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ポーランド・北東ドイツ旅行記(8)

ポーランド観光の最終日はクラクフ近郊のヴィエリチカ岩塩抗の見学から。
1250年頃から700年にわたり塩の採掘がおこなわれた世界でも有数規模の岩塩坑です。深さ64m~325mにわたる採掘場の一部が観光用に公開されています。
ここが入り口。
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エレベーターで地下300m近くまで一気に降ります。かつては鉱夫を運んでいたんでしょう。
ジョン・フォードの映画「わが谷は緑なりを思い出します。
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坑道です。材木で補強してありますが、塩で真っ白になっています。
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巨大な採掘場跡を利用した聖キンガ礼拝堂。ここには岩塩で作った沢山の彫刻や壁画が展示されています。シャンデリアも塩の結晶からできています。
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最後の晩餐の壁画、なかなかの力作。
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日本語のガイドです。
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各地でこうした現地ガイドにあたって驚くのは、大学の日本語学科で4年間勉強しただけでしゃべれる様になっていることです。
中国で出会った日系企業で働く女性に訊いたら、毎日勉強で午前2時前に寝たことが無かったと言ってました。4年間の修学だけで簡単なビジネスレターが日本語で書けるんです。もちろん英語もペラペラ。日本の大学生もこういう点だけは見習って欲しい。
こんな事を書くと、やれ反日だ、売国だ、工作員だと喚くヤカラからイチャモンガ付けられかな。
閑話休題。
見学を終えて昼食。
スープ。
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メインの煮込みですが、さっきのスープとどこが違うのか話題になりました。確かに具はこちらが多いのですが味は一緒。
手抜きかな。
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スイーツのケーキも何となくヤル気を感じない。
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こちとらは主食がビールなので、まあいいか。

昼食のレストランを出てバスまで歩いていたら鉄道の駅がありました。ここがオシフィエンチム(ドイツ名でアウシュヴィッツ)駅でした。
沢山の線路が並んでいましたが、各地からこの駅を通って強制収容所に運ばれたんだなと思うと何だか切ない気持ちになります。
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午後はドイツ目指して国境近くの街ヴロツワフへ。
オドラ川の南に形成されたこの街は14世紀にはボヘミア王国に支配され、その後神聖ローマ帝国の一部となり、1945年まではドイツ領でした。
先ずは世界遺産の百周年記念ホールから。バスを降りて外観だけの見学。
ナポレオン軍との戦いに勝利した記念として1913年に完成した巨大なコンクリート建造物で、特にコンクリート円形ドームは世界最大級です。
近ごろコンクリートというと悪者扱いされていますが、所詮は材料であり、どう使うのかは人間が決めること。材料に罪はありません。
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今回のヴロツワフ観光はこの日の宿泊のついでに通ったようなもので、本来はいずれも」車窓かんこうせしたが、添乗員が気を利かせて徒歩での観光にしてくれました。
街の中心部ではなく、オドラ川の対岸にあるオストルフ・トゥムスキという地区に向かいました。
この地域は昔から聖職者の居住地でした。
中央広場です。
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ツインタワーが空高く聳えるのは洗礼者ヨハネ(聖ヤン)大聖堂です。1590年の完成ですが何度も戦禍にあい、今の姿は1991年の再建。
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周辺にはいくつもの教会があります。
ファスト・フード店でしょうか。
京都駅前にあった屋台のラーメン屋を思い出します、今は取締まりが厳しくなり無くなってしまいましたが。
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オドラ川を渡って街の中心部へ。
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車窓から見た限りでは静かで美しい街の様子が窺われます。時間の関係で観光できないのは残念。
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トラムです。街ごとにカラーが違っていて楽しい。
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夕食の赤かぶスープ。
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メインはサーモンだったかな。
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スイーツはプリン。
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泊まりはオルビス・ヴロツワフ。
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この日でポーランドもお別れです。

次回はドイツへ。
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by kanekatu | 2013-08-13 07:46 | ポーランド | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(7)

