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ポーランド・北東ドイツ旅行記(14・最終回)

最後の観光地はポツダムです。ドイツ北東部、首都ベルリンの南西約30kmにあるブランデンブルク州の州都ポツダムへバスで移動。
先ずはサンスーシ宮殿、と言っても外観と庭園の一部だけです。
サンスーシ宮殿は、プロイセン国王のフリードリヒ大王(2世)が自ら設計し1745~47年に建てたロココ様式の宮殿です。当初は夏の離宮として建てられたのですが、35歳から亡くなる74歳までここが居城となりました。文化や芸術を愛したフリードリヒ2世はここで音楽会などを催しました。サンスーシとはフランス語で「憂いなし」の意味で、日本語では「無憂宮」とも呼ばれています。
宮殿の側面で、クリームイエローの明るい色が特長です。
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宮殿の正面です。平屋建てです。
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宮殿の下は階段状のブドウ園になっていて、正面は噴水が見えます。
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これは別の噴水ですが、奥に見える建物は離宮。敷地内にはこうした離宮がいくつも点在しています。
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次に訪れたのはツェツィリエンホーフ宮殿です。
最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859~1941年)が皇太子時代、妃のツェツィリエのために建てた宮殿です。
1945年7月17日~8月2日、米英ソの3ヵ国の首脳が第二次世界大戦後の戦後処理について話し合ったポツダム会談の会場となりました。
なぜここが会談の会場として選ばれたかというと、ベルリンは当時廃墟と化していて、電気や水道などのインフラも破壊されていました。ここポツダムは破壊から免れていたというのが理由です。
建物とその周辺が世界遺産に登録されています。
宮殿というよりは豪華なゲストハウスといった趣の建物です。
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ポツダム宣言といえば、これを最終的に日本が受け入れ終戦となった歴史的文書ですが、この宣言とポツダム会談との関係について整理してみたいと思います。
実は、私自身も良く理解できていなくて、今回の旅行を契機に知ったことが多いのです。
ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日~8月2日ポツダムに、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談です。
第二次世界大戦の連合国三大国の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となりました。
会議の最後にはポツダム協定が策定されました。
ただ会議の公式日程において対日問題は協議されなかったんです。
会議に出席した各国首脳の顔ぶれは次の通り。
【米国】大統領:ハリー・S・トルーマン
【英国】首相:ウィンストン・チャーチル(7月26日まで)
    首相(7月27日以降):クレメント・アトリー(イギリスは政権交代があり、代表も交替している)
【ソ連】人民委員会議議長・ソビエト連邦共産党書記長:ヨシフ・スターリン
写真は、前列に左から英米ソの3首脳。
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ではポツダム宣言はというと、ポツダム会談の期間中に米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石国民政府主席の共同声明として、7月26日に発表されました。
ただし宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったもので(チャーチルは既に帰国していた)あり、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかったため(蒋介石とは無線で了承を得て)、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行いました。
写真のように、宣言の発表もトルーマンが一人で行っています。
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宣言の内容は次の通り。
1.吾等(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2.3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.吾等の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、吾等が外れることもない。執行の遅れは認めない。
6.日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。無責任な軍国主義が世界から消されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないから。
7.第6条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領
8.カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
10.日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること。民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
12.日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退する。
13.我々は日本政府が全日本軍の無条件降伏を宣言し、かつその行動について日本国政府が示す誠意について、同政府による十分な保障が提供されることを要求する。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅のみ。

1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を連合国側に通告し、翌8月15日に国民に発表されました(玉音放送)。
9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で、日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印しました。

