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「ここは地の果て」アルジェリア紀行その12(最終回)

私達のアルジェリアの旅も最終日、最後の世界遺産であるアルジェのカスバを残すのみとなりました。
アルジェの街はBC9世紀ごろに作られていたようで、当時はイシコムと呼ばれていました。
ローマ支配の時代には、前回の記事で紹介したシェルシェルに都が置かれていました。
アルジェが本格的に栄えるのは、16世紀のオスマントルコの時代になってからです。
そのアルジェの旧市街は、正式名称を「アルジャズーイ・ベヌー・メズハンナ」といいますが、そのアルジャズーイというのは、アラビア語で島々をいいます。地中海の海岸近くに小さな島々があって、16世紀先ずスペインがこの地の戦略的は重要性に目をつけ、その上に要塞を築きます。海軍基地を持とうとしたわけです。

1529年に、トルコの海賊で「赤髭」と呼ばれていたハイール・エディンヌが攻め込んできて、スペイン人を追い出します。1541年にはスペインの無敵艦隊がアルジェを包囲しますが、結局ハイール・エディンヌたちに撃退されてしまいます。
海賊たちはここを拠点にして地中海全域に活動範囲を拡げ、商船を拿捕して積荷を奪い、あるいは船員を捕虜にし各国に身代金を要求して、財を築きます。
「ドンキホーテ」の作者セルバンテスも、ここアルジェの牢獄で5年間虜囚として生活を送りました。
以後約3百年間にわたり、この地の海賊たちは、略奪した莫大な金銀財宝で、堅固な城壁を巡らし城砦都市を建設し、又豪華な建物を建てて街を飾りました。
「カスバ」というのは、アラビア語で城砦あるいは城壁を意味します。

1830年以後のフランス植民地時代に入ると、フランスは新たな都市計画のために、カスバの街を破壊します。
ジャン・ギャバンの映画「望郷(ペペルモコ)」の時代ですね。
しかしフランスからのアルジェリア解放運動が起きると、このカスバは重要な抵抗運動の拠点となります。
カスバは地中海沿岸に沿った丘の斜面に作られているため、急勾配の狭い階段、迷路のような細い道、ひしめき合うように軒を並べる小さな家々、そして多くの廃家、これらは抵抗運動にはもってこいの環境でした。
カスバを中心とした抵抗運動については、映画「アルジェの戦い」に描かれています。

アルジェリア独立後に、ここカスバにおよそ1500人もの人々が住みつき、更に街の破壊が進みます。
1990年に入って、ようやくアルジェリア政府が不法占拠者たちを追い出し、街の復興に乗り出しますが、まだまだ荒廃した状態が続いています。

こうしてカスバの歴史は、アルジェリア自身の歴史と重なっています。
カスバの街というのは、実に不思議な魅力に溢れた街で、これは実際に体験して頂かないと理解できないと思います。
例えて言うなら、戦前の映画の中に突然迷い込んだような、そうした気分を味わうことができます。
では以下に写真を紹介し、その雰囲気の一端を感じて頂きましょう。

カスバの一番高台にあるところです。この写真の後方にカスバの警察署(カスバの見学は警官の護衛付きです)と、刑務所(現在も使われている)がありますが、写真は禁止です。
この刑務所に、セルバンテスも繋がれていました。
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こういう迷路のような道路が続きます。奥で3人の婦人が立ち話しています。
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白い壁、青いゴミ缶、赤いシャツの男性、妙に絵になりますね。
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かつてはカスバの女たちがいた場所、つまり売春街でした。でも名残を留めている所が不思議ですよね。
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古い建物にはこうした補強が行われています。追われて人間が逃げ込みには、ピッタリの街並です。
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お婆ちゃんと孫が坂道を上がってくる光景ですが、なんか絵になるんですよね。
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黒い服の女性の後姿、これも絵になる。
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とても不思議な空間です。
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エルクビール・モスクの中庭です。外側からは想像もつかない豪華さです。
写真の人は管理人で、わざわざ門を開けて、私達を建物の中に入れてくれました。アルジェリアの人たちは、概して親切です。
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カスバと新市街の間に位置する、ケチャワ・モスクです。
豪華なミナレットが特徴です。
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さて長かった私達のアルジェリアの旅も、今回が終わりです。
アルジェリアは大変魅力に富む国と言えるでしょう。
その魅力は、
第一にサハラ砂漠
第二にローマ遺跡群
第三にカスバ
です。
いずれも他の国では味わえない、貴重な自然遺産、文化遺産です。

これからツアーに行かれる方にアドバイスするとしたら、サハラに行くコースを選択するようお薦めします。
8日間コースで、サハラをカットするツアーも見かけますが、恐らくは興味半減となるでしょう。
砂漠の早朝は予想以上に冷え込みが厳しいので、防寒衣が必要です。ホテルでは、毛布1枚しか用意していないので、寒さで震えることになりかねません。
その他、お腹を壊した方が結構いて、日本から持参のレトルトのお粥が重宝したようです。