観光2日目の午後はクラクフ近郊にあるアウシュヴィッツの見学で、今回の旅行目的の一つでした。
私たちが普段耳にするアウシュヴィッツですが、次のように分かれています。
アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)
アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ
アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ

アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市に、ビルケナウは隣接するブジェジンカ村につくられました。周辺には同様の施設が多数建設されていました。
モノヴィッツは連合軍による爆撃や爆破のため今は何も残っていません。
そのため「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」というのが一般的な名称とされています。
いずれもナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により生まれた強制収容所であり、ホロコーストの拠点として絶滅収容所とも呼ばれています。
ユネスコは二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて「負の世界遺産」に認定しました。
現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開しています。

ではなぜこの地域が強制収容所として選ばれたのかというと、
・ヨーロッパの中心に位置する
・鉄道の接続が良い
・工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する
・広い土地の確保が容易
などが挙げられます。
もう一つ、ポーランドではユダヤ人比率が高かったというのも理由だったかも知れません。

これから紹介する画像は決して気持ちの良いものではありません。見学していて吐き気をもよおす程でした。
しかし現実の世界なので、目を逸らさず注視して欲しいと思います。
アウシュヴィッツの入り口で、ここでチケットを買いますが必ずガイドが付きます。
私たちのグループには日本人ガイドとして中谷剛さんが案内してくれました。
毎年150万人の人がここを訪れますが日本人は少ないと嘆いていました。
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収容所のゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられています。なんという皮肉な言葉でしょう。
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使用したガスは「チクロンB(防疫施設で伝染病を媒介するノミやシラミの退治にも使用)」で、効率良く処刑を行うための研究班を配し「32分で800名の処刑が可能であった」とされています。
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その空き缶がうず高く積まれて残されていますが、これも極く一部とか。
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収容者から刈り取った髪の毛です。布を織ったり毛布にしたりして軍隊に支給していました。
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障碍者が付けていた義足です。使える物は前線に送られ使えない者は資材として保管されていました。
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収容者からとり上げたトランクです。生年月日から5-6歳の子どもの物もあるそうです。
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殺された人々が履いていた靴です。
ユダヤ人からとりあげた貴金属、衣服、履物などで使える物は貧しいドイツ人に支給され、とても感謝されたとか。残酷な話です。
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この壁の前で銃殺が行われました。このように花束が絶えません。
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収容者はこの辺りに集められ毎日点呼を取りました。もし脱走者がいると知れると、その周辺にいた人たちが共犯とみなされ処刑されました。
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この周辺の建物は病院だったようです。病院って言ったって病気の治療をする所じゃない。人体実験をする施設でした。どうしたら効率的に殺害できるかとか、女性を不妊にする手術が行われました。
ユダヤ人女性が全員不妊になれば絶滅できると考えたのでしょう、沢山の若い女性がこのため命を落としました。
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各施設は有刺鉄線で仕切られ、鉄線には電流が流されていました。コンクリートの柱や碍子は当時のままです。
あまりに劣悪な環境に堪えられず自殺する人も多かったそうですが、殆んどはこの有刺鉄線に自ら触れて死んでいったとか。
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公開絞首刑が行われた所です。
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ガス室で、死体の焼却場としても使われていました。
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アウシュヴィッツからバスで10分位の所にビルケナウ収容所があります。規模としてはこちらの方が遥かに大きい。
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ヨーロッパ各国から集められたユダヤ人は貨車でここに運ばれ、収容理由」「思想」「職能」「人種」「宗教」「性別」「健康状態」などの情報をもとに「労働者」「人体実験の検体」、そして「価値なし」などに分けられました。
価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分されましたが、その多くが「女性、子供、老人」でした。
学校や孤児院から集団で送られて来ていた子供たちは形式的な審査もなく、引率の教師とともにガス室へ送られたそうです。
正面がビルケナウの入り口で、その奥に見える森の向こうにガス室が設置されていたそうです(終戦時に破壊されている)。
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収容者は「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さらには「ユダヤ」などを区別され、ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、最下層にユダヤ人や同性愛者とロマ・シンティ。下層にあればあるほど食料配給量や宿舎の設備、労働時間などあらゆる面で過酷状況に置かれていたそうです。
こうしたヒエラルキーを形成することにより、下層の被収容者がいることで上層の者に多少の安心を与えると共に、被収容者全体がまとまって反抗する機運をつくらせない狙いがあったと考えられています。
一部のドイツ人収容者は看守の様な役割を負い、他の収容者を勝手に処罰していました。
建物は収容棟です。
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収容者の3段ベッド。といっても1段に3-5名が詰め込まれていたそうです。
床下は傾斜していて、汚物がそのまま流され溝に集められていました。衛生状態は推して知るべし。
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これが2千人分のトイレで、しかも午前と午後2回に制限されていたため、一人数秒という時間で用を足さねばならなかった。
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感想は、正に鬼畜の所業とした言い様がありません。
人間というものはかくも残酷になれるのか。
ナチス・ドイツのヒットラー政権は、当時もっとも先進的といわれたワイマール憲法のもと、民主的選挙によって誕生したことを忘れてはならない。
ナチスの幹部というのは残虐な連中かといえば、収容所の所長が自宅に戻ればピアノ演奏を楽しむ人だったり、悪名高い収容所の幹部がペットの犬が雨に濡れたといって涙を流していたというエピソードも残されています。
ナチス・ドイツの誤りは、我々日本人にとっても決して他人事ではありません。