ちょっと横道にそれましたが、せっかくポツダム観光に行ったんですから、ポツダム宣言をめぐる経緯を整理しておくことも無駄ではないでしょう。
以下に会談が行われた会議室を紹介します。
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夕食はベルリンに戻り、ソニーセンター(ソニーは撤退していても未だこの名が)内のレストランで。
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この日は各自がチョイスメニューでということで、ツアー中もっとも豪華な食事となりました。
ただ事前にはプライベイトディナーという説明でしたが、独り参加の5人は一緒の食卓を囲むことになりました。
それとこのレストラン、客は全員外で食事していたのですが、なぜか我々のグループだけが誰もいない室内でした。
こうした扱いはヨーロッパでは珍しくないんですが、あまり気分は宜しくない。
先ずビール、もちろんこの後はビールのお替りやらワインやら。
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前菜に小さなサラダを頼んだら、こんなのが出て来てしまいました。大皿に大盛り、しかも魚介類まで入っていてパン付き、これだけで満腹になりそうです。
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メインがポークカツでしたが、これも大きくてとても食べきれない。
いずれも美味でしたが、あまりの量が多く食べ残してしまいました。
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これにて全ての日程は終了、翌日はベルリン空港を出発、
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フランクフルト経由で成田に到着。
ドイツの首都に日本からの直行便がないというのも不思議です。新空港の建設は予定されているようですが。

今回が旅行記の最終回となります。
最後までお付き合い頂いた方に感謝します。
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by kanekatu | 2013-09-02 11:07 | ドイツ | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(13)

ジャンダルメンマルクトは、正面のコンツェルトハウスを挟み、左右対称のドイツドームとフランスドームのアンサンブルが美しい「ベルリンで最も美しい広場」と言われています。
17世紀にベルリンの都市拡張計画の一環として作られたこの広場には、当時ベルリンを治めたフリードリヒ・ヴィルヘルム候の寛容政策により、フランスで迫害されていたユグノー(新教徒)が大量に移住してきました。 これによりフランス文化が流れ込み、この一角は市内で最も洗練された場所として賑わったそうです。
正面がコンツェルトハウス。新古典主義の代表的建築物とされ1821年創建。ベルリン・シンフォニーオーケストラの本拠地として有名です。
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コンツェルトハウスを挟むように建てられている左右対称の教会で、こちらがフランスドーム。
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こちらはドイツドーム。違いが分かりますか?
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イーストサイド・ギャラリーは、ベルリン中心部を流れるシュプレー川沿いにあった東西を隔てる壁でした。
ドイツ統一後、内外のアーチストらがこの壁1.3キロの長さに渡って絵を描き、記念碑として残しています。今では屋外ギャラリーとして多くの観光客を集める名所になっています。
ただ屋外ゆえに絵は痛み、上から別の落書きが施されたりしていて老朽化が進んでいます。
その後同じ画家により修復される試みもなされました。
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日本をテーマにした壁画です。
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その傍に書かれている落書きは、東西ドイツが統一された後で、旧東独の人たちが一斉に家電を買いだしたのですが、その大半が日本製だったとか。 だから東ドイツは日本を迂回して西に来たという事を指しているようです。
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ギャラリーの標識。
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壁の裏側を流れるシュプレー川。かつてはこの川を渡ることは禁じられていましたが、今では遊覧船が行き交っています。
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ベルリンの壁を乗り越えて東から西へ脱出しようとすれば即銃殺でした。ただ統計的にみれば成功率は9割近かったそうで、きっと穴場がどこかにあったんでしょう。

テレビ塔は東独が威信をかけて建設した高さ368mのタワー。
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赤の市庁舎は東ベルリンの市庁舎でした。赤レンガで造られた建物なのでこう呼ばれたのであって、共産党とは関係ありません。
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市内の通勤風景です。ドイツらしく自転車が多い。
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ベルリン大聖堂は高さ114m、空襲で破壊されましたが1993年に再建。
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ドイツ歴史博物館は、元々がプロイセンの武器庫として1706年の創建。
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フンボルト大学で、右端にあるのがフンボルトさんの像。
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ベルリーナアンサンブル劇場、手前で女性が寝てますね。
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ベルリン市内は森が多い。銅像は「鉄血宰相ビスマルク」だったと思います。私が勤めていた会社の相談役が若いころにドイツに留学していて、卒業生首席としてビスマルクに謁見したと自慢してましたっけ。ホントかな。
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以上の写真、一部お見苦しいものもあったでしょうが、これ全て走行中のバスの車窓から撮ったんですよ。スゴイでしょ。
自分で誉めなけりゃ誰が誉める。