一生に一度は行って見たい、又行く価値のあるアルジェリアの旅行記、これにて終了とします。
長い間お付き合い、有難うございます。

<完>
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by kanekatu | 2006-06-23 15:32 | アルジェリア | Comments(0)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その11

ツアーも終盤に近づいてきました。私達はアルジェリアで最も保存状態が良いといわれるジェミラ遺跡に向かいました。ここも無論世界遺産です。アルジェリアは世界遺産だらけです。
「ジェミラ」というのは、アラブ語で「美しい」を意味していますが、確かにこの遺跡は美しい。

紀元前のアルジェリアには、ベルベルの部族連合であったヌミディア王国と、北部の地中海沿いにあったローマの同盟国マウレタニア王国がありました。
この両王国を結ぶ幹線道路の拠点として、この街が発達します。
余談になりますが、後年ヌミディア王国の最後の王子がクレオパトラの(つまりアントニウスの)娘と結婚し、マウレタニア王国を継承します。
紀元1世紀ネルヴァ帝の時代にローマの植民地となり、3世紀のカラカラ帝の時代に最盛期を迎えます。
又この遺跡は、255年にはキリスト教が伝えられたとの記録が残されており、キリスト教初期の洗礼堂が残されています。

二つの谷に挟まれた標高900mの山中に作られたこの街は。自然の地形を利用した都市設計がなされています。
先ずローマ遺跡といえば、必ず付き物の円形劇場です。収容人員は3000人だそうです。
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隣国リビア出身のローマ皇帝であるセプティミウス・セウェレス帝の名を冠した神殿です。
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カラカラ帝凱旋門です。門の上に3つの台座が見えますが、元々はカラカラ帝とその両親の像が飾られていました。
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カピトリウム神殿です。神殿は円柱に囲まれた回廊が巡らされ、当時はユピテル、ユノー、ミネルヴァの3神がまつられていました。
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南北に走るカルド通りで、メインストリートになっています。
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この他写真撮影が許されず、残念ながらご紹介できないのですが、この遺跡の建物に使われていた素晴らしいモザイクが、付設の博物館に展示されていました。当時の北アフリカの文化水準がいかに高かったかを、窺わせます。

ジェミラには、5世紀にはヴァンダル人が侵入し、6世紀にはビザンティン帝国の支配下に置かれ、7世紀にはアラブ人が侵攻してきて街は破壊されます。山中にあったため人々から見捨てられますが、そのことが幸いして、アルジェリアで最も保存状態の良い遺跡として今に残っています。

もう一つ、首都アルジェに近い世界遺産、ティパサ遺跡を紹介します。
この街の歴史は古く、紀元前7世紀ごろのフェニキアの時代に作られ、カルタゴが衰退するとマウレタニア王国の傘下に入ります。その後ローマ帝国の植民地となり、本格的な都市が建設されます。
しかし6世紀のビザンティンの襲来により徹底的な破壊を受け、7世紀にここにアラブが侵入してきた時は、無人の廃墟と化していました。
「ティパサ」の語源は、アラブ語で「荒廃した町」を意味しています。
残念ながらこの遺跡は、建物や石柱は一切残されておらず、遺構だけがまるで墓標のように立っていました。
東西に伸びる石畳のメインストリートは、地中海の海岸まで続いています。
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ただ前日からの大雨で、地中海は黄色く変色していて、水平線も霞んで見えない状態でした。
もし晴れていれば、青い海と遺跡の対比が映えるのかも知れません。

未発掘のネクロポリス(カルタゴ時代の墓地)も地下に眠っているとかで、歴史的には意義のある文化遺産なのでしょうが、殆ど観る所はありません。
この辺りの事情は、チュニジアの遺跡と似ています。

アルジェの近郊にもう一ヶ所、シェルシェルがあります。紀元前4世紀にフェニキア人によって作られた街で、一時期はマウレタニア王国の首都でした。
今は博物館が建てられており、世界に三体しかないと言われるクレオパトラの頭像や、ギリシアの神々の彫刻などが展示されていますが、ここも室内は撮影禁止でした。
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石像やモザイクは、ノーフラッシュなら撮影しても問題無いと思うのですが、なぜかアルジェリア国内の施設は、一律に写真禁止です。

私達のツアーも、最終日のアルジェの市内見学を残すのみとなりました。
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by kanekatu | 2006-06-16 14:50 | アルジェリア | Comments(0)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その10

私達一行はいよいよアトラス山脈を越えて、北部の緑豊かな地域へと向かいます。懐かしいサハラともサラバです。
コンスタンティンはアルジェリア第4の都市であり、学園都市としても知られています。
カルタゴの時代に街が作られ、2世紀にはアフリカでも有数な大都市として発展します。4世紀に一度破壊を受けますが、コンスタンティヌ帝の時代に復興し、街は帝の名前がつけられました。
街はフランス植民地時代にヨーロッパ風に整備されますが、
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旧市街を中心にアラブの雰囲気が残っています。

