房具屋をしていました。
喜田の母親というのが、とても穏やかな優しい人でしたし、彼の下に弟が二人(この3兄弟は揃って成績優秀)いた関係で、私はしばしば喜田の家に遊びに行きました。
喜田も我が家に遊びに来るのですが、私の母は必ず“おや、シンキチさんが来たよ。”と言ってました。
喜田が新聞気違いなので、シンキチと名づけたのです。喜田は怒った顔を見せたことが無く、いつもニコニコしており、きっと母親の性格を受け継いでいたのでしょう。

齋藤誠の生徒会改革や、我々の生徒会新聞がどれだけ効果があったのかは分かりませんが、学校全体の努力もあって、荒れた学校も徐々に落ち着きを取り戻し、暴力沙汰も減ってきました。
齋藤と喜田は、その後豊玉高校に進みましたが、齋藤はやはり家庭の事情から家を出て、祖父の実家がる能代に移り、能代高校に転入しました。能代では同人雑誌を創刊し、小説を書いてました。
齋藤は、人を集めたり動かしたりするのが巧みで、若い時からリーダーの素質がありました。
大学のときに再び東京に出てきて、一人で下宿し、昼間は働いて生活費を稼ぎ、夜は夜間に通う勤労学生でした。その当時に芝居にのめり込んで、卒業後は業界紙の記者をしながら、アマチュア劇団を主宰して、現在も演劇活動を続けています。
そういう意味では、初志を貫徹したと言えるでしょう。

喜田は学芸大学に進み、卒業後は念願の高校の夜学の教師になりました。社会科の先生で、私も一度授業を見学させて貰ったことがあります。現在も都立高校の教師をしており、彼もまた初志を貫徹しています。

一人、私だけは家の経済事情から大学進学を諦め、工業高校に進みメーカーに就職しました。
齋藤、喜田という素晴らしい友人と知り合い、思い出深い中学生活を送れたなと、つくづく感じます。

中学時代の思い出は、今回で終了します。
次回からは、別のシリーズを予定していますが、期日は未定です。
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by kanekatu | 2005-04-12 01:14 | 生い立ち | Comments(0)

荒れる中学校と生徒会活動(6)

生徒会新聞を発行することが決まり、新聞部員を募集しました。
1-2年生から数名の応募がありましたが、この中に1年生の喜田豊がいたのです。
中1の彼が、どこでどう覚えたのか分かりませんが、新聞の割付、見出し、リードの書き方を既に身につけていました。しかも彼は、ガリ板を切るのが上手かった。
当時の謄写版というのは、ロウ紙をガリ版と呼ばれる表面にヤスリのようにザラザラした鉄板の上に置き、その上から鉄筆で字を書くのです。書いた部分のロウがはがれて、そこからインクが染み出して、字が転写できるという原理です。5mm四方くらいの小さな升目の中に、一字一字書いてゆくのですが、このときの字体が悪いととても読みづらくなります。鉄筆で書くときの力が弱いと印刷の字がかすれますし、あまり強く書くと今度はロウ紙に穴があきます。
字を間違えると、一応修正液はあるのですが、やはり字が汚くなります。ですから細心の注意が必要になります。見出しやイラストを書くのは、更に難しい。
結局これらを全て出来るのは、喜田しかいなかった。喜田が切ったガリ版は、謄写版印刷で(一昔前のプリントごっこを思い出してください)600枚くらい刷れました。それでも全校生徒に配布する1600部を刷るには、片面3枚、両面で6枚のガリ版を切らなくてはならないのですが、殆ど喜田一人で作業していました。
最終的には、齋藤がネタを考え、私が記事を書き、喜田がガリ版を切るというふうに、3人で新聞を作りました。
当時、毎日新聞が学校新聞コンクールというのを開催していたのですが、これに私たちの新聞が入選したこともありました。それだけレベルが高かったのです。
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by kanekatu | 2005-04-10 01:46 | 生い立ち | Comments(0)

荒れる中学校と生徒会活動(5)

齋藤誠の生母は、幼い頃亡くなっており、家族は実父と義母、義妹の4人家族でしたが、家庭内における彼の立場は微妙でした。
“素人演芸会”の収録は平日でした。今なら家族総出で応援ということにもなるんでしょうが、齋藤の家庭はそんな事を言い出せる状況は無かった。朝いつもの通り登校するふりをして、ラジオ局のスタジオ入りだったのです。
齋藤からその話を聞いた私の母は、それじゃあ余りにも本人が可愛そうだと、近所の人を誘って会場に応援に行きました。母は侠気のある人で、彼が継母で苦労していると思い込み、何とか力になろうと考えたのでしょう。