気分が沈んだままの夕食になりました。
前菜。
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メインはポーランド風餃子、半分位しか食べられなかった。
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スイーツ。
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次回でポーランドともお別れになります。
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by kanekatu | 2013-08-11 12:17 | ポーランド | Comments(4)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(6)

観光1日目のワルシャワまでで5回もかかってしまい、この調子じゃいつ終わるか分からない。
少しテンポを上げましょう。
クラクフは11世紀から約550年間にわたりポーランドの首都で、ウィーンやプラハと並ぶ文化の中心でした。
日本でいえば京都にあたります。
ポーランドの他の都市が第二次大戦で壊滅的な打撃を受けたなかで、ここクラクフだけは戦禍をまぬがれたのはドイツ軍の司令部が置かれていたからです。
そのことがクラクフの近郊にアウシュヴィッツなどの絶滅収容所が造られたことにもつながるのですが。
旧市街をはじめ街全体が中世の面影をそのまま残しており、世界遺産にも登録されています。

最初の観光はヴァヴェル城旧王宮から。
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ヴァヴェル城は歴代ポーランド国王の居城でした。
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ツアー仲間が記念撮影していると数人の人がドヤドヤと飛び入り、陽気な人たちです。
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旧王宮の内部は博物館になっていて、16世紀フランドルのタペストリーが展示されています。
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この日、レオナルド・ダ・ヴィンチ「白貂を抱く貴婦人」が特別展示されていました。ダ・ヴィンチが描いた油絵肖像画は世界に3枚しかないという中の逸品で、ふだんはチャルトリスキ美術館でしか見られません。たまたま美術館が工事中でこちらで見られたのは幸運でした。
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旧王宮の中庭。建物はゴシックとルネサンスの複合様式。
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ヴァヴェル大聖堂は歴代国王の戴冠式が行われた教会。
黄金のドームはジグムント・チャペル。
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旧市街の街並み。
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ヴァイオリンおじさん。
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馬車で観光する人たち。
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店内でお爺さんと孫娘が買い物、少女が嬉しそうにしているのはきっとお目当ての品物が見つかったんでしょう。ショーウインドウの外から見ているのは祖母かな。
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停留所でトラムを待つ人々。
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中央広場に近づき、人通りが増えてきました。
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旧市街の中心にある中央広場です。
中世の姿をそのまま残している広場としてはヨーロッパ最大の規模を誇ります。
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広場の正面に見えるのが繊維会館(繊維取引所)。14世紀の建築物です。
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長さ100mのクリーム色の外観は壮麗としか言い様がありません。
現在は1階が店舗、2階はクラクフ国立美術館になっています。
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旧市庁舎の塔が広場を睥睨してるかのよう。大時計の直径は3m。
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聖マリア教会は1222年の建立、何だか時代のスケールが違いますね。
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今まで数々の教会を見ましたが、これほど豪華な祭壇は初めてです。
中央にはマリアの被昇天を彫った祭壇画が飾られており、これはポーランドの国宝に指定されています。
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その昔、モンゴル軍がクラクフに攻め入った際、敵襲を告げるラッパが教会の塔から吹き鳴らされました。しかしモンゴル兵の矢がラッパ手の喉を貫いてしまった。
このことを悼んで今でも塔の窓から1時間おきにラッパが吹き鳴らされています。
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その拡大画像。
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魅力満載のクラクフ、半日ではとても時間が足りません。
クラクフ市の西を流れるヴィスワ川、船着場でボートを待つ人、岸辺で日なたぼっこをする人。
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肌を焼く女性の姿も。
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昼食の前菜はキノコスープ。
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メインはポークカツ、塩と胡椒で味付けがしてあり美味。
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スイーツはアイスクリーム。甘味は苦手でもアイスだけは別。
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午後はアウシュヴィッツへ。
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by kanekatu | 2013-08-09 09:08 | ポーランド | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(5)