ベルリン観光の最後は、ペルガモン博物館です。
シュプレー川の中州に5つの博物館が集まっていて、博物館の島とよばれていますが、その中心にあるのがペルガモン博物館です。
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古代ギリシャのペルガモン(現トルコ)から発掘された「ゼウスの大祭壇」が高さ10mで再建されています。
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人物一人一人が生き生きと克明に描かれ、筋肉の動きまでが彫刻で表現されています。
紀元前2世紀の作品としては出色でしょう。
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紀元前560年頃に造られたとされる古代バビロニアの「イシュタール門」と「行列通り」。青いレンガを用いた巨大な遺跡です。
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ミトレスの市場門。
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駆け足のベルリン観光が終り、昼食です。
先ず黒の大生。
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えんどう豆のスープ。
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メインは豚のスネ肉のクリームソースがけ。
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次回はポツダム観光で最終回となります。
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by kanekatu | 2013-08-30 17:35 | ドイツ | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(12)

夕方ベルリンに到着。
その昔、東京の漫才師にリーガル千太・万吉というコンビがいて、千太の住所を「ベルリン市はベルリン町、大字(おおあざ)ベルリン、字(あざ)ベルリン」というギャグがありました。会話の間が絶妙で、客はこれだけで大受けでしたよ。「荒川のペリ住まい」もこのコンビ。
先ずは連泊するザ・リッツカールトン・ベルリンにチェックイン。この夜は夕食をとってからコンサートという予定でしたが、時間が間に合わない。
仕方なく、ホテル近くのパン屋でサンドイッチを買いホテルに向かいました。
一日の観光で疲れ果て荷物をかついだ集団が手に手にパンを持ってホテルに入ってゆく姿は、まるで難民の群れ。どう見ても高級ホテルには似つかわしくない。
海外の高級レストランで日本からのツアー客が、人目に付きにくい場所に座らせられることがありますが、あれは店側が美観を気にしているんじゃないかと推測しています。
リッツはカイロ、ワシントンに続き今回が3度目。
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部屋は前者に比べ少し小ぶりですが機能的で使いやすいホテルでした。
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ロビーの吹き抜けの階段。
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ただ湯沸かし器が無いのは不便でした。なぜかと添乗員に訊いたら、ここに泊る客は飲み物をルームサービスでとるので湯沸かし器は不要とのこと。
なるほど、リッツはリッチか。