コンスタンティンは崖の街です。切り立った絶壁は、深さが150mを越えていて、橋から下を覗くと足がすくみます。
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学校が多いせいか若者の姿が目立ち、腕を組んで歩くカップルの姿も目にするようになりました。この二人のように、積極的に撮影に応じてくれる人が多い。
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アルジェリアの女性も都市を中心に変化しているようで、男女が腕を組む、女性がタバコを吸う、女性がカフェに入ってお茶を飲む、これらはいずれも最近になって見られるようになった光景だそうです。
街には鉄道の駅があり、運良くホームに普通列車が入ってくるのが見えました。駅舎も列車の比較的綺麗で、アラブの国らしくありません。
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市場を散策しましたが、肉、魚、野菜、果物みな新鮮で豊富です。
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アトラス山脈の南側では、イスラム教の厳しい戒律を守って、既婚女性は夫の許可無くして家の外には出られないそうですが、北部の都市部ではそうした戒律はどんどん崩れているのでしょう。

前回アルジェリアは、ソ連型社会主義を受け継いでいると書きましたが、国民の生活について少し触れてみたいと思います。
徴兵制があり、男子は全員18ヶ月の兵役が義務づけられています。
医療費は無料。義務教育制度があり、日本と同じ6.3制です。教育費も無料で、男女共学だそうです。ただし砂漠の遊牧民の子供は、実際には学校に行けないとのこと。
国家として教育には力を注いでおり、大学の授業料は年間で600円程度(ホテルのビール代と同じ)、大学の寮費も年間で1000円程度だそうですから、タダ同然です。

物価はアラブの国としては結構高目だと思いましたが、パンと燃料と砂糖は、国が統制しているそうで、実に安い。
フランスパンは1本が小売価格で10-15円、ガソリンはリッターで35円程度です。
住宅は国営アパートに住んでいる人が多く、家賃は地方では8000円程度だそうですが、アルジェでは5万円近くになるそうで、こちらは結構高いですね。
民間のマンションも売られていますが、500万円以上するそうです。

一方給料ですが、公務員の月給で18000円程度とのことですから、特に都市部ではアルバイト無しには生活ができません。
基礎的な物価は安いですが、人々の生活は決して豊かとは言えないでしょう。
アルジェリアは比較的資源に恵まれていますが、産業は発展しているとは言い難い。
現在の政府は外国資本を積極的に導入して、国営企業の民営化を推進しようとしていますが、国情が不安定なため期待通りに進んでいない。失業率は恐らく30%近いと思われます。
こうした生活不安が、更に治安悪化の要因となるという、悪循環に陥っているのでしょう。

手っ取り早く雇用を改善しようとすれば、公務員として採用するしかない。そうした人々の大半が公共サービス部門に配置され、一人で出来る仕事を3人も4人も掛けて作業することになる。
観光バスの警備に兵士を配置したり、空港で何回も手荷物検査を繰り返したり、意味のない書類を提出させたり、これらが失業対策事業だと思えば、それなりに理解できます。
国営が多いホテルのサービスが悪いのも、同じ理由です。
私達観光客は、こうした事情を斟酌して、ひたすら我慢するしかない。

アルジェリアのような国への旅行は、ツアー客の心の広さが試されます。
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by kanekatu | 2006-06-12 17:26 | アルジェリア | Comments(0)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その9

以前の記事でアルジェリアの食事のことを書きましたが、一つ忘れていました。パンが美味しかった。さすがはフランスの植民地だっただけのことはあります。
ビールは国産のものがありますが、サイズは小瓶です。ワインもフランスの技術で作られていますので、まずまずです。
但しホテルではアルコール類が置いてありますが、街中のレストランにはありません。ホテルでもサハラ砂漠の中では置いていなかったし、ホテルのオーナーが敬虔なムスリムだったりすると、やはりアルコールは禁止です。
私の様に、どうしてもアルコールが無いと生きてゆけない人は、空港などで事前に購入しておく必要があります。
スイートは余り得意ではないのですが、下の写真の“ジェラウィ”だけは美味しかった。
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ナツメヤシ、パン粉、小麦、蜂蜜、ミルクを混ぜて焼くのだそうですが、山羊の乳に混ぜて食べます。家庭料理のようですが、確かに子供たちが喜んでくれそうな味です。

私達はバスで、世界遺産ティムガッド遺跡に向かいました。
ティムガッドはローマ支配当時の紀元100年前後、トラヤヌス帝の時代のもので、ローマ軍の退役軍人のための街として建設されました。
約400m四方の街は、36の集合住宅群と14ヶ所の公衆浴場が施設されていました。上下水道設備が備えられ、住宅の床には豪華なモザイクが貼られていました。
街の中央には神殿があり、円形劇場もあります。
ローマ時代を象徴する、「パンとサーカス」ですね。

フォーラムの階段に、当時の住民が書いた落書きが残されています。
「狩をしては一風呂浴び、たわむれ、大笑いする、これぞ人生」。今で言うなら、悠々自適の年金生活者というところでしょうか。
遺跡の保存状態も比較的良好で、ティムガッド遺跡は「アフリカのポンペイ」と呼ばれています。

