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イスラエル紀行その21(最終回)

夕方ベツレヘムからエルサレムに戻り、マハネー・イエフダ市場の中を歩きました。どの商店の店先にも沢山の商品が並べられ、多くの買い物客で賑っていました。
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食材はいずれも豊富で、魚は日本では見られない珍しい種類のものが目に付きました。
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市場の出入り口は兵士が警備しており、入場する時は金属探知機の検査があります。この辺り、いかにもイスラエルらしい光景です。
未だあどけない表情の女性兵士は、カメラを向けると軽くポーズをとってくれました。可愛らしい顔と手に持つマシンガンとが、何ともミスマッチですね。
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日本人の男性達は、マシンガンを持って歩いている女性兵士に、いちいち「オッ」と反応していました。お父さん、ヘンなことすると撃たれますよ。

イスラエルでは原則として全ての国民には徴兵制がとられており、男女とも18歳になると、男は3年間、女は1年9カ月間、兵役につかなければならない。さらに、兵役義務終了後から、男は41歳まで、女は24歳または結婚するまでの間、年2~4週間の勤務が義務づけられています。
私が知っている限りでは、男性の兵役の厳しさはスイスと並びますが、女性への兵役は恐らく世界一ではないでしょうか。
現在の正規軍の兵力は、陸軍12万5千人、海軍8千人、空軍3万5千人、予備役は43万人です。有事には大量の予備役を短期的に召集することで、常備兵の不足を補っています。装備は主としてアメリカ製で近代化し、中東地域でもっとも強力な軍隊を構成しています。

ツアー客のウヨのお父さんは、だから日本も軍隊を持たなきゃあと、盛んに息巻いておりました。

エルサレムの街は時間の制約から、私たちが見たのは恐らく全体の1割程度だろうと思います。特に旧市街は町中が博物館という感じで、少し路地に入ると、中世にタイムスリップしたような錯覚に陥ります。
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イスラエルは、初めて訪れたのですが、私にとって得たものが大きい、とても有意義なそして楽しい旅となりました。地形は砂漠、高原、海岸と特に死海があり、変化に富んでいます。
とりわけ宗教施設の多様さは世界一でしょうから、政治・文化・宗教などに興味のある方にはお薦めの国です。
心配された安全の点も、現状では全く問題ありません。
20世紀後半から現在に至るまで、中東問題は常に国際紛争の焦点となってきました。そういう意味で、多くの方が現地を見て、自分で判断材料を掴んでいくということが大事だろうと思います。

イスラエル入植者のガザ全面撤退で、一度は和平への期待が高まりましたが、残念なことにその後の推移は、これを壊すような動きが再び活発化しています。
ボールはパレスチナとアラブ諸国に投げ返されたわけですから、それらの国々に対し国際的な監視の目が必要だと思います。この機を逃せば、又中東和平は、数十年遠のくのは避けられないでしょう。
お互いに不満はあっても、現段階では新和平提案、ロードマップを確実に実施するしか方法が無いと思います。

今回が「イスラエル紀行」最終回となります。
最後までお付き合い頂いた皆様と、多くの有益なコメントを寄せて頂いた方々に、厚く御礼申し上げます。
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by kanekatu | 2005-10-31 07:51 | イスラエル | Comments(7)

イスラエル紀行その18

イエスの死によって全人類の罪が救済される、ここにイエスの偉大さがあることについては以前に触れました。
しかしそれでは、キリスト教の存在意義、キリスト教徒であることの意味が無くなります。そこで、「最後の審判」という概念が作られ、キリスト教徒だった者だけが救済されることになりました。この辺り、新約聖書の編纂者の巧みさを感じます。

「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じるならば、永遠のいのちを持ち、裁きに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5.24)

十字架で死を迎えたイエスは、3日後に復活します。
イエスの遺体は亜麻布にくるまれて埋葬されるのですが、マグダラのマリアが墓に行くと、遺体が無くなっていました。マリアは途方にくれて泣き出します。

「天使たちは彼女に言う、『女よ、なぜ泣いているのか』。彼女は言う、『人々がわたしの主を移したのです。主をどこに置いたのか、わたしには分からないのです』。こう言って後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのを認めるが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われる、『女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか』。マリアは園丁だと思って、彼に言う、『主よ、もしあなたがあの方を運んだのであれば、その方をどこに置いたのか、わたしに言ってください。わたしがその方を引き取ります』。イエスは彼女に言われる、『マリアよ』。彼女は振り向いて、イエスにヘブライ語で、『ラッブーニ』と言う。先生という意味である。」(ヨハネ20.13-16)

イエスも人の子ですね。自分が処刑される時、どこかに隠れていた使徒なんかではなく、自分の遺体に一生懸命香油を塗ってくれるマグダラのマリアのところに、一番最初に現れるのです。
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この後は、他の使徒たちのところにも次々と現れます。
中にはキリストの復活をなかなか信じない使徒も出てきます。トマスです。
「ほかの弟子たちが、彼に『わたしたちは主にお目にかかった』と言うと、トマスは彼らに言った、『わたしはその手に釘のあとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』。八日の後、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』。」(ヨハネ20.25-29)

