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中央アジア紀行 その16(最終回)

早朝にバスでサマルカンドを出発して、東北に向けて走ること約6時間、午後1時半に最初の出発地タシケントに戻りました。
前夜から38.5℃の熱が出た状態でのバス移動は、きついものがありました。
体調を崩しても連泊の場合は、観光を一日パスすれば済みますが、移動日の場合はどうしようもありません。健康管理に気をつけていても、2週間の旅程となると維持するのが難しい面があります。
この旅行社では、シルクロードを2ヶ月間で踏破するコースも設定され、結構人気を呼んでいるのだそうですが、参加者はよほどの鉄人ですね。

国道の両側は写真のように山が続き、その間には草原が広がり、放牧されている牛や山羊、羊が草を食んでいる牧歌的な風景が見られます。
ちょうどタシケントからサマルカンドに向かう列車が走っていました。
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午後の観光は、ウズベキスタン歴史博物館からスタートしました。
現地ガイドが建物を見つけるのにウロウロ探していたのを見ると、ウズベキスタン人はあまり博物館には行かないのでしょう。入館すると私たちのグループと、他に外国人観光客の数名のグループがいるだけで、館内は閑散としていました。観光客で混みあっていたトルクメニスタンの国立博物館とは大違いです。
2Fが歴史の展示の中心となっており、目玉は仏像です。
テルメズ近郊のファヨーズ・テベ遺跡から出土した写真の仏像は、1-3世紀に栄えたクシャン王朝時代のもので、完全な形で出土した第一級のガンダーラ仏とされています。
なんという穏やかな表情でしょう。
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この他にも、シルクロードを通して、西はギリシャから東は中国まで広大な地域から伝えられた文化の影響を示す壁画や、
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顔は人間の鳥の彫刻など、興味ある展示品が並んでいます。
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博物館の近くの地下鉄の独立広場駅があり、中央アジア唯一の地下鉄の乗車を体験しました。
旧ソ連時代の1970年に開通したもので、3つの路線がありますが、料金はどこまで乗っても15円程度と格安です。
乗車といっても、3駅乗ってまたそのまま元の駅に折り返すだけですが、やはり公共交通機関に乗るというのは楽しいものです。
乗客の多くがビジネス客のようで、男女ともスーツ姿が目立ちました。やかり女性は美人揃いでした。
感心したのは、私たちが車両に乗りこむと、周囲に座っていた若い人たちが皆立ち上がり、席を譲ってくれたことです。往復ともにそうした具合で、この国では年配者に席を譲るというのは、当然のことなのでしょう。
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旅の終わりはナヴォイ劇場の見学と、場内にあるレストランでの夕食です。
ナヴォイ劇場は、1947年に完成したオペラとバレエの劇場で、収容人数は1500人、劇場前の噴水は綿花をイメージしたものです。
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大戦でソ連によりシベリアに抑留されていた日本人捕虜数百名がこの地に強制移送され、ナヴォイ劇場建設に従事させられました。
そのせいか、1966年4月26日にタシケントを襲った大地震にも、びくともしなかったと称されています。
劇場の側面の壁には、写真のような文字盤が設置されていました。
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その後タシケント発のウズベキスタン航空便で7時間弱、成田空港に帰着しました。

中央アジアで隣り合わせの国、ウズベキスタンとトルクメニスタンは共に旧ソ連邦に属していました。
トルクメニスタンが親米の方向に舵を切ったのに対し、ウズベキスタンはロシアと友好的です。対ソ感情も概して良好で、今でも昔のソ連時代の方が良かったという人も少なくないようです。
道路や鉄道といった基盤はソ連時代に造られ、現在もそのまま使っています。
公共料金や生活必需品の物価が安く、義務教育は4-3-3年制で無料であるのは、やはり旧ソ連の社会主義時代の遺物と言えるでしょう。

住宅価格はトルクメニスタンと同様に安く、タシケント市内の3LDKのマンションでも250万円程度で買えます。
世界各地で訊いた限りでは給与水準に拘わりなく、首都の中心部の住宅価格は日本と大きな差がないのが普通ですが、この両国では格安です。もしかすると入居資格の条件が厳しいのかも知れません。