写真はローマの円形劇場で、今でも時々催し物に使われているそうです。
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カピトリウム神殿は、残念ながら殆ど残されていません。かつてはユピテル、ユノー、ミネルヴァといったローマの神々が祭られていた神殿ですが、今は残された柱に往時の面影が窺うだけです。
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トラヤヌス帝凱旋門です。トラヤヌス帝は、通常軍隊の凱旋行進のときは、皇帝は馬に乗って行進するのですが、帝は常に民衆と同じ視線にするため、下馬して行進したと伝えられています。名君として、当時のローマ市民の尊敬を集めました。
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メインストリートの列柱通りです。この光景を見ると、いかにもローマ遺跡です。
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帰途、マダガースン墳墓に立ち寄りました。BC3-6世紀頃のヌミディア王国支配者の墓と推定されていて、ピラミッドのような形をしています。
ヌミディア王国は、遊牧民ベルベルの部族連合王国でした。
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この日はバトナの泊まりとなりましたが、ここら辺りからホテルは最悪を脱し、少しずつ良くなってきます。
シャワーからちゃんとお湯が出たと言って、ツアー客は大喜びしていました。
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by kanekatu | 2006-06-09 15:11 | アルジェリア | Comments(2)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その8

翌日はジャネットからミスラまで600kmの移動となり、早朝5時半に出発、延々とバスに乗り続けました。
ホテルを出てある検問所にさしかかるとバスが停車しました。ここからはバスを警備するために、軍の車両が前後に付くのだそうです。
アルジェリアは報道が規制されていて、何か事件が起きても、TVや新聞で一般市民に知らされないことが多いそうです。従って、ある地域にどんな事件が起きたかを知っているのは軍隊か警察だけということになります。
その地域の安全性、観光客への警備の必要性は彼らが一方的に判断します。
「警備の兵士と車両が揃うまでは、バスは出発できません。いつ揃うかは、インシャラーです。」と添乗員の西田さん。
バスの停車は1時間も続き、乗客はイライラし出します。
「皆さん、長いものには巻かれろですよ。」とまた西田さん。

ようやく警備の車が到着、出発となりました。
バスの前後に1台づつ警備の車がつき、それぞれにマシンガンを持った兵士が3名乗車するという、結構ものものしい警備です。
軍というと大袈裟に聞こえますが、アルジェリアでは道路の警備は軍の仕事ですから、日本でいえば交通警察に近い。
それとなぜか、地域によっては警察官が警備するケースもありました。でも警察の車も武器も、一見するだけでボロで、やはり軍隊の方が資金が豊かなのでしょうね。
この後、帰りのアルジェ空港まで、常に警備が付きました。
又遺跡などを見学する際にも警備をしてくれるのですが、どうも危険など元々無いらしく、兵士達は写真のように終始リラックスした様子でした。
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ただ困るのは、担当地域の境界にくると交代するのですが、この連携が悪い時は、長時間待たされます。警備兵が来ないと、バスが出発できない仕組みですから、ただ待つしかない。
良い点は、先ず検問所がフリーパスになること、それに交通渋滞に巻き込まれた時に、サイレンを鳴らして抜け出してくれることです。
警備の車が先導して反対車線を走り抜ける時は、乗客は全員拍手です。ささやかなVIP気分を味わえました。

アルジェリアは100万人を越える犠牲者を出したフランスとの独立戦争に勝利し、1962年に独立します。その後民族解放戦線による社会主義政策が進められますが、独立後の社会的混乱を抑えるために、軍部の力を借りなければならなかった。
1989年には憲法を改正し、社会主義政策の放棄と複数政党制の導入を決めます。しかしこの結果、選挙でイスラム原理主義政党が圧勝してしまいます。これを嫌った軍部が、再びクーデターを起こし、政権を奪います。
その後の10年は、政府軍とイスラム原理主義者との間の激しい武装闘争が行われ、数万人の犠牲者を出します。
現在は主な反政府勢力との間で和解が成立していますが、依然として武装イスラム集団によるテロは続いています。
一応議会制民主主義の政治形態にはなっていますが、軍の発言力が大きく、経済的にも社会主義的要素が色濃く残っています。
早くいえば、旧ソ連型社会主義に近い国の体制、これがアルジェリアに対する印象です。

さてこの日見学した世界遺産ベニハマッドは、標高1000mの地点に築かれた要塞都市の遺跡です。
唯一当時の面影を残しているのは、写真のミナレットです。この場所にはかつてアルジェリア国内第二の大きさのモスクがありました。
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11世紀に建てられたこのミナレットですが、それまではただの角柱の形状でしたが、こうした装飾を施した最初の例で、以後のスペインやモロッコなど他地域のミナレットに大きな影響を与えたそうです。

11世紀には中央に宮殿が建てられ、周囲7kmを城壁で覆い、8000人に人々が生活していた都市も、その後の外敵の侵入で完全に破壊され、今は完全な廃墟です。
世界遺産と言われても、フーンと思うだけで、ガッカリ世界遺産というところでしょうか。