見て触って、初めて信じるというのですから、トマスは実に実証的な性格だったのでしょうね。人間はこの位慎重であるべきだと思いますが、イエスは少しご機嫌を損ねたようです。
イスラエルの現地ガイドは、復活を信じるかどうかがキリスト教徒であることの試金石だと、説明していました。使徒でさえ信じなかった位ですから、信者でない者は、そう簡単に信じられない。
私は、キリストが幽霊となって出てきたとして、自分を納得させています。

幽霊と聞くと、直ぐに恨みを晴らしに来ると思われる向きもあるでしょうが、それが全てではありません。
「野ざらし」では、骸骨になって晒されていた遺体に回向してくれた男のところに、若い女の姿の幽霊が現れ、一晩中マッサージをしてくれます。
「牡丹灯篭」では、若い女の幽霊が、生前恋い慕っていた男のもとへ毎晩通い、最後はSEXまでしてゆきます。アタシはこういう幽霊になら、是非一度会ってみたいと思ってるくらいです。
西洋でも「クリスマス・キャロル」に出てくる幽霊は、因業なスクルージに未来の姿を見せて、改心させていますよね。
最後までイエスの思想を理解しようとしなかった弟子たちの前に現れ、一人一人に諄々と説教していったと考えれば、辻褄が合うではありませんか。

そうしてイエスは復活して40日後に、オリーブ山から昇天します。

キリストの死後40年ほどして、ユダヤ戦争によってエルサレムは崩壊します。イエスが預言した通りになります。そしてユダヤ人は、長い放浪の旅に出ることになります。

次回は、ベツレヘムです。
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by kanekatu | 2005-10-22 04:14 | イスラエル | Comments(11)

イスラエル紀行番外編―聖書の「?」

旅行記はここでチョット一息入れて、私が聖書の中で、謎と感じている部分に触れてみたいと思います。
新約聖書の最高のハイライトシーンは、イエスの最後の晩餐~ゲッセマネの祈り~十字架への道行、だろうと思われます。
ここで私が感じるのは、どうもイエスの使徒たちの行動が、肝心の場面で冴えないのです。
筆頭弟子のペテロの言動などは、喜劇でいえばボケ役としか思えないですね。

最後の晩餐では、イエスがユダの裏切りを予告しているのに、ペテロはヨハネに「ボスは今何て言ったの?」などと呑気な質問をしています。
「死ぬまであなたについて行きます」と言うと、イエスは「お前はニワトリが鳴く前に、私のことを知らないと3回言うだろう」と言われてしまいます。翌朝イエスが捕らえられ、周りの人から「あなたの知り合い?」と聞かれると、ペテロは、「いや知らない」と本当に3回言うことになります。そこでニワトリが「コケコッコー」と鳴き、ハッと気が付くというボケぶりです。
ゲッセマネの園では、ペテロたち三人がイエスから、これから大事なお祈りをするから、必ず眼を覚ましているようにと厳命されていたのに、イエスがいなくなるとさっさと熟睡してしまう。
吉本のコントなら、「あんた、ええ加減にせえよ」と、頭の一つも叩かれるところです。

でもペテロは未だ良いほうで、教団のトップが処刑されようというX-Day、天下の一大事に、イエスの裁判から磔刑までの間、使徒たちはその姿さえ見せません。当日活躍するのは、アリマタヤのヨセフを筆頭に、クレネ人シモン、ベロニカ、マグダラのマリアなど、どちらかと言えば脇役ばかりです。
使徒といえば当時の教団幹部です。イエスの死後布教に力を尽くし、今日のキリスト教の隆盛は、彼らの力に与って大。
しかも教典である聖書は、彼らを敬愛し、彼らを良く知る人々によって編纂されたのですから、このX-Dayでの使徒に関する聖書の記述は、どうしても疑問が残ります。

そこで、なぜ使徒たちが何もしなかったのか、使徒たちの言動を聖書に書き留めなかったのか、推測をして見ました。

推論① イザヤの預言の実行
紀元前6世紀頃に書かれた第二イザヤ書は、イエスの生涯を見事に預言しています。これはイザヤが超能力を持っていたというよりは、イエスが、イザヤの示唆した救世主の生き方に導かれて、行動したと考えるべきでしょう。
そうしますと、最後の死の迎え方もまた、イザヤ書に沿う必要があります。
イエスとしては、イザヤ書の預言通りに死を迎え、真の救世主として終わりを全うしようとした。
一方弟子たちは、イエスの死は、即教団の消滅を意味しますから、とても賛成できない。
イエスと使徒の間には、こうした葛藤が存在したのだと思われます。

推論② 教団の組織防衛
当時の状況から、イエスの逮捕と処刑は避けられないと判断して、教団としてはその存続のために、被害を最小限に抑え、勢力を温存し、組織を維持することを優先させたのではないか。
とすれば、磔刑当日に、使途とローマ兵士との無用な摩擦は避けた方がいい訳です。
その後のキリスト教の隆盛を鑑みれば、この時の判断が正しかったといえるでしょう。