給料は公務員で3万円、教師やサラリーマンは1万円程度だそうで、物価が安いにしても生活は楽ではないでしょう。
公共料金やガソリン代がタダ同然のトルクメニスタンと異なり、ガソリン代が75円/リットル、天然ガスは月3000円定額で使い放題(暖房も全てまかなえる)という金額は、なかなか辛いと思われます。
そのせいか、トルクメニスタンでは目にしなかった物乞いが、ウズベキスタンにはいます。
競馬はあるのに馬券が無いトルクメニスタンと比べ、ウズベキスタンでは馬券が1枚1000円もして、当たれば最高は新車2台だそうですから、この辺りお国柄の違いも出ています。

15日間の中央アジア旅行の感想ですが、観光の中心はモスク、メドレセ、廟といったイスラムの宗教施設が大半で、確かに一つ一つは目を瞠るものがありますが、毎日毎日そればかり見ていると、どれがどれやら分からなくなり、単調な印象となります。
メキシコのマヤ遺跡巡りに似ていますね。
せっかく2国を巡るなら、例えばウズベキスタンと自然の景観に恵まれているキルギスと組み合わせるなど、企画に一考を要するのではと感じました。

今回で中央アジア紀行は最終回となります。
長い間お付き合い頂き、有難うございます。
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by kanekatu | 2007-12-02 17:22 | ウズベキスタン | Comments(2)

中央アジア紀行 その15

サマルカンドでの昼食は民家でということでしたが、実際には民家風レストランでした。
メインの一つはキョフタという肉マンに似た料理で、中に肉やカボチャなどの野菜が入っています。
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もう一つはお馴染のケバブで、ハンバーグに似た味です。
この二つの料理はウズベキスタン旅行中、何回も出てきました。
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グリ・アミール廟は、ティムールが中国遠征の途上、1405年に急死してしまいます。本人は生前、故郷のアフリシャブスに埋葬されることを希望していましたが、彼の息子や孫たちと一緒にこの廟の中に眠っています。
グリ・アミール廟は、青の都と謳われているサマルカンドの中でも、美しさと壮大さがひときわ目立つ立派な建造物になっています。
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廟の内部は黄金で装飾され、いくつかの墓石が置かれています。
中央の黒い墓石がティムールの墓です。周辺には彼の教師や息子、孫たちの墓石が並んでいます。
1941年にソ連の調査隊により墓が開けられ、ティムールが足が悪かったことや、天文学者でもあったウルグベクが斬首されたことが確認されたそうです。
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いよいよサマルカンドの象徴ともいうべきレギスタン広場にやって来ました。
アフラシャブの丘が、チンギス・ハーンにより徹底した破壊を受けたあと、商業施設がこの地に移転してきます。主要道路の交差点でもあったのですが、やがて公共の広場として使われるようになります。
ティムールの時代にバザールが建てられ、孫のウルグベクの時代に最初のメドレセ(神学校)が建設されます。
現在の姿になったのは17世紀のシャイバニ朝の領主バハドールの時代です。

広場の西側にあるウルグベク・メドレセは、1420年に建てられた最も古いメドレセです。
学者でもあったウルグベクは、ここに100名以上の神学生を寄宿させ、イスラム神学、哲学、数学などを学ばせました。
アーチの上の文様は、ウルグベクを象徴するように星座がデザインされています。
右側のミナレットは自重で少し傾いています。
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北側のティラカリ・メドレセは1660年に建てられたもので、広場から見てちょうど正面に見えます。
入って左側の青のドームの下に礼拝所があり、内部は金箔を使った見事な装飾が見られます。
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中庭から見た建物で、部屋は神学校の教室と宿舎です。
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シェルドル・メドレセは広場の東側にあり、1636年に完成しました。
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このメドレセの最大の特徴は、アーチ上に描かれた文様で、小鹿を追うライオンが書かれていますが、更に人面を帯びた日輪が描かれています。
イスラムは本来偶像崇拝を否定していましたので、宗教施設に人や動物を描くのはタブーでした。敢えてその禁を破ったのは、当時の支配者が自らの権力を見せ付けるためだったとされています。
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シェルドル。メドレセの室内で、シルクロードを通して伝わった古楽器の演奏が披露されました。
このオジサンは一人で、十数種類の楽器を全て演奏していました。
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さてこの旅行記も次回で最終回を迎えます。
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by kanekatu | 2007-11-24 18:23 | ウズベキスタン | Comments(0)