部屋でパンをかじってから直ちにバスで出発。
シャルロッテンブルク宮殿は初代プロイセン国王の王妃の夏の別荘で、17-18世紀にかけて建てられました。今回は全体を見学する時間がなく、コンサート会場に入るだけとなりました。
着飾った人たちが集まっていると思ったら、結婚式を終えた家族が庭で記念撮影をしていました。
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宮殿の庭園の一部です。
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コンサート会場。中世の衣装を着けた室内楽団員がバロック音楽を演奏するという趣向です。
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こういう女性が席を案内してくれました。
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下の図は東西に分裂していた当時のベルリンの位置関係です。ベルリンは東ドイツ領内でしたので、その中の西ベルリンだけが陸の孤島のように西ドイツ領でした。東独はそれを嫌って西ベルリンの周囲をグルリと壁で囲ってしまいました。
それがベルリンの壁です。正確には東独と西ベルリンを隔てていた壁ということになります。
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ベルリンの壁の跡で、レンガが3列に並んでいたことが分かります。道路の白線と比べてもそれほど厚い壁では無かったようです。1961年に作られ、1989年に撤去されました。
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虐殺されたユダヤ人に捧げられた記念碑で、2711本のブロックが幾何学的に並んでいます。
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ドイツ連邦議会議事堂は1933年に起きたドイツ国会議事堂放火事件の舞台となった建物で、東西ドイツ統一後に改築を終えました。
ナチスはこの事件を最大限利用し、一気に独裁体制を固めました。
ヒトラーは「共産主義者による反乱計画の一端」と見なし、「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。社会民主党員も同じだ!」と叫んだと記録されています。
麻生太郎はこうした歴史的事実を知ってるんでしょうか。
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ベルリンの象徴ともいうべきブランデンブルク門です。これは真横から見たもの。
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こちらは正面。
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ブランデンブルク門は1791年にプロイセン王国の凱旋門として建てられたものです。アテネ神殿の門をモデルにして造られたドイツ古典主義建設の傑作とされています。
かつて門の直ぐ近くにベルリンの壁があり、そのためこの門に近づくことが出来なかったのですが、今では大勢の観光客で賑わっています。
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門の上にある勝利の女神はナポレオンがパリに持ち去ってしまいましたが、1814年にベルリンに返還されました。
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次回もベルリン観光の続きです。
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by kanekatu | 2013-08-28 16:34 | ドイツ | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(11)

観光5日目はドレスデンを朝出発、一路ベルリンに向かいます。
最初にマイセン陶磁器の見学です。
かつて白磁は東洋でしか製造できなかったので、西洋では憧れの芸術品として珍重されました。
各国が競ってその製造開発に乗り出した中で、ザクセン公国のアウグスト強健王は錬金術師ベトガーを幽閉し、白磁を作るように命じました。ベトガーは物理学者で数学者で哲学者の(スゴイ!)チルンハウスらの協力を得て、1709年にザクセン地方のカオリンを原料とした白磁の製造に成功します。
やがてマイセン地方・アルブレヒト城の内部に「王立ザクセン磁器工場」が設立され、硬質磁器製造の独占権が与えられました。
これが現在のマイセン磁器工場へと続いています。
今回は工房と博物館の見学です。
建物の全景
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陶磁器が作られるまでを工程順に案内してくれます。もちろん日本語。
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1階は売店になっていますが、いいなと思う製品は最低でも10万円以上、気に入った製品となると数十万円、手が出ません。
そこで2階の博物館へ。
どうやって作ったんでしょう。
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素晴らしいけど値段の付けようがないでしょうね。
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アルブレヒト城が見られなかったのは残念。