推論③ 使徒は「イエスは神の子」だと信じていなかった
元々イエスの教団は、エッセネ派や熱心党などといった、既存の宗派から参加した人も多かったと推定されます。使徒や弟子達はイエスと行動を共にする中で、イエスに敬服していくのですが、イエスを本当に「神の子」として確信を持つに至らなかったのではないか。
教団といっても、実態はイエスと各弟子たちとの個別の繋がりであったとすれば、イエスが逮捕、処刑される事態になれば、組織はバラバラになります。
彼らは、その後のイエスの復活を目の当たりにして初めて、イエスが神の子であることを確信し、生涯を宣教に捧げる決意をしたのだと思います。

皆さんはどう思われますか?
ご意見を頂けると幸いです。
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by kanekatu | 2005-10-19 05:30 | イスラエル | Comments(7)

イスラエル紀行その17

ブログを読んでいた愛妻から、「あんた、いつからキリスト教になったのよ。」と言われてしまいました。
ああ、心貧しき者よ、幸いなれ。

さて、このヴィア・ドロローサ(悲しみの道、道行)ですが、熱心なキリスト教徒の方々は、恐らく胸が締め付けられる思いで、この道を辿るものと想像されます。
今回は、第1~第14留まで簡単に案内しましょう。各留(station)には、各々関連した宗教施設や表示が、設置されています。
1. イエス、死刑判決を受ける。
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2. イエス、鞭打ちを受け、十字架を負わされる。
ここでイエスは、兵士達に鞭で打たれ、荊の冠をかぶせられ、十字架を負わされます。
「するとピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った。『見よ、私はこの人をあたながたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見出せないことを、あなたがたに知ってもらうためである』。イエスはいばらの冠をかぶり、紫に上着を着たままで外に出られると、ピラトは言った。『見よ、この人だ』。」
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「エッケ・ホモ」(ラテン語で、「見よ、この人だ」)という言葉から、この建物がエッケ・ホモ・アーチと呼ばれています。
後年キリスト教をローマ帝国が承認することを見越してか、ローマ人ピラトは悪く書かれていません。
この辺りに、聖書作者の深謀遠慮が窺われますね。
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3. イエス、十字架の重みに最初に倒れる。
イエスは、前夜の最後の晩餐以来、食物も水も一切口にしていません。その上牢獄につながれ、鞭で打たれています。
自身が磔になる十字架、相当重いものだったと想定されますが、それを担いでゴルゴタ丘に登るというのは、相当辛かった筈です。道の途中で3回倒れます。
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4。 聖母マリアが、イエスに出会う。
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5. クレネ人シモンが、イエスに代わって十字架を負う。
「十字架につけられる兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」(マタイ27・31~32)
イエスの十字架を無理やり担がされるシモンは、北アフリカの出身でした。
このためアフリカ人やアメリカの黒人が、聖書にとても親しみを持てるようになったとされています。
ここでも、聖書作者のヨミの深さに、感心させられます。
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6. ベロニカ、イエスの顔をぬぐう。
人々のあざけりと嘲笑の渦の中で、イエスを気の毒に思ったベロニカは、血と汗を流し苦痛に歪んだイエスの顔にやさしく布を差し出します。イエスはそれを受け取ると顔を拭き、再び、それをベロニカに返します。
このハンカチに、イエスの顔が浮き上がります。このハンカチは、現在バチカンに保存されているそうです。
イエス最後の日には、こうした女性達の活躍が目立ちます。
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7. イエス、二度目に倒れる。 
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8. イエス、 悲しむ女性達を慰める。
「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くことはありません。それよりも、自分と自分の子供たちの為に泣きなさい。」 (ルカ第23章28節)
9. イエス、 3度目に倒れる。