さて、齋藤誠の生徒会活動に話を戻しますが、彼は学校が荒れるのは管理教育に原因があると考えた節があります。だから、生徒の自主性を伸ばすような学校側の対応を求めたし、生徒会活動についても、自主的、民主的な運営が必要と考え、生徒会活動の改革に乗り出しました。
その一つとして、生徒会新聞を発行することを思い立ったのです。
当時どこの中学でも、学校新聞というのは発行されていましたが、生徒会機関紙は非常に珍しかった。
生徒会では彼の提案が承認されたのですが、問題は誰が新聞を作るのかということです。
無論、当時はコピーやゼロックスは無く、印刷手段といえば、謄写版(一名ガリ板)しかない時代でした。
わら半紙裏表印刷で、1600部を謄写版印刷するというのは、尋常ではありません。

そこに、新聞作りの名人、喜田豊が登場します。
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by kanekatu | 2005-04-07 22:18 | 生い立ち | Comments(0)

荒れる中学校と生徒会活動(3)

私の1級上に、齋藤誠という男子生徒がいました。
彼を始めて知ったのは、1年生の3学期のときの学芸会でした。
私は当時演劇部だったので劇に出演していたのですが、2年生で漫才をした生徒がいたのです。
中学生で漫才というのも珍しいのですが、片方の生徒がいやに上手いのです。そ齋藤でした。
どこの部かと思ったら、弁論部でした。これも当時中野区内の中学で、弁論部があったのは、私たちの学校だけでした。
演劇部の人間関係に嫌気がさしていた時期なので、2年生になると直ぐに弁論部に入りました。
入部したのは良いのですが、部員は齋藤と、漫才をやったときの相方、そして私の3人だけです。
顧問の先生も名前だけで、部活に顔を出したことがありません。
そりゃそうでしょう、中学生で弁論などに興味があるわけないのですから。
最大のイベントは何かというと、年1回の火災予防弁論大会なのです。
中野消防署が主催する、火災予防の啓発を目的とした中学生弁論大会、一人持ち時間15分で弁舌を振るうのです。
一応、他校からも数人参加するのですが、こちらは部活で練習してますから全く相手にならず、1位から3位まで、常にわが校の独占です。
これさえやっておけば、部として存続できるし、学校から予算も貰えます。
それで、残り1年間何をするかといえば、専ら落語、講談、漫才という寄席芸の練習です。
中学生版落語研究会、つまりオチ研ですね。こちらだって、中学では珍しかった筈です。
私たちの弁論部だけは、荒れる中学の中にあって、別世界でした。
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by kanekatu | 2005-04-02 00:09 | 生い立ち | Comments(0)

荒れる中学校と生徒会活動(2)

非行現場をおさえ、補導しようとした警官に、私が通っていた中学の生徒数名が暴力を振るった事件が起きました。
読売新聞が、社会面トップで事件を報道し、週刊誌にも掲載されましたし、ラジオドラマにもなりましたので、全国的に知られた問題校であったわけです。
当時、あの中学校でなぜ非行が多かったのか、なぜ暴力がまかり通っていたのかをよく調べ、分析していれば、その後の荒れる中学問題の参考になったのではと思います。
一つには、生徒数が多過ぎたことが挙げられるでしょう。1クラス60名で、1学年9クラスでした。この規模になると、生徒一人一人に眼が届きません。
それに、この中学校は伝統的に暴力が横行していたのです。私より10年くらい年上の卒業生に話しを聞くと、その当時生徒を階段の上に立たせ、教師が一人一人殴り落としていたと言ってました。
生徒も仕返しに、真冬に教師をプールに呼び出し、水中に突き落としたそうです。
こうした暴力連鎖も、非行の温床になっていたと思います。

運動部に入れて練習に打ち込ませれば、非行防止になるという声を聞きますが、この学校には当てはまらなかった。
陸上部などは、非行生徒の牙城となっていて、真面目な生徒は皆途中から退部していました。
不良たちの多くはどこかの運動部に入っていて、逆に文化部の系統は真面目な生徒が圧倒的でした。
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by kanekatu | 2005-03-30 12:00 | 生い立ち | Comments(0)

荒れる中学校と生徒会活動(1)

私が3年間在学した中野の中学は、荒れる学校で有名でした。入学が昭和31年で、卒業が34年ですから、あの当時としては珍しい学校だったわけです。
暴力沙汰は日常茶飯事で、恐喝や傷害、性犯罪もありました。
学校にチェーンや飛び出しナイフを持ってくる生徒がいました。
登校してくるのは、年間数回という生徒もいて、その時は生徒から金を脅し取るので、周りは怖がっていました。学校に小さなポーチ一つで来るのです。集金カバンなんですね。

週番は、毎日校舎を廻り、割られた窓ガラスの数をかぞえて、先生に報告させられました。一日で100枚以上割られた日もあったと、記憶してます。廊下の壁にも、よく穴が開いてました。
卒業式当日は、式場以外の場所では、生徒と教師は接触できないようにしていました。卒業する生徒が、今までの腹いせに、ウラミのある教師に暴力を振るうからです。
勿論、PTA席には私服警官が配置されていました。