中央アジア紀行 その14

サマルカンドの宿泊は、アフラシャブ・パレスというホテルで、レギスタン広場の直ぐ近くにあり、ロケーションの良いホテルでした。ウズベキスタンのホテルは、タシケントを除き快適でした。
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サマルカンド観光は、先ずアフラシャブの丘から始まりました。
写真に見るように今は何の変哲もない土塊ですが、ここがサマルカンド発祥の地です。
マラカンダという名で呼ばれたこの町は、紀元前4世紀には城塞に囲まれ、道路は舗装され水道が各家庭に延びていたとされています。
この町を築きあげたのはソクド人(胡人:イラン系民族)で、商才と工芸技術に長けていて、数世紀にわたりこの町を発展させてきたのです。
しかし1220年のモンゴル人の攻撃により、町の人口の4分の3が殺され、町は徹底した破壊にあいました。
当時の中央アジアの建築物は殆んどが日干しレンガと粘土で造られていましたので、跡形も無く消え去っています。
発掘調査の結果によれば、文化の痕跡が11層にわたって積層されているそうです。
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アフラシャブからの出土品は、近くにあるアフラシャブ博物館に収納されています。
写真は、7世紀の領主の宮殿から発見された壁画の一部です。
痛みがひどく色も褪せていますが、これは動物の絵でしょうか。
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船に乗っている絵ですが、中央アジアには海がないので、この地が東西交易の中心にあったことが窺われます。
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これは狩りの絵でしょうか。
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ティムール帝国の第4代皇帝でティムールの孫であるウルグ・ベクが建てた天文台跡です。
1908年ロシア人のシシュキンにより発見されました。
計測の細かな方法は分かっていませんが、当時の記録によれば1年は365日6時間10分4秒とされており、現在の精密な計測結果と比べ、誤差は1分以内です。
望遠鏡も無かった当時としては、驚異的な正確さです。
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シャーヒジンダ廟はアフラシャブの南麓にあり、ティムールゆかりの人々の霊廟が、まるで長屋のように通路の両側に並んでいます。
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シャーヒジンダというのは「生ける王」という意味で、この地で礼拝していた預言者が異教徒に首を刎ねられたのですが祈りを続け、その後自分の首を抱えて井戸の中に入って行ったという伝説に基くものです。
現在でもイスラム教徒の巡礼の聖地であり、その建物の美しさには定評があります。
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お参りに訪れる人々、特に女性たちは綺麗に着飾っています。
ただ霊廟の数が多く、1軒1軒回っていると相当疲れます。写真の親子は、ここで一休みしていました。
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この中で最も古い建物が、クサム・イブン・アッパース廟で11世紀の建造です。この廟だけが奇跡的にモンゴルの破壊を免れました。
写真はその入り口アーチであり、この手前奥が廟になっています。
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この後、サマルカンド最大規模のシャブ・バザールを見学。
特に買い物も無かったので、近くを歩いている人を写しました・
服装からすると大学生でしょうか。
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こちらは高校生ですかね。
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ビビ・ハヌム廟は、ティムールの正妻の廟で、中央アジア最大の規模を誇っています。
確かに大き過ぎて、写真に納まらない。
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でも、「中央アジア最大」という形容詞は、今まで何回も聞いたような気がするんですが、どれがどれだったか思い出せないですね。
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次回は、サマルカンド観光の後編です。
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by kanekatu | 2007-11-21 10:12 | ウズベキスタン | Comments(0)