ここから10~14留は、ゴルゴタの丘に立つ聖墳墓教会の中になります。
ゴルゴタとは、しゃれこうべという意味で、地形がしゃれこうべに似ているからとか、この場所に人類最初の人間アダムの頭蓋骨が埋葬されているからとも、伝えられています。
ローマ皇帝コンスタンティヌスの母へレナは、西暦326年に聖地巡礼を行いますが、この場所で3本の十字架を発見し、ここをゴルゴタの丘と確定します。最初の教会は、336年に完成しました。
教会内部は、宗派間の争いを防止するためにオスマン帝国時代に制定された「現状維持法」が今も守られ、ローマカトリック、ギリシア、アルメニア、コプト、エチオピア、シリアの6宗派が、各々の場所を管理しています。面白いのは、教会の鍵はあるイスラム家族が世襲制で管理していることで、イエスの墓があるのに、不思議な気がします。
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10. イエス、衣を脱がされる。
11. イエス、十字架につけられる。
イエスが磔刑になっている絵画は数多いのですが、みな手首に釘が打たれています。しかし当時の磔刑というのは、拷問及び晒らしものという意味合いもありましたから、囚人が即死しては困るのです。
そのため実際には、足を支える台が十字架に取り付けられていました。ですから長時間、囚人は生きながら苦しみを味わうのです。
そこで最後のトドメをさす時は、兵士が囚人の足を折り、死亡させます。
ここにアリマタヤのヨセフが登場し、イエスだけは足を折らないように、兵士に交渉します。彼の熱心な請願により、兵士は槍でイエスの脇腹を刺し、トドメをさしたのです。
アリマタヤのヨセフとは、ルカによると「善良で正しい人」であり、最高法院の議員でもあったが、「議会の議決や行動には賛成しなかった」とあります。
当時のイエスの教団には、こうした有力なサポーターの存在が、不可欠だったのでしょう。
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12. イエス、十字架上で息を引き取る。
「昼過ぎから全地は暗くなり、3時頃になった。イエスは大声で『私の神、私の神、どうして私を見捨てられたのか。』と叫ばれた。」 (マルコ第15章33・34節)
イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取ります。
前夜に、自分の運命を悟っていた筈のイエスのこの最後の言葉には、人の子としてのイエスの苦しみがひしひしと伝わり、胸が打たれます。
この時、イエスの身体から流れ出た血こそ、全人類の罪の穢れを浄める血でした。
イエスの十字架の真下には、アダムの墓があったとされ、こうして人間の原罪をも洗い浄める血となりました。
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13. アリマタヤのヨセフ、イエスの遺体を引き取る。
「夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。」(マタイ27章57-66節)
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男の使途たちがみんな身を隠した中で、女性の信者たちは一部始終を見届けていたのでしょう。
全国の男性諸君、最後に頼りになるのは女性だという、これは大切な教訓ですよ。

イエスの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフは、恐らくは他の女性の協力を得ながら、身体を清拭し、香油を塗って後に埋葬します。この時に使われてという塗油台が今も置かれ、信者の人々がここに接吻します。
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14. イエス、埋葬される。
イエスの墓は、一度に3-4人しか中へ入れません。内部は撮影が禁止です。
祭壇の前に立つと、何とも言えない敬虔な気持ちになります。
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いつもは巡礼の人たちで混み合っているそうですが、私たちの見学した日は比較的人が少なく、各施設がゆっくり見られて幸いでした。
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by kanekatu | 2005-10-17 05:16 | イスラエル | Comments(11)

イスラエル紀行その16

最後の晩餐とゲッセマネでの祈りを通して、自らの運命を悟ったイエスは、その夜のうちに神殿兵により捕らえられ牢獄に入れられます。翌日の早朝に、裁判で死刑を宣告され、ゴルゴタの丘で磔刑になるのですが、この時にイエスが歩いた道をヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と言います。
道は、第1から第14留(station)までのコースになっています。
当時の処刑は、日本でも時代劇に“市中引き回しの上、打ち首獄門”と奉行が判決を言い渡す場面がありますが、当時のイスラエルにおいても同様に、単に命を奪うだけでなく、多くの民衆から様々な恥辱を受けた後に殺されるわけです。
ヴィア・ドロローサは、今でも両側に小さな商店がぎっしり並ぶ繁華街で、全長は1kmです。当時も今と同様の状態であったと想定されています。
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写真は第3留付近で、この辺りでイエスが十字架の重みに耐えかねて、最初に倒れた場所とされています。
両側を埋め尽くした民衆が囃し立てる中を、十字架を背負って歩かされるイエスの気持ちは、死ぬより辛かったと想像されます。
これから私たちはイエスと同じ道を辿って、ゴルゴタの丘に行くことにします。

イエスは最終的には死刑を宣告されるのですが、これは決してスンナリと行ったわけではありません。判決は最高法院で下すのですが、サドカイ派の祭司、地主貴族、パリサイ派の代表者らによって構成され、議長は大祭司カヤパです。
裁判はローマ法に則り行われますから、それ程ムチャなものでは無かった筈です。ではイエスはどんな罪状で裁かれたのでしょうか。イエスは以前から、民衆から“ダビデの子”と呼ばれ尊敬を集めていました。これを口実に、“ユダヤ王を僭称した”という罪を着せたのです。
今で言う国家反逆罪ですかね。あるいは日本の戦前でいう不敬罪かな。

それにしても、コジツケもいいところだという気がしますが、パリサイ派の強い主張により、強引な有罪判決になったものです。彼らとしては、イエスが民衆から支持を集める前に、芽を摘み取っておこうとしたのでしょう。
裁判に先立ち、パリサイ派が民衆を扇動して、イエスの処刑を求める大衆運動をしておいたのが、恐らく功を奏したのです。
いつの時代でも民衆の熱狂は、判断を誤らせることがあります。
日本の先の選挙でも、やれ刺客だ、さつきタンだ(あの人、どこが好いんですかね?)、ゆかりタンだと連日マスコミで大騒ぎしましたが・・・、あ、これは、チョット横道に逸れてしまいました。