ワルシャワ新市街は17世紀以降にできたのですが、それでも旧市街とは街並みの様子が変ります。
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キューリー夫人の生家は博物館になっています。
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銘板にはポーランド名のマリア・スクウォッドフスカと書かれています。彼女は苦学の末パリ大学を卒業し、フランス人科学者ピエール・キューリーと結婚します。
ノーベル物理学賞は夫妻で受賞していますが、夫の死後に彼女単独で物理学賞を受賞。
業績の割にはこじんまりとした博物館ですね。
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ワルシャワ蜂起記念像。
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懐かしいワルシャワ労働歌(VARSHAVIANKA)が聞こえてきそう。
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暴虐の雲 光をおおい
敵の嵐は 荒れくるう
ひるまず進め 我らが友よ
敵の鉄鎖をうち砕け

自由の火柱輝かしく
頭上高く燃え立ちぬ
今や最後の闘いに
勝利の旗はひらめかん

起て はらからよ ゆけ闘いに
聖なる血にまみれよ
砦の上に我らが世界
築き固めよ勇ましく
(日本語訳:鹿地亘 )

ショパンの心臓が納められているので有名な聖十字架教会。
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心臓はレオナルド・マルコーニ作のエピタフの下の柱に収められました。
そこにはマタイによる福音書から「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と刻まれています。
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ここにも小学生たちの見学が。
記念写真を撮って、「さあ、皆さんもショパンおじさんの様な立派な人になるんですよ」。
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元は貴族の宮殿でしたが1994年から大統領官邸になりました。
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ワルシャワ大学の正門。
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こちらは美術アカデミー。
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この建物の3階にショパン一家が住んでいました。今はショパン家のサロンとして公開されています。
ここでもショパン。
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文化科学宮殿は37階の超高層ビル。
旧ソ連のスターリンからの贈り物として1952年から4年間かけて建てられたもので、各種研究所やコンサートホール、映画館、劇場などが入っています。
ワルシャワ市内のどこからも見えるという利点はあるものの、周囲の景観と調和しない無粋な建物としてワルシャワっ子には不評とか。
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映画といえばかつてポーランド映画はその芸術性の高さにおいて世界でもトップレベルにありましたが、自由化以後に急速に衰退してしまったそうです。
原因はハリウッド映画の席巻によるのだそうで、こういう自由化の陰の部分もあるんです。

一日かけたワルシャワ市内観光を終えて、次の目的地クラクフへ列車で移動です。
ワルシャワ中央駅前の光景。
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駅の連絡通路。
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そろそろ通勤の帰宅ラッシュが始まる頃かな。
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駆け込み乗車ができてホッとしている女性の表情、どこの国でも一緒ですね。
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ワルシャワ~クラクフ間は特急で3時間。車窓には田園風景が広がっています。
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ようやくクラクフ駅に到着。
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夜の8時40分でもこの明るさ、信じられないでしょ。
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ようやく夕食にありつける。先ずビール!
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前菜の煮込みスープ。
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メインはチキン。
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クラクフの泊まりはギャラクシー、連泊になります。
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次回はクラクフ市内観光になります。
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by kanekatu | 2013-08-07 06:27 | ポーランド | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(4)