中央アジア紀行 その13

早朝バスでブハラを発ち、昼にシャフリサブスに着きました。
ウズベキスタンにある世界遺産の一つであるシャフリサブスは、7世紀には玄奨三蔵もインドへの途上に立ち寄った記録がある古都です。
シャフリサブスの名を歴史の表舞台に押し上げたのは、何といってもティムール帝国を築いたティムールが、この地で誕生したことにあります。
ここで簡単に歴史を振り返ってみましょう。

1336年にアミール・ティムールがこの地方に生まれ、ここから世界の支配者の道を歩みます。
広大な帝国を築いた後も彼はこの故郷を忘れず、シャフリサブスに壮大な建築群を築きます。
ティムール帝国はイスラム王朝(1370年 - 1507年)で、その最盛期には北東は東トルキスタン、南東はガンジス川、北東はボルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西半分を制覇する大帝国を築きます。
しかし1507年に、サマルカンドから南下してきたシャイバーニー・ハーンの前にあっけなく降伏して、ティムール朝は消滅してしまいます。
シャフリサブスの都も徹底的な破壊を受け、今は遺跡に昔日の面影を残すのみとなりました。

バスを降りると、目の前に新婚の夫婦が沢山の人に囲まれていました。
新婦は婚礼衣装を身につけていましたので、結婚式の後にこのシャフリサブスにお参りに来た模様です。新郎の方は式の酒を飲みすぎたようですが、美人の奥さんを貰ったのが余程嬉しいのでしょう、近付いて祝福の言葉をかけたら、いきなり頬っぺたにキスしてきました。アー、気色悪い。
試しに、奥さんにもチュウをお願いしましたが、こちらは断られました。当たり前か。
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昼食に出たラグメンスープで、野菜と麺が入ったスープです。
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メイン料理のディムラムは、日本の肉ジャガと殆んど味が変わりません。
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食後のフルーツはウズベキスタンどこでも豊富で、普通はメロンとスイカが主ですが、ここではブドウ、ナシ、リンゴが皿に盛られて出てきました。新鮮で美味しいですよ。
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街の中心にある広場はティムール広場で、生誕660年を記念して造られたものです。
中央にティムールの銅像が建っています。ニヤゾフさんではありませんから、間違えないように。
像の両側に見えるのがアク・サライのアーチです。
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アク・サライとは白い宮殿を意味していて、1380年に着工、竣工までに25年かかった巨大な宮殿で、かつては写真奥に見えるティムール像の所まで広さがあったそうです。
現在はこの入り口アーチの門だけが残されています。高さは38mですが、建設当時は50mありました。
宮殿の屋上にはプールがあり、遊女を泳がせていたそうです。
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ドルッサオダット建築群は、ティムールとその親族を葬るために造られた廟で、かつては巨大な建築群でしたが、今は残されたいくつかの建物が、当時を偲ばせているだけです。
その一つ、グン・バジィ・サイドーン廟は、ティムールの三男の孫サイードの廟です。15世紀に建てられ、内部にあるサイードの墓標にある聖水は、眼病に効くとされています。
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クク・グンバジィ寺院は、1436年に建てられ、二つの青い丸屋根があります。
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シャハンギール廟は1376年に建てられた、22歳の若さで亡くなったティムールの長男ジェイハンギールと次男オマル・シェイフの廟です。
当初はティムールもここに埋葬されることになっていましたが、実際にはサマルカンドに葬られています。
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ハズレド・イマム寺院は、15世紀に建てられたモスクです。
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帰り道に民家の前で、ママと坊や、ママの祖母の3人が日向ぼっこをしていました。許可を得て撮影しましたが、ママは写真を避けたかったようです。
笑っているお婆ちゃんの口元に金歯が光っていますが、ウズベキスタンの年配者の多くは金歯をはめています。トルクメニスタンでは見られないのは、法律で金歯を禁止しているためです。
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兵(つわもの)どもが夢のあと、シャフリサブス観光を終えて、バスはサマルカンドに向かいました。
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by kanekatu | 2007-11-17 16:24 | ウズベキスタン | Comments(0)