死刑を実施する権限は最高法院にはありませんから、最後はローマ帝国から派遣されていた総督ピラトの判断となります。イエスはアントニオ要塞の、ピラトの前に引き出されます。現在はこの要塞跡はオマリーエ学校が建てられ、この中庭が第一留となっています。
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総督ピラトは、イエスを死刑にするのは、どうも気が進まなかったようです。一度は「この人には何の罪も見出せない。」と宣言するのですが、熱狂した民衆は収まらない。そこでピラトは、過越祭では囚人に恩赦を与えるという特例を持ち出し、もう一人の死刑囚バラバとイエス、どちらか一人を恩赦で解放すると提言します。
興奮した民衆は一斉に、イエスを死刑にと叫び、死刑判決が確定します。ピラトとしては、「民意の判断に委ねる」形にしたわけです。
その後すっかり悪役にされたピラトですが、彼は彼なりにイエスの死刑を回避しようと努力した点は、認めてあげるべきだと思いますが。
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by kanekatu | 2005-10-14 03:18 | イスラエル | Comments(14)

イスラエル紀行その15

イスラエルの旅、そしてこの旅行記もそろそろ終盤に近づきました。
ここからは、イエス・キリストの聖跡を中心に、エルサレムの街を見て行きます。
先ず当時のエルサレムがどういう状況にあったかですが、ヘロデ王の時代にイスラエルは繁栄し、エルサレムに新たな神殿が建てられました。第二神殿ですね。イエスの時代になると、完全なローマの属国となり、ローマからピラト総督が派遣されていました。しかし当時のローマは、ある程度イスラエルの自治を認め、文化や宗教は自由にさせていました。

エルサレムの宗派としては、サドカイ派が地方貴族と手を結び、政治経済の実権を握っていました。
この他に、一般市民レベルの宗派パリサイ派があり、こちらはユダヤ教の律法を厳格に守り、禁欲的な生活を強いる宗派でした。
この内、最もキリストの教団を強く批判したのは、パリサイ派の人々でした。
一方イエスの側も、ローマ帝国やサドカイ派とは正面から衝突することなく、主にパリサイ派への批判を強めていました。

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々を入らせない。」
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、白く塗った墓に似ている。(中略)外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」(マタイ福音書)

イエスがなぜローマ帝国やサドカイ人を指弾せず、パリサイ人を叩いたのかという理由ですが、イエスの考え方に、形式だけにこだわって、信仰心が伴っていない連中に対する嫌悪感があったのでしょう。
それと私は、信者の支持基盤がパリサイ派と競合していたという、事情があったのだと思います。
今の日本に例えれば、パリサイ派が公明党、イエス派が共産党、こんな感じですかね。
ともかく、ここまで批判されればパリサイ派も黙ってはいられません。結局、後にイエスの処刑を最も強硬に主張したのが、パリサイ派の人々だったわけです。
処で現在のユダヤ教は、パリサイ派の流れを汲んでいるそうです。してみると、イスラエルをアメリカが支援するのは、「歴史的和解」といえるのでしょうか。

シオン門を出て間も無く、「最後の晩餐」が行われた建物が見えてきます。
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肝心の部屋の中はガランドウで、何もありません。
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「最後の晩餐」と聞くと、私たちはどうしてもあのダヴィンチの名画を思い起こしてしまいますが、実際の食卓はあんな風に横長で、全員が同一方向を向いていたということは、有り得ません。TVドラマじゃないんですから。
この晩餐は、過越祭の直前に行われていますので、先ずイースト菌を入れない固いパン、パンにつけて食べるための鉢に入った果汁、又はジャムのようなもの、そしてワイン、この辺りが必須アイテムだったと推定されます。
当時の宴会は、三人掛けの寝椅子に互いに寄りかかりながら、テーブルを囲むというスタイルだったそうです。場面を想像すると、ちょっと気色ワルイ感じもしますが。
この席上イエスは、ユダの裏切りを予告します。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペテロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。」(ヨハネ福音書)

「わたしと一緒に同じ鉢に手をいれている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(マタイ福音書)

宴会の席次というのは、今も昔も大事なものです。お役人の世界でいう、配席表ですね。
普通は一番偉い人を中心に、役職の上の人から順次並んでゆきます。イエスと同じ鉢という表現からすると、ユダはイエスの席に近くに座っていたらしく、教団の中では結構重要ポストにいたことが想定できます。大体トップを裏切る人間と言うのは、ある程度の地位の人になりますからね。
それに反して筆頭弟子のペテロは、どうもイエスと離れた席にいたらしく、使徒同士のビミョーな力関係を感じてしまいます。

ユダの裏切りについては、もしこのまま放置すれば、イエスとその使途が一網打尽に捕まるので、イエス一人に罪を負わせ、教団を守ったという説もあるようです。ユダはこの後、罪の意識に苛まれ自殺しますので、こういう説も生まれるのでしょう。
確かにユダの裏切りは、多くの謎を残していますね。

最後の晩餐では、もう一つ重要なことが、イエスから告げられます。

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』
食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」(ルカ福音書)

この後の、イエスの十字架での死と復活により、神との新しい契約、新約が結ばれることになります。
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by kanekatu | 2005-10-11 03:43 | イスラエル | Comments(0)