暴力は、教師から生徒に対しても行われました。生徒を殴るというのもごく日常的で、教師に殴り倒されて怪我をし、学校を休んだ生徒もいました。今なら大問題となります。
私が中学を卒業して20年くらい経ってから、荒れる中学が大きな社会問題となりましたが、私の在学した中学の方が余程ひどかったと思います。
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by kanekatu | 2005-03-28 07:00 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(8)

小学校4年生になった時、又父の仕事の関係で中野の小学校に転校しました。
先ず驚いたのは、生徒の数が多すぎて教室が足りないということで、2部授業をしていたことです。
これも、今の方からは想像もつかないと思いますが、一つの教室を2クラスが使うのです。
ですから、今週1週間は午前だけの授業、来週は午後だけの授業となります。給食もありません。
当然授業は遅れ、四谷第六小と比べると3ヶ月から半年の遅れがありました。
この結果、私はたちまちクラスのトップの成績になりました。
担任も実にヤル気の無い先生で、しかも病弱でうつ病ときてるんですから最低です。
授業は、しょっちゅう自習時間になりました。
さすがに、2学期になった時、担任の先生が交代になりました。
生徒の質も、四谷第六小とは、雲泥の差でした。

中国の故事に、孟母三遷の教えというのがあります。
子供の教育には、環境を整えるのが大事だという教訓ですね。
私自身の経験から言えば、正に真実です。
四谷と中野、中央線快速に乗れば10分位の距離です。それが、これだけ大きな差がついていたのです。
無理してでも、都心に近い学校に通わせたいという親の気持ちは、良く分かります。

今回で四谷第六小時代は終了します。
次回からは、中学時代の思い出を書きます。
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by kanekatu | 2005-03-25 00:21 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(7)

通学してくる子供は、大きく3つの階層に分かれます。
先ずJRの陸橋を渡ってくる神宮外苑方面からくる生徒達ですが、見るからに裕福そうな子供たちで、概して成績も良かった。同級生同士、自宅に遊びに行き会っていましたが、この子たちの家には遂に行くチャンスが無かった。
次は学校から千駄ヶ谷方面に向かう子供たちで、いわゆる中流階級の子たちでした。
自宅に行くと、若い綺麗なお母さんがいて、お菓子も出してくれて、本を読み聞かせてくれて、といった思い出が残っています。
後は四谷3丁目方向へ向かう子供とJR四谷駅方向に向かう子供、この中に私も含まれますが、この子たちは最も庶民的で、成績も中から下の子が多かったように記憶しています。

同じクラスに横田という男子生徒がいまして、こいつの仇名が物知り博士でした。とにかく百科事典のようなヤツで、何でも知っていました。何か尋ねると、直ぐに答えが返ってくるのです。
相撲の大ファンで、歴代横綱の名前をスラスラ言えましたし、東京六大学野球のこと、自動車の車種から、政治問題まで、とにかく良く知っていました。
彼から、今日本が再軍備に向かおうとしていて、それをどの党が推進し、どの党が反対しているか説明を聞きました。彼は再軍備阻止のためには、反対党が勢力を伸ばさなくてはならないと言ってました。小学校2年生ですよ。
西郷隆盛をそのまま子供にしたような風貌をしていた横田君、どうしてますかね。
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by kanekatu | 2005-03-21 00:30 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(6)

3年生の私たちのクラス担任は佐藤正典先生といって、福島の猪苗代湖の近くの出身でした。
戦争中は台湾戦線に行っていたらしいのですが、とにかく厳しい先生でした。
授業中は、常に先生の目を見ろと言われ、視線を外すと“集中!”の掛け声が飛んできます。
胸をはれ、目を見ろで、従わないと容赦なくビンタが飛んできます。
ビンタといっても、手の甲をピシリと叩くのですが、これが結構痛い。
体育の時間は雨が降ると、体育館(これも中野の新井、向台両小学校には無かったし、アタシの場合中学にも無かった)で行進の練習をさせられるんですが、背中が曲がったり、手足が真っ直ぐに伸びていないと、これまた男女に関係なくビンタです。
だから授業中は、いつもピリピリした空気が漂っていました。
今の人からは想像がつかないでしょうが、昭和30年くらいまではどの学校でも、先生が生徒に体罰を与えるなどということは、ごく普通でした。細い竹の棒を持って授業する先生さえ、珍しくなかったのです。
しかし厳しい反面とても優しい良い先生で、生徒には人気がありました。
毎朝今でいうホームルームの時間は、作文を書かされました。翌日には添削されて戻されます。
この繰り返しが、私の作文能力を多いに高めてくれました。
話すときは人の目を見る、手足を伸ばして歩く、そして文章を書く、この3点は佐藤先生に鍛えられて、現在でも私の身に付いています。

〔追記〕
担任の佐藤正典先生について、新宿区立四谷第六小校長・菅野静二様よりご連絡頂きましたこと、深謝いたします。
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by kanekatu | 2005-03-17 22:29 | 生い立ち | Comments(0)

憂きな中にも旅の空


by kanekatu
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