中央アジア紀行 その12

宿泊したブハラ・パレスはなかなか良いホテルでした。部屋もキレイでしたし、従業員も親切でした。中央に大きな吹き抜けがあり、エレベーターがガラス張りなのが特徴です。
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毎日一階のホールで夕方の9時ごろから2時間ほど、小さなクラシックコンサートが行われます。夕食が終わるとソファに座り、1杯200円のウオッカをなめながら生演奏を聴いて、リラックスしました。
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ブハラの2日目は、旧市街から少し離れた場所にある、チャル・ミナルの見学から始まりました。
4本のミナレットを意味するチャル・ミナルは、1807年にトルクメニスタン人の富豪が、メドレセの門番小屋として建てたもので、現在はメドレセは残っておらず、この建物だけが残されています。
ずんぐりしたミナレットが特徴的で、上部は青タイルで美しく装飾されています。
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チュシュマ・アイユーブは、ヨブの泉という意味です。人々が水が無くて苦しんでいると、旧約聖書の預言者ヨブが来て杖を地面につつくと、そこから泉が湧き出たという伝説によるものです。
ヨブさんの泉はあちこちにあるそうで、日本なら弘法大師みたいな存在なのでしょう。
12世紀に建てられてものを、14、16世紀に建て増ししたものですから、変った形の建物になっています。
内部では、今でも水が湧いています。
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チュシュマ・アイユーブの近くの店先で、なんだか良く分からない部品のようなものが並べて売られているのですが、一体誰がこういう品物を買っていくんでしょうね。
片方しかない靴、誰が履くんだろうか。
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イスマイル・サーマーニ廟は、サーマン朝2代目の君主の霊廟として、892-943年に建設されたものです。王朝滅亡後、全体がすっぽり土に埋もれていたため、奇跡的に破壊から免れ、1925年になって殆んど完全な形のまま発掘されました。
9m四方で壁厚さは1.8m、壁が少し内側に傾いているのが特徴です。
日干しレンガの組み合わせだけで模様をつけるという見事な装飾技術で、中央アジア最古のイスラム建築として、世界中から注目を集めています。
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アルク城は、歴代のブハラ・ハーンの居城で、最初にここに城砦が建てられたのは5世紀頃と推定されています。その後、破壊と再建が繰り返され、現在の城は18世紀に建てられ、20世紀初めまで使われていました。
1920年にアミール王とロシア赤軍との戦闘が起き、赤軍が勝利しますが、その際に建物の7割近くが消失しています。
アルク城の外観で、左が入り口です。
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堅牢な城壁が見られます。
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城内にある金曜モスクで、円柱と天井が木で作られています。
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ボロハウズ・モスクは、1712年に建てられてハーン専用のモスクで、長さ12mの胡桃の木でできた円柱20本が、テラスを形成しています。
建物の前庭には池があります。
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正面は、赤や青を使ってキレイに彩色されています。
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内部では礼拝が行われていました。
本来は撮影禁止ですが、内壁の装飾が余りに見事なので、カメラに収めました。
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昼食に出たスープですが、こちらのスープには麺が入っていることが多い。
味は、麺の少ない塩ラーメンを食べているような感じです。
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昼食後は自由時間となりました。バスで走行中に綿が収穫期になっていて、各地で綿摘みが行われているのを目にしていたので、ちょっとお手伝いをしようやという事になり、有志で参加しました。
丁度うまい具合に、中学生たちが綿摘みに来ている畑を見つけたので、そこに飛び入りさせて貰いました。写真は、綿花と綿の実です。真っ白で実に美しい。
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日本人が綿摘みの応援に来たというので、大歓迎を受けました。
中学生たちは英語を習いたて、こちらも下手な英語で、お互いにブロークンで冗談を言い合い、楽しい時間を過ごすことができました。
一緒に作業した少女です。
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彼女達の前掛けはカンガルーのような袋がついていて、収穫した綿花をそこに入れるのですが、大きく膨らんだ前掛けをさすり「ベビーかい?」とやったところ、これが大受けでした。
後から考えると、あまり品の良いジョークではなかったようですね。反省。
私たちのバスが出発する時には、全員が道路に出てきて手を振って見送ってくれました。お互いにとても良い思い出ができたと思います。
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by kanekatu | 2007-11-12 09:12 | ウズベキスタン | Comments(0)