マイセンからバスで2時間、昼前にライプツィヒに到着。
ライプツィヒが学芸都市です。中世には金融と商業の街として発展しましたが、15世紀に入るとドイツで3番目のライプツィヒ大学ができます。後年ここでゲーテやニーチェ、森鴎外らが学ぶことになります。
17世紀には世界初の日刊紙が発行されるようになると、印刷や出版の中心都市となります。
またバッハを始め、シューマン、リスト、ワーグナーら大音楽家たちがこの街で業績を残します。
先ずはトーマス教会から。
ここでバッハは教会のオルガン奏者兼付属合唱団の指揮者として働いていました。壮大な「マタイ受難曲」もここで作曲されました。
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そのバッハの銅像は教会の前に建っています。
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こういうのを知ってますか?
大きいオナラはバッハ
小さなオナラはプッチニー
内緒のオナラはフィラデルフィア・フィルハーモニー
そんな下品なことは知らない?
ああ、そうですか。
教会内部です。13世紀の創建で今の姿になったのは1702年。ゴシック様式です。
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教会を出たら木陰でオジサンがアコーディオンを弾いてました。我々日本人の顔をみると早速「恋のバカンス」を披露、サービス精神旺盛!
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この派手な一団は何でしょう。分からない。
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噴水で坊やが水浴び、この日も暑かったからねぇ。
実はこの反対側で姉さんと思われる少女が水浴びしていたんですが、これが全裸。こういう点はヨーロッパはやかましいと聞いていたので、意外でした。両親はなにしてたんですかねぇ。
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何か宗教活動みたいですが。
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個性的な意匠の旧市庁舎。
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反対側がマルクト。広場は工事中でした。
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市内の中心部で、いかにも商都らしい佇まい。
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若き日のゲーテ像。
「ギヨエテとは俺のことかとゲーテ言い」。
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その横顔、下の像はゲーテと親交のあった女性とか。反対側にももう一人います。
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そのゲーテが通った酒場、アウアーバッハス・ケラー。1525年の創業。
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ニコライ教会。1989年に東ドイツの民主化を求める運動はここから始まりました。やがてその流れがベルリンの壁の崩壊、ドイツ統一へと結実してゆきます。
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教会の内部。ピンク色に統一されていてとても綺麗な教会です。
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木陰で昼食をとりながら語り合う人たち、学生でしょうか。若いっていいですね。
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こっちも昼食、先ず地ビールのナマ。旨い!
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メインはソーセージとジャガイモ。ビールにピッタリ。
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スイーツはアイス、これも美味。
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可愛らしいウエイトレス。
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酒は旨いし姉ちゃんは綺麗、いう事なし。

次回はいよいよベルリン。
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by kanekatu | 2013-08-25 15:13 | ドイツ | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(10)

ドレスデン爆撃に触れねばならないでしょう。
ドレスデン爆撃は、第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて、連合国空軍によって行われたドレスデンへの無差別爆撃を指します。
4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下され、この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊されました。
死者は2万5000人とも15万人とも言われています。
当時、ドイツ各都市が爆撃を受けていて、安全だたドレスデンに多くの人々が避難していたこともあって、被害者の数が確定できていません。
このように被害者の数が分からないというのは戦争ではよくあることで、その事をもって加害そのものが無かったと主張sるのは公正とは言えません。
戦争の帰趨はほぼ決着しており、この爆撃は戦略的に意味のない空襲でした。
むしろドイツ軍の攻撃に対する報復だったのではと推測します。
「1人殺せば犯罪者だが戦争で100万人殺せば英雄だ」とはチャップリンの言葉ですが、戦争というものはそういうものなのでしょう。

下の映像は爆撃で瓦礫の山と化したフラウエン(聖母)教会です。
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しかしドレスデン市民は、その瓦礫の一つ一つを拾い集め、元の形に復元しました。2005年の完成です。
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その内部
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壁の拡大写真ですが、黒い部分は破壊された瓦礫、白い部分は新しい石材を使ったのが分かります。
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1985年に再建された音楽の殿堂ゼンパーオペラ。
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ザクセン王国の栄光を偲ばせるドレスデン城。
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カトリック旧宮廷教会はザクセン州最大の教会建築。屋根の上に78対の聖人像が並ぶ。
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エルベ川の辺の高台、ブリュールのテラスに到着。
エルベ川を挟んで旧市街と新市街とを結ぶアウグストゥス橋。
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エルベ川の観光船の船着場。
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「百塔の都」と謳われたドレスデン旧市街
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商店街の人通りです。
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対岸の新市街、何かイベントを行ってる様子です。
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テラスを下りてアルトマルクト広場に向かいます。
旧市街の様子です。
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アルトマルクト広場の光景。
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客待ちの輪タクとは懐かしい。
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ドレスデン城外壁に描かれた「君主の行列」。
長さが101m、マイセン陶器を2万5000枚使った壮大な壁画で、これだけは奇跡的に空襲から免れました。
1123年から1904年までのザクセン君主の行列を描いたものです。
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細部も丁寧に描かれています。
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夕食のスープ。
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黒ビールで駆けつけ3杯。
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メインはポーク。
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スイーツ。
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泊まりは街の中心にあるヒルトン・ドレスデン。
やはりホテルは中心部でないと魅力は半減します。
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少し間に休憩を入れてまだまだ続きます。
次回はライプティヒ観光。
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by kanekatu | 2013-08-17 13:47 | ドイツ | Comments(4)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(9)

