カテゴリ:グルジア( 5 )

コーカサス三国旅行記(9)

グルジア観光二日目の午後は国立美術館からスタート。
ここの目玉はグルジアが生んだ天才画家”ニコ・ピロスマニ”の絵画なんですが、残念ながら現在貸し出し中。
仕方なく宝物館を見学。入場制限がありツアーのグループも3班に分けての見学、もちろんカメラ禁止。でも中味はイコンが主で、それほどの「お宝」とは思えなかった。
ニコ・ピロスマニといえば「百万本のバラ」のエピソードで有名。
1862年に貧しい農家に生まれ、トビリシに出てきて働きながら絵を描いていました。
ある日街を訪れたフランスの女優・マルガリータに出会い恋におちます。そして自らの愛を示すために、彼女の泊まっているホテルの前の広場をバラの花で埋め尽くします。
きっと迷惑だったろうな。
この伝説をもとに「百万本のバラ」が作られ世界的にヒット、日本でも加藤登紀子が歌い有名になりました。
かつての上司がこの歌が好きで、カラオケに行くと必ず歌うんです。
こちらも迷惑。

丘の上に立つメテヒ教会、古くから砦があった場所に13世紀後半、教会として建てられました。
帝政ロシア、ソ連邦治下の時代には劇場として使われていました。
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グルジアの角栄と呼ばれている(ウソですよ)ワフタング・ゴルガサリの像。
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ここからトビリシ旧市街が見渡せます。
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橋の下に流れるのはクラ川。
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”トビリシ”というのは温泉の街という意味だそうで、古くからハマムと呼ばれる公衆浴場が沢山あったようです。垢すりやマッサージもしてくれるとか。
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5世紀にこの温泉を発見したとされる鷹の像ですが、周囲はちょうど工事中でした。
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ハマムの脇にある公園でドミノに興じる男性たち。
きっと賭けてるんだろうな。
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レストランやお洒落なカフェが並ぶシャルデン通りです。
アジアンというより欧風ですね。
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グルジアに人々は親しい人を招いて宴会をするのが好きなんだそうです。
その宴会部長を”タマダ”といい、乾杯の音頭を取ったり話題をリードする役目だとか。
そのタマダ像。
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1910年に建てられたシナゴーグです。
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一階は工事中でしたが、二階が教会というのは珍しい。
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周囲はユダヤ人のゲットーです。
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シオニ教会6世紀に創建、現在の建物は13世紀のものとか。
聖ニノの十字架が保管されています。
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さて夕食は”グルジアワインセンター”、名前から分かる通りかつてのワイン貯蔵庫です。
地下にあって涼しいんです。
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メインの鱒料理。
もちろん、美味しいワインをお供にして。
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ハチャプリ(チーズパイ)。
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フルーツは盛りだくさん。
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宿泊は前日に続き”コートヤード”、アゼルバイジャンのホテルに比べ快適。
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by kanekatu | 2012-08-21 11:24 | グルジア | Comments(2)

コーカサス三国旅行記(8)

グルジア観光の二日目はワインの産地であるカヘティ地方に向かいます。
旧約聖書によれば初めてワインを造ったのはノアで、コーカサス山脈付近とされているようです。
この地方に住む人が何かのひょうしに葡萄からワインが出来るのを発見した可能性が高い。
グルジアのワイン文化は8000年ともいわれ、紀元前3000年頃にはここからエジプトに伝わったそうです。
以前リビアを訪問したとき、あそこはアルコール全面禁止の国ですが、現地の人にあなた方は本当にアルコールを口にしないんですかと訊いたら、絶対に飲まないという答えでした。でも・・・と続けて、葡萄ジュースを長く貯蔵していると味が変わるんです、それは皆が呑んでます、と。なーんだ、結局隠れてワインは呑んでじゃないかと大笑い。
落語の禁酒番屋じゃないが、やっぱり酒を禁止するってえのは無理があるんじゃない。

到着したのは「グルジャーニワインハウス」というワイナリー。
300年の歴史のあるワイン農家で、こちらがご当主のギウさん。
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早速ワインの製造プロセスやそこから蒸留して造る「チャチャ」を説明してくれましたが、皆さんの関心は専ら試飲会に。
この後、ここで昼食。
ハチャプリ(チーズピザ)やシャシクリ(豚の串焼き)などが出されましたが、なんと言っても焼き立てのパンに飲み放題のワイン、これです。
私も4日前の失敗などケロッと忘れてタップリ頂きました。
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昼食後は熟睡状態のままバスに揺られて約2時間、再びトビリシに戻ります。