イスラエル紀行その14

神殿の丘の西側の壁を、「嘆きの壁」と呼んでいます。
イスラエル建国後も、この辺りはヨルダンの管理下にあったため、第三次中東戦争後の1967年になって、ユダヤ人達はここで祈りができるようになりました、
ユダヤ人にとっては、1900年ぶりに悲願が達成されたわけです。
中に入りますと、沢山のユダヤ教徒が聖書を手に持って、身体を前後に小刻みに揺らしながら聖書を読む姿が見られます。壁の石の隙間に、各自の願い事を書いた小さな紙を挟むのですが、これが夜露に濡れた状態が、涙を流すユダヤ人の姿を映しているとされ、ここからこの壁が嘆きの壁と呼ばれるそうです。
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私の眼には、本来ユダヤ教の神殿であった場所が、未だにイスラム教の管理下にあり、一日も早くユダヤ教の手に取り戻したいという願いを込めている姿に見えるのですが、穿ち過ぎでしょうか。
入り口が男女別々で、ツアーの女性メンバーから聞いたところでは、女性の信者では泣いている人もいたそうです。

ユダヤ人地区に関係した遺跡としては、6世紀に作られた世界最古のマタバ地図にも書かれている、エルサレムの繁華街カルドがあります。廃墟になっていたのですが、イスラエル建国後に発掘、修復されて、現在はショッピングセンターとして賑わっています。
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カルドの先に、シオンの丘に通じるシオン門があります。
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ここでイスラエルの産業について、触れてみたいと思います。
イスラエルの主な産業として、ダイヤモンドの研磨加工が上げられます。
古代から多くの宝石はインドからエジプトへ、あるいはギリシャへローマへと、パレスチナの地を通って運ばれていました。このようにパレスチナは、交易ルートの中心に位置していたため、ユダヤ人は商人としての才能が磨かれたのです。ユダヤ人が度重なる迫害の中で、最後に便りになるのは宝石、中でもダイヤモンドであることを学んでいきました。
現在原石の買い付けは、ユダヤ人が支配している、ロンドンに本部を置くデビアス社を中心とするシンジケートが、研磨加工はイスラエルという棲み分け進んでいます。イスラエルのダイヤモンド研磨は、およそ世界の半分のシェアーを握っています。
良質のダイヤを安く手に入れるには、イスラエルが一番だと、これは現地ガイドの説明です。

イスラエルの音楽ですが、日本人が良く知っている曲があります。
先ず「マイムマイム」。皆さんも若かりし頃一度は、「マイムマイムマイム、マイムベサソン」と歌いながら、フォークダンスを踊った経験をお持ちでしょう。あの曲です。意味は、「喜んで水を汲む」。
それから「ハヴァナギラ」、これはハリー・ベラフォンテが歌って、世界的にヒットしましたね。意味は、「さあ、歓喜しよう」。
他には「ヘヴェヌシャローム」、これは確かアーサー・キッドの曲だったと思いますが、日本でもヒットチャート入りしました。意味は、「私たちは平安を持ってきた」。
いずれも1950年代後半に、日本で流行ったと記憶しています。あっイケネエ、歳がバレル。
当時の日本人の中に、イスラエル建国に対する共感があったのではと、これは私の勝手な想像ですが。
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by kanekatu | 2005-10-08 05:12 | イスラエル | Comments(8)

イスラエル紀行その13

ここでイスラエルの概要について、簡単に触れておきます。
面積は2万平方kmで日本の20分の1程度ですから、小さな国です。
人口はおよそ600万人で、エルサレムにその内1割の人が住んでいます。
イスラエルというと国民全部がユダヤ人と思われるかも知れませんが、約15%はアラブ人です。昔からパレスチナに住んでいたアラブ人でイスラエル国籍を取得した人が、100万人近くいるわけです。従って、イスラエル国民だがイスラム教徒という人も大勢いるわけで、今回の私たちのツアーのバスの運転手さんもそうでした。

出身国は世界各国にまたがっていますが、東欧が多く、特に近年はロシアからの移民が増えているそうです。確かに町を歩いていると、ロシア語の看板が目につきます。
ユダヤ人差別というと、直ぐにナチスを思い浮かべますが、実は旧ソ連でも差別がひどかったのです。
そして現在、イスラエル国内の保守派、右派、強硬派と呼ばれる人たちは、ロシア出身者が多い。
宗教が異なると、生活習慣が全く違うため、同じ宗教の人同士、同じ地域に住む傾向があるそうです。
ユダヤ教徒と一口に言っても、信仰の度合いは異なるようです。現地ガイドの見解では、信仰が深い人の割合は全体では3割程度、エルサレムに限れば6割程度とのことでした。さすが聖地ですね。

一方パレスチナ自治区ですが、こちらは約85%がムスリム、15%がキリスト教徒という割合だそうです。概してキリスト教徒の方が富裕層で、高学歴とか。パレスチナでは女性差別が強いため、高学歴の女性で海外に出てゆくケースが多いとのこと。
それから、パレスチナ地区のキリスト教徒は、概してイスラエルに好意的だそうです。
同じことは、多分イスラエルのアラブ人にも云えるかも知れません。