中央アジア紀行 その11

カラクム砂漠を越えてバスで6時間の移動。再びウズベキスタンに入国し、その日はブハラ・パレスホテルに宿泊しました。

シルクロードの交易都市として発展してきたブハラの最初の黄金期は、9世紀のサーマーン朝の時代です。ブハラは東方イスラム随一の文化を誇りました。
しかし1220年のチンギス・ハーンの来襲により、ブハラの町は完全に破壊されます。
16世紀に入ってティムール帝国の時代になって、ブハラは再び蘇ります。
250ものメドレセ(イスラムの高等教育施設)が建てられ、遠くスペインやアラブ諸国からも、沢山の神学生が集まりました。
現在のブハラの街並は、その当時の面影をそのまま残しています。

カラーン・ミナレットは1127年に建造された高さが47mのミナレットで、塔は上に行くに従って細くなる独特の建て方をしています。最上部の灯火用窓は16ヶ所。
町を破壊し尽くしたチンギス・ハーンが、なぜこのミナレットだけは残したのか、謎とされています。
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カラーン・ミナレットとつながっているカラーン・モスクは、1514年の建造。1万人が収容できる大きな建物です。2階建てで、1階が教室や図書館、2階が宿舎になっています。
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私は、高いものを見ると上りたくなるという煙と同じ習性があり、早速カラーン・ミナレットの上まで登りました。
上から見たモスクの回廊です。
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カラーン・モスクに面して建っているのが、ミル・アラブ・メドレセで、1536年に建てられました。
巨大なアーチの両脇に2つのドームがあるのが特徴です。青と白のモザイクタイルの組み合わせによる装飾が、とても美しい。
ソ連時代、唯一このメドレセだけが神学校として認められ、現在も続いています。
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タキとは大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザールで、ここタキ・ザルガロンは宝石店が軒を連ねていました。
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ウルグベク・メドレセは、1418年に建てられた中央アジア最古の神学校です。
ファザードはタイルにより装飾され、正面に「科学の追及は全イスラム男女の務め」とアラビア語で書かれているそうです。男女平等というのは、イスラムでは珍しい思想といえます。
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アブドゥールアジス・ハーン・メドレセは17世紀の建造で、未完成のメドレセです。
朱色の唐草模様の装飾が特徴ですが、イスラムの宗教施設で、朱色が使われるのは大変珍しい。
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マゴキ・アッタリ・モスクは12世紀に建てられたと推定されていて、完全に土の中に埋もれていたのを、1934年に発掘されました。
下部は彫刻されたレンガ造り、その上はアラベスク模様、上部は新しい層となっており、破壊されてはその上に新しい建物を建てたと思われます。
現在内部は、絨毯博物館となっています。
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アミール・アリム・ハーン・メドレセは、最後のハーンにより1914年に建てられたものです。
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ナディール・ディヴァンベギ・ハナカはキャラバン・サライです。
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ナディール・ディヴァンベギ・メドレセは1622年に建てられてもので、正面に不死鳥や太陽、人の顔が描かれています。これらは偶像崇拝を禁止しているイスラムの教えに反するもので、当初はキャラバン・サライとして建てたものを、後から神学校に変えたと推測されています。
現在、中庭は商店街になっており、ここで民族舞踊をみながら夕食をとりました。
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ナディール・ディヴァンベギ・メドレセの横にあるのが、ラビハウズと呼ばれる池で、1620年に造られたものです。
池の辺にはウズベキスタンの人気者、ホジャ・ナスレディンの銅像があります。ホジャおじさんは神学校の先生で学者ですが、日本でいえばトンチの一休さんのような存在です。
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ウズベキスタンはどこでもそうですが、ここブハラでも遺跡の中に商店が並んでいるのか、商店の中に遺跡があるのか分からない。どの遺跡に入っても、必ず中に商店があります。
店員は商売熱心で、ガイドが説明している最中でも、平気で商品を売り込んできます。
就学前の小さな子どもは、親の目が届く商店の周りで遊んで時間を過ごしています。写真は幼い姉妹で、机の下にもぐって遊んでいる所を撮りました。
お姉ちゃんの方は、年齢の割に妙に色っぽいですね。
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ウズベキスタンの宗教施設はどれも立派で感心しますが、沢山観ていくと、どれがどれだけ分からなくなるのが欠点です。
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by kanekatu | 2007-11-09 10:42 | ウズベキスタン | Comments(0)