脱線ついでに、ロシア民謡に次いで「歌声喫茶」に触れてみたいと思います。
ある程度の年齢以上の方なら、どなたでも一度や二度は「歌声喫茶」に行かれた経験があるでしょう。誕生は1954年といわれていますが、当時は都内だけでも何軒もの店がありました。
歌集を片手に飲み物を飲みながら、アコーディオンを抱えたリーダー役の人が次から次と選曲し、全員が声をあわせて歌うというスタイル。店によっては歌とダンスを組み合わせたショウタイムを設けていました。
曲目の中心はロシアの民謡や歌曲でした。

「歌声喫茶」の誕生に大きな影響を与えたのはソ連映画「シベリア物語」です。
1947年に制作され日本では1948年に公開されました。苦難を乗り越えてシベリア開拓に立ち向かう人々を描いたミュージカル映画です。今から見れば笑いたくなる位のプロパガンダ映画ですが、戦後の貧しい生活の中で経済復興に励んでいた人々、特に若者たちは感銘を受けたようです。
ストーリーもさることながら、映画の挿入歌として使われた「バイカル湖のほとり」や「君知りて」などのロシア民謡が広く口ずさまれることになります。

前後してシベリア抑留者が順次日本へ帰還してきますが、そうした人々の中の音楽家たちが中心になってロシアの歌曲が紹介されるようになり、中央合唱団や合唱団白樺などが中核となって「うたごえ運動」が起きます。
またダーク・ダックス、ボニー・ジャックスなどのコーラスグループによってこうした曲がメディアを通じて全国に流れるようになります。
もう一つの要因として、労働組合運動や学生運動の興隆があげられます。
合唱は連帯感を高めますので、運動には不可欠です。
若い人たちのレクリエーションでも、当時は歌声とフォークダンスは不可欠だったといって良いでしょう。

1970年代になると、労働運動や学生運動が沈静化し、歩調を合わせるように「うたごえ運動」も下火になってゆきます。
その結果「歌声喫茶」も閉店する所が増えてゆきます。
もう一つの要因としてあげられるのは、「ロシア民謡」ブームの背景には、ソ連という国と社会体制に対する憧れが内在していました。
しかしソ連の実情が伝わるなかで、多くの人たちが幻滅を感じるようになったことも大いに影響したと思います。
「歌声喫茶」の衰退とほぼ入れ替わるようにカラオケブームがやって来ます。
合唱から独唱への移行です。集団から個人の時代へ。連帯から孤立へ。

しかし「うたごえ運動」も「歌声喫茶」も消滅したわけではありません。
ドッコイ生きてます。
下記はドイツの詩人ツェザール・フライシュレンの詩の一節です。

くちびるに歌を持て
ほがらかな調子で。
毎日の苦労に
よし心配が絶えなくとも!
くちびるに歌を持て
そうすりゃ、何がこようと平気じゃないか!
どんなさびしい日だって
それが元気にしてくれる!
(山本有三訳)

人々に勇気を与え元気にしてくれる「歌」は、これからも求められ続けると思います。

脱線ここに極まれり。
次回からはマトモな旅行記に戻します。
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by kanekatu | 2012-08-18 18:32 | グルジア | Comments(2)

コーカサス三国旅行記(7)

これから先の軍用道路も舗装こそされているものの道幅が狭くなり、大型車がすれちがう時なぞは道路の端ギリギリに寄せることになり、片側が崖の所ではスリルを味わうことになります。
こんな山の中にも集落があるんです。
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標高が高くなったのを実感します。写真の左下に見えるのが先ほど通ってきた道路です。
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右上に軍用道路の一部が見ますが、こんな状態です。
この写真を撮るときは結構怖い思いをしました。
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「グルジア・ロシア友好条約200年記念碑」は1783年に条約が締結された200年後の1983年に建てられました。
壁面にはグルジア、ロシア双方の歴史などが描かれていますが、両国の関係が悪化している現状の反映か、壁の一部が落下したままの状態です。
なんか俗悪なデザインですね。
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ここでは現地ガイドに対する質問はスターリンに集中していました。
グルジア独立後も出身地ゴリを中心にスターリンを敬う風潮は残されていたそうですが、2008年に南オセチアをめぐるロシア・グルジア紛争を経てロシアとの国交を断絶してからは、スターリンを良く言う人はいなくなったとのこと。ゴリにはスターリン博物館はあるがそれはあくまで歴史的なものと解釈しており、銅像は撤去されているという説明でした。