私たち一行は、いよいよエルサレム旧市街の中に入って行きます。
東側高台に神殿の丘があります。どこかで聞いた覚えがある名前だと思いますが、そうです、2000年にイスラエルの現首相シャロン氏が、ここ神殿の丘を訪問したのをきっかけに、パレスチナとの武力衝突が激化した因縁の場所です。
当時日本では、”イスラムの聖地である神殿の丘を“という風に説明された記憶があるのですが、これは不正確です。
ここに古くはソロモンの神殿があったとされ、紀元前20年に、ヘロデ王がこの地に新しい神殿を建てました。ですから元々はユダヤ教の神殿であったわけです。
キリストの処刑後の紀元70年、ローマ軍によるエルサレム陥落に伴い、神殿は破壊されました。
その後ウマイヤ朝の時代691年に、イスラム教の施設として岩のドームが、
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次いでアルアクサー寺院が建てられ、
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ここがイスラム教の聖地になったわけです。

イスラム教の言い分・・・この岩は、預言者ムハンマドが天使を従え、天馬に乗って聖天した聖岩がある。その証拠に、岩の上部にムハンマドの足跡が残されている。岩の下にある洞窟は、かつてアブラハム、ダビデ、ソロモンたちが祈りを捧げた場所で、“魂の井戸”と呼ばれる。最後の審判が行われる時に、全ての魂がここに集まる。

ユダヤ教の言い分・・・この岩は、アブラハムが自分の子イサクを神に捧げようとしたモリヤの丘(つまり、神と人間の最初の契約が行われた場所)である。又ダビデが神の契約を祀った場所である。

キリスト教の言い分・・・この神殿には、イエスが頻繁に訪れていた。イエスが十字架で絶命した時に、神殿の中の幕が、真っ二つに切り裂かれた。

かくしてここは、それぞれの宗教にとって重要な聖地なのです。
従って、シャロン氏がここを訪問して何が悪い、というユダヤ教徒の理屈も成り立ちます。
ユダヤ教徒は、この丘にユダヤ教の神殿を再建することを希望しているそうで、その時は又、ヒトモメもフタモメもあるのでしょうね。
どなたか、いい知恵、ないでしょうか。

写真は神殿の丘からのオリーブ山の眺望。金色の屋根の小さな教会が、マグダラのマリア教会。
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by kanekatu | 2005-10-05 01:59 | イスラエル | Comments(0)

イスラエル紀行その12

テルアビブからエルサレムへの道は上り坂が続きます。エルサレムの街は標高800mの高地です。
死海まではおよそ30km、冬の晴れ渡った日には、街から死海が見えるそうです。
オリーブ山の展望台からエルサレムの街を見渡すと、この街全体が多くの丘と谷からなっており、坂が多いのが良くわかります。
写真の手前がケテロンの谷で、その先がエルサレム旧市街となります。中央に燦然と輝いて見えるのは、岩のドームの黄金の屋根です。
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エルサレム旧市街の中心部は、たかだか2km四方の狭い地域で、端から端まで歩いても大した距離ではありません。その地域の中が、キリスト教地区、アルメニア人地区、ユダヤ人地区、ムスリム地区と分かれています。これら全ての宗教にとってエルサレムは聖地なのですが、ここにエルサレムの、そしてイスラエルに横たわる複雑な問題が凝縮されています。

確かに旧約聖書では、神はアブラハムとの間で結んだ最初の契約で、「わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう。」(創世記第17章)と述べています。しかし、今さら約3千年前には俺の土地だったと言われても・・・、もう民事の時効はとっくに過ぎているし・・・、とアラブ人側が主張するとしたら、それはそれで尤もな気がしてきます。アア、ヤヤコシヤ、ヤヤコシヤ。

エルサレムに入城してからのイエスの行動について、私たち無宗教の人間の目から見ると、どうも理解に苦しむことが多い。イエスは、前夜には翌日自分が処刑されることを、ユダが裏切ることを、ペテロを始めとする使徒たちが誰も自分を助けようとしないことを、全て分かってしまうわけです。
普通なら、先ずは他所へ逃れるか、逮捕を防ぐ何らかの手段を講ずるでしょう。例えばオウム真理教の麻原のように、現金を抱えて隠れ部屋へ逃げ込むとか。
しかし何もしない。むしろ自らの運命を逍遥と受け入れて十字架につきます。
私なら、死んでから使徒の前に化けて出て、散々うらみつらみを言い立てますがね。

この疑問を解く鍵は、旧約聖書のイザヤ書にあると思います。
イザヤは、ユダヤ人のバビロンの捕囚時代の預言者とされていますが、イザヤの預言を一部引用します。

彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。(53:4)
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(53:5)
わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。(53:6)

イエスは、イザヤが預言していた救世主の通りに生き、そして死んでいったと考えれば、エルサレムでのイエスの行動は、十分納得がいきます。
イザヤは紀元前8世紀ごろの人物だったようですが(先の引用部分は、もっと後世に書かれてという説もありますが)、その預言はイエスの生涯をピタリと当てています。
細木数子センセイなど、目じゃないですね。