ワルシャワの午後の観光は旧王宮から。
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大勢の人でにぎわる王宮広場で、中心に立つ石柱の上にはジグムント3世像。この王様がポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移しました。
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石柱の下で腰を下ろして休む人の姿も。
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カフェは花に埋もれていました。
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この日はTV番組の企画でしょうか、女性たちのダンスが行われていました。レオタードの小学生から写真のような熟年の方にいたるまで年代別に趣向を凝らしてダンスを競うというわけです。こいいう恰好するって勇気いるでしょうね。
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こちらは中学生か高校生でしょうか。
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こちらはもう少しお姉さんでしょう。
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王宮広場から旧市街広場の間にあるのが聖ヤン(洗礼者ヨハネ)大聖堂。国王の戴冠式や憲法宣言式が行われていました。ちなみにヨーロッパ最初の成文憲法はポーランドで制定されました。
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大聖堂の前の通りがヨハネ通りで、多くの人が行きかっていました。
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赤ちゃんのカゴが可愛いですね。
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ポーランドではこうした道端で楽器を演奏している人が多い。さすがショパンの国。
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先生に引率された小学生の集団、夏休みの社会科見学かな。
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1596年にポーランドの首都となったワルシャワは、中央ヨーロッパの政治、経済、交通の要衝でもある世界都市として発展しています。
歴史地区や宮殿により彩られたワルシャワでしたが、1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻、ワルシャワはナチス・ドイツの占領下におかれます。
ワルシャワ市内居住のユダヤ人はナチスによってワルシャワ・ゲットーへ集められ、その後、国内の絶滅収容所に送られました。
1944年8月1日、占領軍に対しワルシャワ市民が一斉蜂起(ワルシャワ蜂起)を起こしましたが、63日間にわたる戦闘の末鎮圧されます。この時の報復としてナチスドイツは街を徹底的に破壊します。
1945年にソ連の赤軍がドイツ軍を排除しますが、その後44年にわたりポーランドはソ連の衛星国家とされました。
第2次世界大戦後、戦火で荒廃した街を「煉瓦のヒビに至るまで」復元して往時の町並みを回復し、1980年にユネスコによって「ワルシャワ歴史地区」として世界遺産に登録されました。

旧市街広場、周囲にはカフェや民芸品店が並び、広場では露店の画商や似顔絵描きが店を出しています。
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広場の真ん中にある人魚像、剣を振り上げています。
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旧市街広場を抜けて北へ向かうとバルバカンに出ます。
珍しくお年寄りのバンド。
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誰かと待ち合わせでしょうか。
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ドア枠に残る戦争当時の弾痕、生々しいです。
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バルバカンの城門、ここから先が新市街になります。
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もっとも新市街といってもワルシャワに遷都した17世紀以降に作られた街を指すので、新しい建物があるわけではありません。


次回は新市街を紹介します。
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by kanekatu | 2013-08-04 06:42 | ポーランド | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(3)