ヨシフ・スターリン (1878年12月18日– 1953年3月5日)はソビエト連邦の最高指導者であり、第二次世界大戦でドイツ軍を破り大戦を終結させた軍の指導者でもあります。
スターリンが死んだとき私は小学生でしたが、当時号外が出ていました。今の号外は街頭でタダで配ってくれますが、昔の号外は腰に鈴をつけて大きな声で「号外!号外!」と売り歩いたものです。
号外の紙面をみながら大人たちが集まって、「これからどうなるんだろう」と話し合っているのを憶えています。
彼の死により日本の株価は一日に10%以上の大暴落をします。これが「スターリン暴落」です。
他国の指導者の死がこれほど株式市場に影響したのは、後にも先にもスターリンだけでしょう。

下に写真を載せていますが、かなり修正されていて実物はこんなハンサムでは無かったようです。
おまけにロシア人としては背が低く(辺境の出身で背が低いのはヒトラーも同じ)、そのため椅子に座っている映像が多く、立っている場合は上半身しか写さない。民衆の前で演説したことがないのも、容姿コンプレックスが原因でしょうか。
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スターリンは権力を握ると恐怖政治をしき、反対勢力に対する虐殺、批判者に対する粛清や強制収容所送り、農民への過酷な収奪による餓死などで、およそ4000万人の犠牲者を出したといわれています。
この数字は第二次大戦での全世界の死者に相当するというのですから、いかに酷いものか分かると思います。
スターリンは、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事をすると粛清であり、曖昧な返事でも粛清であり、返事を即答できなければ粛清であったそうです。会話の時に目をそらしただけでも粛清の対象にされたとか。
被害妄想かと思われるほど猜疑心が強く、しまいには「自分の周りにいる人間は全て敵である」と思い出したというのですから堪ったもんじゃない。
死後もしばらくスターリンへの個人崇拝は続きますが、1956年になってようやく、当時のソ連共産党第一書記フルシチョフが党大会の秘密報告でスターリン執政期における暴政と個人崇拝を批判します。
これが「スターリン批判」で、世界的な影響を及ぼします。ハンガリー動乱や中・ソの離反などがそうです。

少し脱線してしまいましたが、軍用道路の最高地点が十字架峠と呼ばれています。
標高2,395mの標識です。
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ここのはエカテリーナ時代、ソ連邦時代、そしてグルジアが独立して以後の3つの十字架が建てられています。
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ここはドイツ兵の墓地です。
軍用道路は冬になると凍結するため脇にトンネルを掘り、冬場は車はトンネルを通って通行するのですが、このトンネル工事を捕虜となったドイツ兵にやらせたのです。その時の犠牲者を祀ったものです。
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壮烈な独ソ戦をたたかったスターリンとヒトラーですが、不思議なことに双方ともに親近感を抱いていたことが明らかになっています。
スターリンはヒトラーを賞賛したことがあるし、ヒトラーは「スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人である」とまで言明しています。
実際にヒトラーの政治手法はソ連から多くを採りいれています。
独裁者同士というのはどこか惹かれ合うものがあるのでしょう。
スケールは小さいが、石原慎太郎と橋下徹の関係もそうかな。
また脱線。

私たちのバスと同じコースで現地の若者が4WDに分乗して観光に来ていました。
6人ですから定員オーバー、おまけに皆でビールを飲んでいました。大丈夫だったかなぁ。
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十字架峠を出た辺りから道路は急速に悪くなり、いわゆる砂利道です。しかも所々に砕石が転がっているので、バスはそれを避けながら進んで行くのですが、前後左右に大きく揺られます。
気分の悪くなる人も出始めました。
途中、鉱泉水が湧くところでストップ、石灰石に酸化第二鉄が多く含まれているのでしょう。
この水を飲料水として販売しているようですが、要は鉄サビと同じ成分、健康に問題ないんでしょうか。
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最終観光地カズベキ村へ到着。
雲のかなたにうっすら見えるのは、コーカサス山脈第二の標高をほこるカズベキ山(5,047m)です。
これを見たさにはるばるここまでやってきたのです。
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復路は振動のせいかバスのクーラーが故障してより厳しい状況になりました。
ようやく昼食をとったホテルでトイレ休憩。
夕方になっていたので、2階のベランダから宿泊客が顔を見せていました。
このホテルは冬場スキー客で賑わうそうです。
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夜9時近くにトビリシに戻り、「マスピンゼロ」というレストランで夕食にありつけました。
先ずグルジア国産ビールで乾杯!
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後はワインを飲みながら、野菜ダンゴのサラダ
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肉料理のジャンシュシェリ
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小龍包のような形のヒンカリを食しました。
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ここはピアノとバイオリンの生演奏が付いてました。
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聴いているとロシア民謡の「黒い瞳」を演奏しているじゃありませんか。そんならと「カリンカ」をリクエストしたら「ここはグルジアだ。ロシアの歌はだめだ。」と撥ねつけられました。
その理屈はわかる。ならさっきの曲はどうなの?と言いたかったのですが、言語能力の貧しさから言えないんですね。