新約聖書の中で最も心が打たれるハイライトシーンはどこかと問われると、人によって答は違うでしょうが、私の場合は、イエスが十字架にかけられる前日、最後の晩餐の終わった後の、ゲッセマネでの祈りの場面です。少し長くなりますが、マタイ伝には、次のように描かれています。

最後の晩餐のあとイエスは、弟子たちとともにオリーブ山に来ると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ三人の高弟だけをつれてゲッセマネに入っていきました。そして三人に「私は死にそうなほど悲しい。あなたたちはここで起きていなさい」と言うと、一人で園の奥に行って祈り始めます。
弟子たちから離れたイエスは、神に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。
ここで杯というのは、これから受けようとしている苦難のことです。できることなら、十字架の上で神に捨てられるなどということは避けたい。しかし自分がみんなの罪を背負わなければ、だれも神のもとに行くことはできない。イエスは、自分の願いよりも神の思し召しの通りにと祈ったのです。イエスは血のような汗を流しながら、同じ言葉で三度祈ります。
それから3人の弟子たちの所に戻ってくると、3人とも眠っていました。「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切るものが近づいてきた。」

信頼していた弟子達からも理解されない、苦悩と孤独感に思い悩む、人間イエスの姿がここにあります。
イエスの偉大さは、全人類の罪を一身に背負って、自ら死を受け容れたということでしょう。

オリーブ山の麓に、そのゲッセマネの園があり、イエスの時代から生き続けていると言われているオリーブの木が残されています。
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この園の横に、万国民の教会があり、
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教会の祭壇の前にある岩の上で、イエスが祈りを捧げたと伝えられています。
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祭壇の前で一人の女性が、「何でこう、宗教の名の下に、戦争が起き、人が殺されていくのかしらね。」とつぶやきました。
なぜなのか、私にも、分かりません。
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by kanekatu | 2005-10-02 04:20 | イスラエル | Comments(1)

イスラエル紀行その11

イスラエルのツアーでの現地ガイドの説明は、大半が歴史と聖書に割かれます。参加者の中には、私たちは旅行を楽しむのが目的で、歴史の勉強に来たわけではないという不満もありました。
しかしイスラエルは物語に満ちた国であり、又そこが最大、唯一の魅力でもあります。
いよいよ私たちは、今回のツアーの最後の街であり、最終目的地でもあるエルサレムに向かいます。

バスがエルサレムに着いたのは、夕方でした。
夕日を受けて、街全体が薄い黄金色に染まります。エルサレムの街中の建物は、外壁に使う材料が決められています。クリーム色の石灰石又は花崗岩でエルサレム石と呼ばれています。永年の間、武力衝突を繰り返しながらも、市民が一方で都市の景観を保ってきたことに、感心します。
これは中華料理か?と疑わせるような味の、チャイニーズレストランでの夕食の後、新市街の繁華街の中心地、ベンエフダー通りに繰り出しました。この辺りは、かつては自爆テロで多くの犠牲者が出た所だそうですが、夜の9時半を廻っていても人通りが多く、オープンカフェでは沢山の人々が、お喋りを楽しんでいました。
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ところどころにストリートパフォーマーたちが、楽器を演奏しています。
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警備の兵士や警官の姿も無く、拍子抜けするくらいに明るい街の雰囲気でした。

ホテルは、エルサレム東北部のリージェンシーでした。駐車場に止まっている車に、オレンジのリボンを付けたものが多いのに気付き、聞いてみたところ、ガザ地区を強制退去された人々とその支援者(ガザ撤退反対者)のサインだそうです。当日ホテルに、沢山のガザ退去者が宿泊していたようで、政治家の姿も見られました。因みに、ガザ撤退の政府方針を支持する人は、白と青(イスラエル国旗の色)のリボンを付けるのだそうです。

ガザ撤退が完了しましたが、未だに撤退に反対する世論は根強いものがあります。
国際世論の多くは、中東和平に向けての第一歩と期待しているのですが、イスラエル、パレスチナ双方共に、和平が進むのが困る人達がいるのです。戦争が続いた方が、利益になる人々の存在です。
政権政党であるリクード党内にも、ガザ撤退への反対論が強く、シャロン氏が党首に再選されるかどうかは、微妙です。日本では専らタカ派として知られているシャロン首相ですが、政権与党の中では穏健派です。
イスラエルのガザ地区撤退後、現在パレスチナ側からのロケット攻撃と、イスラエル軍の空爆が繰り広げられていますが、この帰趨によっては、一気に新和平交渉が決裂する可能性もあります。
ここ暫くは、私たちもイスラエル国内の動きを注視する必要があります。

私は先の湾岸戦争の真っ最中に、アメリカを訪問していたのですが、出征兵士の家族とその支援者たちは、家の玄関先や自家用車に黄色いリボンを付けていました。
今回の旅行で、オレンジのリボンを見たときに、その事を思い出しました。
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by kanekatu | 2005-09-29 04:10 | イスラエル | Comments(3)

憂きな中にも旅の空


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