ワルシャワ・ワジェンキ公園の、しだれ柳の傍らに腰をかけるショパンの銅像です。
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銅像の周囲はバラに囲まれています。夏場にここで無料コンサートが開かれるそうです。
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ワルシャワから西へバスで約1時間、ショパンの生家のあるジェラゾヴァ・ヴォラに到着。
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ここは元々スカルベク伯爵邸で、フランス人であったショパンの父ミコワイはここで家庭教師をしていました。
母ユスティナは伯爵の遠縁にあたり、結婚した二人は伯爵邸の別館に住んでいました。ここでショパンが生まれてのです。
一家はショパンが生後7か月の時にワルシャワに移ってしまいますが、身体の弱かったショパンは療養のためにしばしば生家を訪れていたようです。
ショパンの作曲したマズルカやポロネーズは、この地方の民族音楽の影響を受けたとされています。
生家は現在は博物館になっています。
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ここにもショパンの銅像が。
膝小僧が光っているのは観光客が撫ぜるからです。
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全体は大きな公園になっていて、1万本を超える木が植えられ緑で埋め尽くされています。
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オベリスクはショパンの記念碑としては最古のもの。
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小学生の社会科見学でしょうか。
子どもたちは可愛いですね。
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フレデリック・F・ショパン(1810-1849)はポーランドが生んだ偉大な音楽家であり、ピアノ演奏会のプログラムでは最も多くとりあげられる作曲家です。
ポーランドにおいては国民的英雄として扱われています。
ワルシャワ国際空港にその名が冠されているし、紙幣にも肖像が使われています。ショパン関連施設も多数あり、これを巡るだけでも数日間のツアーが組めそうです。
作曲家として活躍の場は主にフランスですが(ジョルジュ・サンドとの恋模様が有名)、ショパンは常に祖国への望郷の念を抱え続けていました。
当時のポーランドはロシアの統治下におかれていて、それに対する市民によるワルシャワ蜂起が起きます。蜂起は失敗に終わるのですが、ショパンはそのことでずっと心を痛めていました。ショパンが祖国へ戻れなかったのも、蜂起に関連してロシア政府から追及されるのを恐れたからだと言われています。
ショパンは39歳の若さでこの世を去るのですが、遺言の「身体は戻れなくとも、せめて心臓だけは持ち帰って欲しい」という願いが叶い、心臓は姉のルドヴィカの手によりワルシャワに運ばれ、聖十字架教会に安置されました。
こうしたショパンの愛国心がポーランド人の琴線に触れるのでしょう。

昼食の前菜。
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もちろんビール。大ジョッキでも300円以下で呑めるのが有りがたい。
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メインはロールキャベツ、中身は豚肉と米。
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締めのケーキ。
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午後は再びワルシャワに戻り市内観光。

なお写真の整理が間に合わないため、次回よりニューエントリーを2日置きにします。
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by kanekatu | 2013-08-01 09:06 | ポーランド | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(2)

ポーランドの地図は下記の通り。
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正式国名はポーランド共和国、国土の面積は約32万k㎡で日本から四国を除いた面積と同等です。
”ポーランド”というのは”平たい土地”を意味していますが、その名の通りどこまでも平地が広がっています。
北はバルト海、西から反時計回りにトイツ、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、そしてロシアの飛び地と国境を接しています。

人口は3820万人、宗教はローマ・カトリックが94%で圧倒的、史上初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ二世はまだ記憶に新しいところです。公用語はポーランド語、通貨はズロチ(ズウォティ)、政体は共和政で首都はワルシャワ。
一人当たりGDPが12538米ドルで世界ランキングでは57位というのが最新データです。
ポーランドには日本からトヨタ、ブリヂストン、味の素、シャープ、東芝など254社が進出しており、中東欧諸国の中では断トツです。
それでも若者の失業率は高く、多くの人が他国へ出稼ぎに行っているという現状があります。

国土が同じ陸地でつながっているヨーロッパ諸国は常に他国からの侵略や干渉を受けてきましたが、その中でもポーランドの近代史をみると、東からロシア、西からドイツの領土的野心によって翻弄されてきたことが分かります。
ドイツがロシアを攻めようとする、あるいはロシアがドイツを攻めようとすればどうしてもポーランド攻略は避けて通れません。
14世紀から17世紀にかけては王国を形成しましたが後衰退し、18世紀には3度にわたり国土が隣国に分割されて消滅しています。
第一次世界大戦後の1918年に独立しましたが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツとソ連の侵略を受けて再び国土が分割されました。
戦後の1952年に人民共和国として国家主権を復活、しかし依然としてソ連の影響下に置かれていました。
1989年に民主化を果たして現在の共和国となりました。
かつては東欧の一部でしたが、現在は中欧または中東欧に分類されています。