日本では「ロシア民謡」として一括りにされていますが、実際にはソ連時代の歌曲や第二次大戦下の戦時歌謡まで含まれています。
従って帝政ロシアからソ連邦時代を通して歌われた抒情歌(実際に短調の曲が多い)をひっくるめてロシア民謡と呼んでいるわけです。
大別すると
・帝政ロシア時代
・ロシア革命から雪解けまでの時代
・雪解け以後の時代
に分かれます。
私がリクエストした「カリンカ」は「黒い瞳」同様、帝政ロシア時代からの曲ですから民謡です。
グルジアのミュージシャンもこの辺りが分かっていないのかも知れません。

今回は脱線が多かったようですが、次回はトビリシの市内観光を中心に。
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by kanekatu | 2012-08-14 09:10 | グルジア | Comments(2)

コーカサス三国旅行記(6)

いよいよバスで軍用道路を北上し、最初の町・ムツヘタに到着。
ここまでは軍用道路といってもアラクヴィ川沿いに高速道路並みの道を走りますから快適です。
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ムツヘタは紀元前4‐5世紀に栄えた町で、世界遺産に登録されています。
最初の観光は市内の小高い丘にあるジュワリ教会です。
聖ニノがここに十字架をたてたのが始まりで、6世紀にこの教会が建てられました。
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高さ4mの十字架がある祭壇。
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教会は町を見下ろす丘にあり、展望台からムツヘタの町を一望できます。
中欧の都市を思わせる光景です。
コーカサスは西アジアに位置していますが、ここグルジアに来るとヨーロッパの香りがしてきます。やはりキリスト教国だからでしょうか。
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丘を下りて次はスヴェティツホヴェリ教会です。
バスを下車して市内を歩きます。この辺りはレストランや土産物店が並んでいる所ですが、周囲一帯の建物は米国風のデザインになっています。
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スヴェティツホヴェリ教会の入り口です。城壁を思わせますね。
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知り合い同士がバッタリ出会ったという光景。
「ガマルジョバ(こんにちは)」ってなもんですかね。
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教会の全景ですが、逆光で上手く撮れていません。
スヴェティツホヴェリ教会は5世紀に木造で造られたとされていますが、現在の姿は11世紀に建築家・アルスキゼが建てたものです。
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内部は18世紀のイコノスタシス(聖障、イコンで覆われた壁)。
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鐘楼です。
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ここから先は山道です。道路は舗装されてますので快適です。
しばらく山道を登ってジンヴァリ湖の辺にあるアナヌリ教会に着きました。
アナヌリ教会は17世紀、この地の領主だったアラグディは外敵の侵入を防ぐために建立しました。
西洋の教会はこのように城砦を兼ているものが多いのです。
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教会の入り口です。
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祭壇ですが、以前は壁全体にフレスコ画が描かれていましたが、ソ連邦の宗教弾圧政策により上から漆喰が塗られてしまいました。今は少しずつ修復が進んでいます。
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教会と湖、絵になります。
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ジンヴァリ湖はダムのために造られた人造湖です。
山の中の湖というのは、どこか寂しげです。
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「湖畔の宿」の歌詞を思い出します。
山の淋しい 湖に
一人来たのも 悲しい心
胸の痛みに 耐えかねて
昨日の夢と 焚き捨てる
古い手紙の 薄煙り

この後、グダウリハットホテルという所で昼食をとりました。
午後は十字架峠を目指します。
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by kanekatu | 2012-08-11 10:56 | グルジア | Comments(2)

コーカサス三国旅行記(5)