その夜は、今回ツアーの中でもワーストのマイナス5つ星ホテルに宿泊しました。前に書いた、カビの臭いが目に沁みて、頭が痛くなったホテルです。この他欠点多数ありです。
ミスラにあるホテル「エルカラー」、アルジェリアに旅行される時は、このホテルだけは避けた方が良いと思います。
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by kanekatu | 2006-06-06 10:09 | アルジェリア | Comments(1)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その7

翌朝、私達はムサブの谷へ向かいました。
コーランを最も厳格に解釈したベルベル人のムサブ族は、イスラムの清教徒と呼ばれた、イスラムの中でも異端者でした。
11世紀の初頭サハラ北部の涸れ谷に、彼等の街を作ります。人口の増加に伴い、街は現在の5つに増えています。そのうちの一つが、ここベニイスゲンの街です。
砂漠に地下灌漑施設を開発し、人工のオアシスを作り、真夏は40度を越す地域で、人々が生活が出来るようにしてきたのです。

この街の風景は、ヨーロッパの著名な建築家へ大きな影響を与えました。キュービズムへのインスピレーションが得られたとの事ですが、この風景をじっと見ていると、何となく納得できます。
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ベニイスゲンの街には、街のガイドが同伴しなくては入れません。
又街の入り口には、「建造物以外の写真は禁止」の注意書きが書かれています。特に女性を撮影することは、厳禁です。
このムサブの谷の住民は、現在でも厳格な規律を守って暮らしています。女性は12歳くらいで結婚し、この土地を離れてはいけないそうです。
服装も通常のアルジェリアの女性とは異なり、アジャールと呼ばれるマスクのような布で顔を覆っており、既婚者は片目、未婚者は両目の部分だけ開いています。結婚していない女性はしっかりと両目で伴侶を探す、既婚の女性は夫しか見ませんというわけです。
男性も出稼ぎで街を出る場合がありますが、伴侶を求めて必ず戻ってくるのだそうです。

そうした厳格な風習が保たれている一方、この地にも近代化の波は確実に押し寄せています。
家の屋根にはTV受診用アンテナが立ち並び、エアコンが設置されている家もあります。
以前は、夕方になると門を閉めて、外来者は街の中で夜を過ごせなかったのですが、現在ではガルダイヤという街では城門を閉める規則は撤廃されており、私達もそのガルダイヤ内のホテルに宿泊できたわけです。

ガルダイヤの街を散策しましたが、家の外壁は黄色を基調としたパステルカラーで仕上げられており、陽に反射してとても美しい。
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マーケットも賑わっていましたが、残念ながら女性は後姿しか撮れません。それも人物にカメラを向けると注意されるので、建物の写真の中に偶然人物が写っていたというような工夫が必要でした。
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ここでアルジェリアの食事を紹介します。
基本パターンは決まっていて、砂漠でも都市部でもあまり変わりはありません。
先ず生野菜、野菜は新鮮で豊富です。
次はクスクス、小麦を蒸したもので、写真のようにチキン、あるいはマトンが乗っているものが多い。
それにショルパと呼ばれるスープが付きます。オニオン、トマト、塩、香辛料がベースで、その他の野菜が入っています。
普通はクスクスにショルパをかけて食べます。
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私はどこの国に行っても、その国の料理を楽しむタイプの人間ですから、どの料理も美味しく食べました。
ただ毎日毎食このパターンなので、さすがに飽きてきますが。
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by kanekatu | 2006-06-01 18:21 | アルジェリア | Comments(2)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その6

サハラ砂漠での昼食は、トゥアレグ族のテントの中でとりました。
生野菜と羊の焼肉(タレを掛けながら数時間かけて焼き上げるそうで、これがなかなか美味!)、それにクスクスです。予想以上に豪華で、美味しかった。
皆さん、砂が沢山混じった料理を、しつこい蝿を手で追い払いながら食べていました。
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昼食後は、午後3時までテントで昼寝となりましたが、いかに陽が遮られていても、気温は30度をゆうに越していますので、そうそう眠れるものじゃない。結局おしゃべりをして、時間を過ごしました。
さて3時になって出発と思ったら、4DWがいない。運転手はどこに行ったのか、いつ戻るのか分らない。
答えは「インシャラー」。
アルジェリアでは、こんなことの繰り返しです。

考えてみれば、サハラの中と私達の生活とでは、時間に対する観念が違うのでしょう。時間の流れ方が違うと言った方が正確でしょうか。
午後3時だって、時計の針が3時を指しているのではなく、太陽の傾き方で判断しているのかも知れません。
日本だって江戸時代、1ッ時は2時間でしたから、時間の感覚が今の私達とは全く異なっていたと思われます。「暮れ六つに会おうじゃねえか」と約束したって、当時は±1時間程度の幅があったんでしょうね。
こうしたことを想像できるのも、海外旅行の楽しみの一つではあります。