いよいよドイツへ入国、って言ったって双方ともにシェンゲン協定に加盟しているので国境には何もありません。
ドイツ―ポーランド間に国境がなくなるなんて、数十年前なら誰が予想したでしょう。
今回訪れる地域はいずれも旧東ドイツ(東独)に属していました。
地図は下記の通りで薄いグレーが旧東独です。
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東ドイツなんて国があったことさえ知らない方もいるでしょう。少し説明をします。
正式国名はドイツ民主共和国。
第二次世界大戦を経て、ドイツは米・英・仏・ソの四か国による占領下に置かれました。しかし戦後の冷戦構造の中で、この四か国の協調は困難になります。
1948年より米・英・仏側とソ連側の対立が決定的となり、経済・政治両面における分断国家形成の動きが活発になります。
1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言されました。
東独は一時期は目覚ましい経済発展により、「社会主義の優等生」「東欧の日本」とも呼ばれていたほどです。
しかしドイツ社会主義統一党による一党独裁で、秘密警察である「国家保安省」による国民の監視が徹底されていました、
職場や家庭内にまで監視の目が張り巡らされた密告社会で、後の国家が崩壊すると妻や夫、あるいは親友が実は自分を監視していたなどという事実が次々に明らかになります。
近ごろ日本でも生活保護受給者がムダ使いをしていたら、当局に通報することを義務付ける自治体が出始めていますが、この延長が密告奨励社会です。
もちろん言論の自由はありません。
一定期間職に就かない人には、本人の意向にかかわりなく当局が強制して労働させました。
これに対する国民の不満が高まり、1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で国が消滅しました。

この旅行記で私がナチス・ドイツや東独のことを紹介したのは、国家というものは油断していると常に危険なものに変質するというのを言いたかったからです。

ヴロツワフからバスで3時間、エルベ川をわたりようやくドレスデンに到着です。
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エルベ川といえば「エルベの誓い」ですが、もう死語かな。
第二次世界大戦末期の1945年4月25日に、ナチス・ドイツを壊滅させるために東進を続けるアメリカ軍と、西進を続けるソ連赤軍が、エルベ川の沿岸ザクセン州トルガウで初めて出会ったという出来事です。ベルリン陥落の一週間前でした。
双方の軍が平和を誓い合ったという所からこの名が付きました。

先ずは昼食。
ドイツだからビールにしようか、それともワイン。
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生野菜の前菜。
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ライ麦のパン、黒パンは酸味がありますが馴れると美味しい。
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メインはポークだったかな?
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スイーツはアイアーシェッケ(チーズケーキ)。
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午後の観光はツヴィンガー宮殿で、ザクセン王国の最盛期に建てられたもので1732年の完成です。
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今回はその中のアルテ・マイスター絵画館(ドレスデン美術館)のみの見学となりました。
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数年前までの旅行記を見ると内部は写真撮影が可能だったようですが、今は禁止になっていました。
そのため画像はいずれもネットから採取したものです。
主な展示品は次の通り。
ジョルジョーネ 「眠れるヴィーナス」
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フェルメール 「窓辺で手紙を読む女」
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ラファエロ 「システィーナの聖母」
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レンブラント 「ガニュメデスの誘拐」
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絵画館の出入り口付近にはバイオリンを弾いている女性、カメラを向けたらニッコリ。
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中庭ではガラコンサートのチケットを売っている女性が。日焼けなんぞは全く気にしてません。
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次回はドレスデン旧市街です。
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by kanekatu | 2013-08-15 11:24 | ドイツ | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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