グルジアという国名をきいて先ず頭に浮かぶのは、年配の方ならスターリンでしょう。スターリンは小国グルジアの出身なにの大ロシア主義だ、スターリンだけは絶対に指導者にしてはならないとレーニンが訴え続けた、あのヨシフ・スターリンです。
20世紀が生んだ世界三巨悪の一人。後の二人は言うまでもなくヒットラーと毛沢東。
若い方なら大相撲の「黒海」の出身地といえば分かるでしょうか。可愛らしい現地ガイドのクリスティーナさんは黒海とは若いころからの知り合いだとか。あのむつけき男と同年代なんて信じられない。
国名は1995年まではグルジア共和国でしたが、現在はジョージア、英文名でGeorgia。オリムピックの表示もGeorgiaになっています。
日本語ではグルジアと表記されていますが、同国政府は「ジョージア」への表記変更を日本政府に求めています。その理由はグルジアがロシア語に基づくからだそうで、それだけ反ロシアの感情が強いという証です。

地図を下に示していますが、コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸に位置しています。南オセチアとアブハジアが独立状態となっています。
北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接。
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古来より数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされてきましたが、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきました。
また温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られています。

首都はトビリシ。
面積:69,700k㎡、日本の5分の1、四国とほぼ同じ。
人口:約430万人
民族構成:グルジア人(70.1%)、アルメニア人(8.1%)、ロシア人(6.3%)、アゼルバイジャン人(5.7%)など
言語:公用語はグルジア語
宗教:グルジア正教(65%)、イスラム教・スンニ派(11%)、ロシア正教(10%)、アルメニア正教(8%)など
一人当たりGDP:4,862ドル、アゼルバイジャンの半分程度
通貨:ラリ(GEL)、1ラリ=約50円
国旗はキリスト教を表す赤い十字架で、独立後のバラ革命を経て2004年に制定。
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グルジア観光第一日目は軍用道路を北上し、トビリシから北オセチア国境付近まで往復するというコースです。
「グルジア軍用道路」とは、トビリシからロシア連邦の北オセチア共和国の首都ウラジカフカスまで続く南北全長約210kmの道のことを指します。
18世紀に帝政ロシアの南下政策のために作られたので、この名が付けられています。
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これからグルジア正教の教会をいくつか見学することになりますが、先ず聖ニノについて説明する必要があります。
伝承によれば聖ニノはカッパドキアの出身であり、聖ゲオルギウス(国名のグルジア、Georgiaの語源)の親類で、聖母マリアから葡萄の枝の十字架を貰いコンスタンティノープルからグルジアに来たとされています。
彼女は奇蹟的な癒しを行い、異教徒のイベリア王ミリアン3世を改宗させ、ミリアン王はキリスト教を327年に国教としました。ニノはグルジアにおける伝道活動を死ぬまで続けたとされています。
写真はこれから見学するジュワリ教会内にある聖ニノのイコンですが、左手には聖書、右手には彼女を象徴する葡萄十字架を掲げています。
写真の右下に半分切れてしまいましたが、これが聖ニノが持ってきたとされる十字架です。
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左側で説明している女性が、グルジアの日本語ガイド・クリスティーナさんです。
閑話休題。
ここでクリスティーナさんについて少し説明します。
グルジア国内で日本語が話せる人は数人しかいないそうで、貴重な存在なのです。
彼女の父親は空手をやっていた関係から日本に関心があり、彼女の幼い頃から日本について語ってくれたそうです。
やがて彼女も空手を習うようになり、中学生で初段になります。同じ時期に大相撲の黒海がレスリングをしていて顔見知りだったよし。
日本への興味は募るばかりで、トビリシの大学では日本語学科に進みます。しかし日本人の先生ではないので本格的に勉強するためモスクワの大学に修学します。
卒業後、日本へ語学留学で半年学び憧れの日本の地を踏むことができました。
ここで帰国することになるのですが、たまたま愛知万博にコーカサス三国のブースを設けることが決まり、そのグルジアコーナーでの日本語説明員に応募したところ採用が決まり、そこから更に半年間日本に滞在することができたということです。
幼いころからの夢だった日本、そこに通して1年滞在できたというのが、彼女にとって最高の幸せだったと語っていました。
現在は通訳や観光ガイドの仕事をしており、年に一度は日本に来ているそうです。
ツアー客の中の目ざといオジサン(70代)は、彼女が訪日したときに逢う約束をしてました。いい年してマメだねぇ。

次回はグルジア軍用道路の観光です。
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by kanekatu | 2012-08-09 07:25 | グルジア | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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