翌日は、朝ジャネットを出発し、夜にはワーグラーに着く移動日でした。
そして朝集合すると、又しても4WDが揃っていない。今度はジャネットの街全体にガソリンが来なくって、給油ができないとの説明です。この国には石油は売るほどあるんだろうと、文句を言っても始まらない。
隣町まで行けば、ガソリンがあるかもしれないし、とにかく行ける所まで行こうと、文字通りの見切り発車です。
見通しは、無論「インシャラー」。
ここから先は、ガソリンスタンドを見つけるたびに立ち寄り、やっぱり無いの繰り返しをしながら、出発後6時間後にようやくガソリンが手に入りました。
運転手と現地ガイドが喜んで抱き合っていましたから、かなり間一髪だったのでしょう。私達も日干しにならずに済みました。

午後4時にはイリーズイの空港に到着して、やれやれ搭乗手続きと思ったら、入国申請書を出せという要求がありました。結局空港係官と現地ガイドの交渉が行われ、不要との結論になりました。
国内便に搭乗するのですから、全く無意味な要求ですが、しかし係官がどうしてもという場合は、書類を出さなくてはいけないそうです。
ここで西田さんの、もう一つのスローガンです。
「長いものには巻かれろ」。
アルジェリアでは、いかに理不尽と思えても、御上に逆らってはいけないという教訓です。

かくして、珍しく定刻に出発した飛行機はワーグラーに到着、その地で宿泊となりました。

アルジェリアのホテル事情は、かなり悪いと言えるでしょう。
私自身は、過去40カ国中ダントツのワーストでした。他に100カ国を超えるような旅の経験をした方に伺うと、「もっとひどい国もあったよ」との感想でした。推して知るべしというところでしょうか。
シーツとタオルが洗濯してあり、ドアに鍵がかかり、シャワーから水が出て、トイレの水が流れ、部屋の電気が点く、これが全部揃っていれば、立派な合格ラインです。

今回宿泊のホテルは、最低でも2つ星の筈でしたが、実力はマイナス一つ星で、中にはマイナス5つ星のホテルも。
具体的に列記すると、
・室内にスズメバチのような大きな蜂が2匹いて、追い払おうとして逆に襲われ、逃げ回っているうちに、ドアの金具で受傷した人がいた。
・排水が詰まっていて、バスタブに入っていたら、いきなり汚水が逆流してきたという人がいた。
・部屋に入って先ずやることはゴキブリ退治。小さなヤツは叩き潰し、大きなヤツは追い出す。
・部屋の隅に水溜りがあるのは、不快。
・部屋を掃除した様子がない。
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・クローゼットの中が黒かびで覆われていて、カビの刺激臭で目や頭が痛くなった。これが一番キツカッタ。
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などなど、言い出したらきりがありません。

それでも、サハラや後ほど記事にするカスバの魅力には代えられません。
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by kanekatu | 2006-05-29 09:29 | アルジェリア | Comments(0)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その5

今回のツアー参加者の多くは、タッシリナジェールの岩絵を見るのを楽しみにしていましたが、実際には私を含めて感激したのは、サハラそれ自身の姿でした。
私は、サハラはこれまでにチュニジアとリビアで見てきたのですが、アルジェリアで見るサハラはそれまでと全く異なり、初めて本当のサハラを見たとの実感が湧きました。
違いの第一はスケールの大きさです。今回のサハラ観光では、砂漠の中に沢山の岩山が姿を見せる岩砂漠、
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中央下の車の大きさから、岩山の大きさを想像して下さい。

瓦礫と土からなる礫砂漠、
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ここでは多少牧草が生えているため、山羊の放牧を行っています。

そして通常の砂漠のイメージである砂の砂漠です。
太古のサハラは、岩山が連なっていたと考えられます。その岩山に水が沁み込み、冬場に凍結して膨張し、岩を次第に砕いていきます。いわゆる凍結融解現象です。
砕かれて小さな瓦礫となったものは、風化作用により、より細かな土になります。
更に強風に煽られて、細かな土は遠くに飛ばされ、粒度の揃った土だけが残ります。これが砂と呼ばれます。

  いのちなき砂のかなしさよ
  さらさらと
  握《にぎ》れば指のあひだより落つ..
                   石川啄木

握れば指の間から落ちてしまう、砂はつまり保水性が全くないので、普通の植物は生息できなくなります。
砂漠の成因というのは、本で読んで知っていましたが、サハラでそれを目の当たりにしました。

第二は砂漠の美しさです。
昔「アラビアのロレンス」という映画を見て、多くの人は砂漠の美しさに目を瞠りました。
ビロードを想わせる砂丘、時々刻々変化する風紋、光の当り方で変わってゆく砂の色、実際の見る砂漠の美しさは譬えようがありません。
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右下、豆粒のように写っているのが人間ですから、この砂丘の大きさが想像できると思います。砂丘は巨大なものになると、長さが数百キロメートルに及ぶのだそうです。
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サハラのスケールの大きさ、砂漠の美しさは、取り敢えず私の拙い写真で、実感頂けたでしょうか。