中央アジア紀行 その3

ヒヴァのイチャンカラ(内城)には4つの門があり、私たちはホテルの直ぐ近くの南門から入場しました。
写真はイチャンカラの城壁と南門です。
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門に入って真っ先に目に付くのは、ヒヴァで最も高いイスラム・ホッジャ・ミナレットです。高さは48mですが、見た目はもっと高く見えます。
ヒヴァの最後のハーンによって1910年に建てられました。
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隣は、パフラヴァン・マフムッド廟です。マフムッドは13-14世紀に活躍した毛皮職人であり、詩人、哲学者、政治家、そして武道の名手というのですから、正に文武両道です。
今でも多くのイスラム教信者から尊敬を集め、毎日沢山の人が礼拝に訪れています。
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上の写真の中央下部分を拡大したもので、多くの商品が売られています。
ロープに掛けられている布は、ウズベキスタン特産のスザニとよばれているもので、刺繍の入った布を示します。とても色合いが美しいものですが、デザインが日本の家庭に合うのかが問題ですね。
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ずんぐりしているのは、カルタ・ミナレットです。カルタとは、短いという意味です。
本来は80m位の巨大なものを建てようとして、1852年に着工しましたが、1855年にアミン・ハーンが戦死したため工事が中断され、未完成のまま終わっています。
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イチャンカラの西門です。ここが正門で、入場料をここで払います。
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西門を入ってすぐ右側にあるのが、ムハンマド・アミンハーン・メドレセです。
部屋数が125と、中央アジアで最も大きい神学校で、1852年に完成しています。
正面は、キレイなタイルで装飾されています。
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キョフナ・アルクは17世紀に建てられた「古い宮殿」という意味です。
大きな要塞に囲まれていて、中にハーンの公邸、ハーレム、兵器庫、造幣局がありました。
写真はアイヴァーンとよばれる高いテラスで、17世紀に建てられ19世紀に再建されたものです。
2本の高い柱が特徴で、壁面は七宝タイルで装飾されています。
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ジュマ・モスクは多柱式建築のモスクで、約3m間隔で213本の柱が立てられています。
1本1本の木柱には精密な彫刻が施されていて、木製の天井と相俟って、日本の古寺にいるような気分になってきます。こんな様式のモスクは、恐らく世界でも類例が無いのではないでしょうか。
10世紀に建てられた後、修復を重ね、今の形になったのは18世紀です。
柱の中の4本は、10-11世紀のものがそのまま残されているそうで、驚きです。
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途中、散歩している親子3代の方々に出会いました。坊やが手を振って、愛想をふりまいてくれました。
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イチャンカラの東門です。向かって右側がいくつかの部屋に分かれており、16世紀からここがシルクロードの奴隷市場でした。
各地から集められた奴隷が、ここで売買されていたわけです。
奴隷市場は、ロシアが侵入してヒヴァを降伏させた1873年まで続いていました。日本の年号なら、明治5年まで存在していたわけです。
その時点での奴隷は3万人いて、その内3000人がロシア人だっとされています。
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さて私たちは振り出しのイスラム・ホッジャ・ミナレットに戻り、118段の階段を登ることにしました。
ラセン階段で、一段一段高さが異なる上に、中は照明がなく真っ暗ということで、慎重に上がって行きました。途中親切な少女が手を引いてくれたりして助かったのですが、お礼にボールペンを要求されました。
写真はその少女で、多分中学生だと思います。
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一渡り見学したら夕暮れ時になりましたので、イチャンカラの夜景を見ようと言うことになり、キョフナ・アルクの中のアクシェイフ・ババ見張り台に登りました。
写真中央のタワーがイスラム・ホッジャ・ミナレット、青いドームはパフラヴァン・マフムッド廟の美しいドームです。
夕陽に映えて、建物全体が赤く染まっています。
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日没直前のイチャンカラの夜景です。
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中世にタイムスリップしたようなヒヴァの街の観光を終えて、翌日は“カラ周り”に向かいます。
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by kanekatu | 2007-10-11 11:42 | ウズベキスタン | Comments(0)