2日目から観光スタート、この日はワルシャワ市内観光です。
ワルシャワ市内はトラム、地下鉄、バスと公共交通機関が発達していますが、そのトラムを短時間貸し切りで中心部を一周するという企画です。
ちょうど朝の通勤時間帯なので、トラムの駅から大勢の通勤客が降りてきました。
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車窓から見た市内の風景で、これは教会でしょう。
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こちらは共同住宅だと思います。
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これも教会、立派な建物なので有名な教会なのかも知れませんが詳細は不明。
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写真の右側に地下鉄の入り口があり、バスの乗り換え客だと思います。
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超高層ビルを背景に軽食スタンドという取り合わせ。
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ピウスツキ元帥の銅像、第二共和国の建国の父だそうです。
この裏に無名戦士の墓が祀られています。
ワルシャワ市内にはこうした銅像が多数あります。
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見たようなシルエットだと思ったらフランスのド・ゴール将軍の銅像です。
反ナチズムでは共同して戦ったのでしょうけど、他国の人の銅像まで建てるのは珍しいんじゃないでしょか。
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次回はショパンゆかりの地を案内します。
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by kanekatu | 2013-07-30 10:03 | ポーランド | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(1)

2013年7月15日より9日間、ポーランドと北東ドイツへのツアーに参加しました。ポーランドは初めてで、これで訪問国が70ヶ国となり、人間より一足先に古希を迎えることになりました。
旅行社はJTB(LOOK.JTB、少し高級)で久々です。どうもJTBは定番コースが多く新しい企画を立てぬ傾向にあり、もう10年以上使っていなかったのですが、今回のコースはJTB一社しかなかったため選びました。
加えてこのツアーでは3カ月以前に申し込むとエコノミーの座席の窓側、通路側が選べるという特典がありこれも魅力でした。12時間近いフライトでは通路側でないと耐えられません。
参加者は17名、独り参加は5名であとは新婚を含むご夫婦です。添乗員はMさん。
ドイツ北東部といえば旧東ドイツにあたります。そことポーランドを組み合わせるなんざぁJTBも面白い企画を立てたものです。

私の旅のテーマはズバリ第二次大戦です。
観光先の都市―ワルシャワ、クラクフ(アウシュヴィッツ)、ドレスデン、ベルリン―はいずれも第二次世界大戦で甚大な被害を受け、戦後は旧ソ連支配に苦しんだという共通の歴史を持っています。
もうひとつのポツダムは日本の敗戦に係り合いのある街です。
第一次世界大戦までの戦争は軍隊と軍隊の戦いでした。それが破られたのはスペイン内戦におけるナチスによるゲルニカ爆撃です。相手の戦意をくじくために非戦闘員である民間人を標的とした殺戮が行われました。これがやがて重慶、ドレスデン、そして広島、長崎への原爆投下につながり規模も被害者も拡大していったのです。最近でもアフガンやイラクでも同様の蛮行が行われていたことはご承知の通りです。

5月末に網膜剥離の手術を受けてから行こうかどうか迷ったのですが、この旅行だけは何としても行きたいという気持ちが次第に強まりました。
こういうワクワク感って大事なんです。
キャリアはルフトハンザ・ドイツ航空、機材はエアバスA380、さすがにデカイ。
このツアーのサービスの一つは、出発前の成田空港でビジネスラウンジを使えることです。ここで軽食をつまみながら好きなアルコールを呑めるというのはいいですね。その分、料金も高くなっているんでしょうけど。
ルフトハンザは複数の日本人CAが乗務しておりサービスも食事も比較的良く快適です。概してサービスの悪いヨーロッパ系航空会社の中では良い方でしょう。
成田を朝発ち、11時間40分のフライトでフランクフルト着、ここで入国審査。乗り継ぎで夜にワルシャワ・ショパン空港に到着。ポーランドはシェンゲン協定に加盟したので入国審査は無し。楽チン。
時差は7時間で、自宅を出てからホテルに着くまでおよそ24時間、くたびれました。スーツケースの荷物をそっくり出して拡げましたが、こういう時は一人部屋だとスペースがあるので楽です。
あとはシャワーを浴びて爆睡。
泊まりは市内のラディソン・ブル・ソビエスキ。
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by kanekatu | 2013-07-28 05:27 | ポーランド | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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