さて、サハラは4WD5台に分譲して出発したのですが、昼近くになって私達3人が乗っている車が故障しました。砂の中を走るというのは、極めて過酷な条件で、さすがのトヨタ4WDもエンコしてしまったわけです。もっとも中古も中古、相当古い車種ではありましたが。
砂漠の真ん中で1時間、トゥアレグ族の運転手が必死の修理を試みましたが、故障は治らない。
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諦めて、私達は他の4台の4WDに振り分けられて、後の工程をこなしました。
ここで気が付いたのですが、サハラでは単独での旅は無理です。砂漠の真ん中で車が動けなくなれば、本当に人間のミイラが出来てしまいます。
前の記事で、タッシリナジェールの岩絵を見る現地ツアーがあると書きましたが、ある一定の人数に達しないとツアーが催行されないというのは、安全のための必要な措置です。運悪く人数が集まらない時は催行されないそうなので、参加を希望する方は予め確認しておいた方が良いでしょう。
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by kanekatu | 2006-05-26 12:05 | アルジェリア | Comments(0)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その4

アルジェリア入国早々に、なぜサハラの奥にあるジャネットに飛んだかというと、タッシリナジェールの岩絵を見るためです。この岩絵については、先日NHKが放映したこともあり、多くの人の関心を呼んでいます。
但し、NHKの番組のイメージでこのツアーに参加しますと、ガッカリします。今回のツアーでは、岩絵のほんの入り口のみであり、本格的に見ようと思ったら、テント持参で1週間は掛かるそうです。そうした現地ツアーもあるので、特に岩絵に興味がある方は、そちらに参加したほうが良いでしょう。
今回のツアーは、正確にいえばジャネット周辺の岩絵だけを見学したということになります。

岩絵は、今では日本が8つも入るこのサハラ砂漠ですが、数千年前には豊かな水と緑に溢れた土地であったことを証明してくれます。
岩絵の時代を大きく分けると、次のようになります。
①狩猟時代
約7000年前で、岩絵にはキリン、バイソン、カバなどが描かれています。
つまり、サハラには沢山の野生動物が生息しており、サファリ(狩猟旅行)が行われていたと推測されます。
②牛の時代
約5000年前ごろと思われ、岩絵から野生動物が消え、代わりに家畜としての牛が描かれるようになります。
岩絵の技巧が、最も進んだ時代と言われています。
③馬の時代
約3500年前になると、岩絵から牛の姿が消えます。
砂漠化が進行し、牛の放牧が出来ない時代に入ったことを示しています。乾燥に強い馬やラクダが生き延びたと思われます。
岩絵は単調なものに変わってゆきます。

岩絵の変遷は、サハラの砂漠化を示しており、それはとりもなおさず人間の環境破壊の歴史を刻んだものでもあります。

さて、陽射が暑くならないうちにという配慮から、朝7時半に集合して出発の手筈でしたが、肝心の4WDが来ない。暫く待っていると、西田さんから説明があり、ただ今ガソリンの給油に行っているが、長い行列が出来ていて、時間が掛かっているとの事です。
参加者からは、車の給油など前日にしておけば良いではないかと文句が出ましたが、給油は運転当日に行う慣習だとのことです。この辺りはお国柄なので、仕方が無いことです。
以前インドに行ったときに、タクシーに乗車したら、いきなりガソリンスタンドに入って行って、驚いたことがあります。
いつ出発できる見通しなのか尋ねたら、西田さんは「インシャラー(神の思し召し)です。」とのこと。
このツアーでは、この先何回この「インシャラー」を聞くことか。
アルジェリアでは、出来るのかどうか、又いつ出来るのかは、全てインシャラーです。
我が日本にも、こうした便利な言葉があれば、ノイローゼになる人はいなくなるでしょうし、自殺する人も確実に減るでしょうね。
「この仕事いつまでに出来るんだ?」「いつ金を返してくれるんだ?」、答えは全てインシャラーで片付けられますからね。

ともかく予定より1時間半ほど遅れて、トゥアレグ族の人の運転する4WDが、さっそうとやってきました。
トゥアレグ族は文字を持たない民族で、遊牧民族なので学校にも通わない、従って字は全く読めない、数字もダメです。会話は全然通じない。だから文句の言い様が無いということで、私達は黙って車に乗り込みました。

岩絵は岩肌に直接描いたもので、赤色の頁岩を細かく砕き、それに動物の乳などを粘結剤として加えたものを顔料として使用したものと見られます。
雨量が少ないことが、岩絵の保存には好影響だったでしょうが、反面砂嵐が吹く気象条件の中で、良く数千年の時を経て、今日まで形を保ったものと、ただただ感心しました。
消えかかったものや、判別が困難なものも多く、比較的鮮明な岩絵を、いくつか紹介します。

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人間が縦隊になって歩いている姿から、軍隊の行進と呼ばれています。
全体はずっと横長ですが、写真はその一部です。

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ジャガーの絵とされています。
サハラが草原であった頃に、棲息していたのでしょう。

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牛です。およそ5000年前の作品と推定されます。

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キリンです。特に右側のものは、白いキリンという名称で親しまれています。
約7000年前の作品と見られています。

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これは今までの作品と異なり、岩に彫った岩刻画です。
紀元前1500年頃の、既に牛がサハラから姿を消した時代に書かれたと思われ、泣く牛と呼ばれている作品です。