中央アジア紀行 その2

関空からおよそ8時間で、ウズベキスタンの首都タシケントに到着。宿泊はウズベキスタンホテルです。
写真のように大きな老舗のホテルで、ロビーも室内が広く余裕タップリです。2Fはオフィスフロアーになっており、地下がディスコなので外部の人の出入りの多いホテルです。
いかにも旧ソ連時代の重厚長大な趣を残しており、ツアー12人中3人の玄関ドアの鍵が開かないというハプニングがありました。
帰りにもう一泊しましたが、3人が今度はエレベーターに閉じ込められるというトラブルがあり、快適とは言い難いホテルです。
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ウズベキスタンの地図は下記の通りです。
北にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東でタジキスタン、キルギスと接しています。
東部のフェルガナ地方はタジキスタン、キルギスと国境が入り組んでいます。
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翌朝、タシケントから西へ750km、飛行機で1時間強でウルゲンチに移動しました。
空港からバスで40分ほどで、最初の目的地ヒヴァ(ヒワ)に到着です。
そのまま宿泊ホテルのアジアヒワにチェックインしましたが、このホテルは客室が2階建てで、こじんまりとした感じの良いホテルでした。

その後ホテルのレストランで昼食。
メインは中央アジアの代表的料理である、プロフです。ピラフと同じようなものです。
米とニンジン、それに肉(写真は牛肉)を加えて油で炊き込むご飯で、ちょっと油っこいですが、アツアツはとても美味です。
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料理について、これはウズベキスタンでもトルクメニスタンでも共通ですが、とにかく野菜が豊富です。
トマトやキュウリなどの生野菜が皿に盛られていますし、前菜に野菜サラダがよく出ていました。
必ずパン(又はナン)が置かれていますので、調子に乗って食べていると、メイン料理が出る前に、満腹になってしまいます。
果物も新鮮で豊富、メロンとスイカは定番で、加えてブドウ、ナシ、リンゴなど、日本と同じような果物が並びます。

アルコールはウオッカがメイン、食卓には必ずウオッカ用のグラスが置かれています。
ビールは国産はやや味が落ちるので、ロシア製のビールを飲んでいました。
面白いのはビールのラベルにナンバーが付いていることで、2から9まで、少しずつアルコール度数が上がっていきます。私は中間のナンバー5が美味しく感じましたが、他の人も5番を指定していました。
注意する必要があるのは0番で、これはノンアルコールです。
ワインも造られていますし、赤ワインは結構口当たりが良く美味です。
ラマダン中にも拘らず、アルコールはほぼ自由に飲めました。

写真はホテルのレストランのウエイトレスです。多分ロシア系だと思いますが、カメラを向けると恥ずかしがって顔を真っ赤にしていました。可愛らしいですね。
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ヒヴァは砂漠の中にありますが、アムダリヤ川下流のオアシスの町で、肥沃なデルタ地帯であったため、BC3000年ごろには、農業が営まれていました。
8世紀にはシルクロードの中継点となり、町が形成されていました。
10-14世紀にアムダリア川の水系が変った影響でホレズム帝国の首都になりました。
16世紀に入って、ウズベク人がヒヴァ・ハーン朝を建国し、シルクロードの中継点となっていたこの地を首都としました。
17世紀以後はホレズム地方随一のイスラムの聖都となり、外敵の侵入を防ぐため、二重の城壁に囲まれた町を形成しました。
この内壁は高さ8m、厚さ6m、周囲が2200mに及び、内側をイチャンカラと称しています。
これ以後ヒヴァは、中央アジアの真珠と称えられるようになります。
イチャンカラは全体が博物都市として、ユネスコ世界遺産に登録されています。
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by kanekatu | 2007-10-09 07:03 | ウズベキスタン | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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