やはり現地で実物を見ると、とにかく感動します。
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by kanekatu | 2006-05-23 11:50 | アルジェリア | Comments(0)

「ここは地の果て」アルジェリア紀行その3

前回のエントリーの写真が良く撮れているとの、お褒めの言葉を戴きました。
でも「文章が無けりゃ、なお良いんだが。」は余計ですよ。本人は結構名文だと思っているんですから。
さて旅行記の本題に戻って、成田からローマに到着、空港エリア内のホテルに宿泊しました。機内泊でいきなり観光はキツイので、前泊は楽チンです。航空会社はアリタリア航空でしたが、久々に欧州系の航空会社に使いますと、機内サービスの悪さを実感します。シートのリクライニングとモニター画面は故障しているし、トイレは詰まったままだし、夕食はお粗末だし、さすが悪名高いアリタリアでしょうか。

翌朝ローマを発って、午前10時にはアルジェに着きました。ここからアルジェ航空に乗り継ぐのですが、出発が4時間半遅れました。不満の声が上がると、西田さんから「前回は10時間遅れて、とうとう目的のホテルに着かなかったんですよ。皆さんは運が良いんです。」と説明ありました。以後私達はあちこちで同じセリフを幾度も聞くことになり、ツアーの終盤では、参加者全員が「私達は本当にツイテいた」と思えるようになりました。こういうのをマインドコントロールというのでしょう。

アルジェリアの入国は、事前にビザ取得が必要です。
入国には入国カードを提出しなければなりませんが、この他に通関の際に税関申告書が求められます。入国時の手持ちの金(円と外貨全て)を書類に書いて提出します。スタンプを押して返されますので、出国の時まで大事に保管しなければなりません。ごく形式的なことですが、決められたことは、その通りにやることが大切なようです。

現地通貨はディナールで、ユーロから両替できますので、入国までに円や米ドルはユーロに変えておく必要があります。余ったディナールの最両替は無理のようですので、両替は必要最小限に小まめにすることをお勧めします。レートはおよそ 1ディナール=1.5円でした。
アルジェリア国内での飲食や買い物は、全て現地通貨です。空港や外国人相手の商店以外は、ユーロも通用しません。

写真は、空港や軍事施設、警察や政府の建物は禁止です。要するに国旗が立っている場所は、カメラが向けられません。軍人や警察官とその車両も禁止です。了解がなされた場合は、撮影可能ですが。
それと地方では、女性を撮らないようにという注意がありました。

通関の時にも手荷物検査があり、バッグを開けられます。これ以後、国内空港でも搭乗前に最低3回の手荷物検査があり、その度にバッグが開けられます。航空機のタラップの手前でも、必ず手荷物検査がありました。飛行機を降りてから手荷物検査するケースもあり、どうも意図がよく分かりません。
回数が多い割には、中身のチェックが粗雑で、ツアー客の中にセラミックス製のハサミを手荷物に入れている人がおりましたが、とうとう最後まで見つからなかった。いい加減なのです。
どうも目的が、雇用促進(失業対策)ではないかと疑います。

アルジェから現地ガイドが合流しましたが、この女性というのがサービス精神のカケラもない人で、他国であれば、間違いなくガイド失格です。私達に挨拶もしないし、ツアーの食事でも本人が食べ終わると、サッサと休憩に入ってしまう。車に乗っている間中、運転手と大声でお喋りを続ける、正に三冠ですね。
後半現地ガイドが交代して、多少愛想がいい人になりますが、ガイドとしては多いに物足らない。
アルジェリア観光の欠点の一つは、現地ガイドのレベルがとても低いことです。永らく海外からの旅行者を受け入れて来なかったことから、ガイドが育っていないことも、原因があります。
更に、国内の遺跡などの文化遺産に対する関心が全般に薄く、勉強もしていない。
西田さんによると、長い間フランス植民地であったこと、イスラムであること、アラブの国であること、これらの悪い所が重なった、いわば三重苦の状態だそうです。
でもレストランや商店での応対は、他国に比べ特に問題は無かったので、本人のキャラによる所も多いのではないでしょうか。
アルジェリアがこれから観光事業を伸ばそうと思うなら、ガイドの人材育成は不可欠でしょう。

ともかくも夕方には目的のジャネット空港に着き、それから4WDに分乗して午後8時前には、テレネビレッジホテルに到着しました。
ロッジ形式の、外観は石造りのなかなかしっかりした建物ですが、中身は・・・・・です。
アルジェリアのホテル事情は、別の機会に触れたいと思いますが、これ以後毎朝、ツアー客同士食事で顔をあわせると、決まって第一声が「シャワーのお湯出た? トイレ水流れた? 部屋の電気ついた?」でした。
これだけで、ホテル事情が想像して頂けるでしょう。

写真は、休憩中のホテルの従業員です。サハラ砂漠の中のホテルなので、働いているのはトワレグ族(砂漠の遊牧民族)の人です。
一見コワモテですが、実に気さくで親切な人が多いのです。
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by kanekatu | 2006-05-20 08:24 | アルジェリア | Comments(0)

憂きな中にも旅の空


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