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西バルカン6ヶ国周遊記4(コソボ2回目)

ここで今回のツアーのバス運転手・トメさんを紹介しておきます。写真の左側の人で、いつも顔を合わせるとニコニコ笑って挨拶してくれます。
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トメさんは6ヶ国周遊の全ての運転を一人でしただけではありません。国境を越えるたびに私たちの出国・入国の手続きを全て一人でやっていました。トメさんが凄いのは6ヶ国全ての国の言語が話せるし(他に英語、ドイツ語、イタリア語などが話せるとか)、入出国にかかわる煩わしい手続きに長けているからです。国境ではトメさんが私たちのパスポートと現金を握って走り回る姿が見えます。手続きが終りバスに戻ってくると事務所を指さしながら私たちに「マフィア、マフィア」と言って笑います。どうやら小さなワイロ(現金なら10ユーロ程度で、他にミネラルウォーター1ケースとか)を要求されるようです。こうした心得がないと嫌がらせで1時間以上も待たされる例もあるようで、こういう点も含めてドライバーの技量が要求されるわけです。
とにかくトメさんは優秀なドライバーでした。

バスの車窓から見たプリシュティナ市内の様子です。超高層ビルと車の渋滞はどの都市でも見られる光景です。
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変っていたのはこの日に宿泊したホテル”VICTORY”です。写真の屋根に「自由の女神像」が立っているホテル。
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勝利=自由の女神像というのもいかにもコソボらしいけど、なんだかラブホみたいなデザイン。
このホテル、なぜか周囲の道路が全て工事中で、おまけに一方通行。しかも周囲が空地だらけなのにホテル周辺だけは建物が混んでいます。
入り口を探してバスは周囲をグルグルと回り。およそ1時間ほどかかってようやく別の建物の敷地を通ってホテルの敷地に入るルートを見つけました。それも裏木戸から入るような感じで、出入り口はバスの幅スレスレ。通過した時は車内から拍手が起きました。
上の写真でスーツケースを引いて歩く人の姿が写っていますが、この人たちもホテルの入り口が分からず周囲を回って歩いているのです。
翌朝の出発もやはり別の敷地を通って出ることになるのですが、その通路に乗用車が停まっていて通れず一苦労。こうした所が未だ新興国ですね。

ホテルでの夕食で、前菜の生野菜とチーズ。
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メインは肉だっけ。主食がビールとワインなのであまり関心がないんです。
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スイーツは甘味が苦手でパス。
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観光3日目の翌朝はホテルを出発し、コソボで一番美しいと言われるプリズレンの街へ向かいます。
コソボ南部の中心都市で町の起源はローマ時代にさかのぼります。オスマン朝時代の建物の他、モスク、セルビア正教やカトリックの教会も残されています。
ここが絶好のビューポイントで、正面に見えるのがオスマン朝時代に建てられたスィナン・パシャ・ジャミーア。
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橋から上流を眺めたもの。正面上部の黒い建物は城砦。
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16世紀に建てられたトルコ式公衆浴場、ガーズィ・メフメット・パシャ・ハマムは現在工事中。
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橋の袂にある独立戦争の勇士像。
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プリズレンの市街の様子。女性が多いのは「男嫌い」な撮影者の好みによるものなので悪しからず。
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昼食はジャガイモと豚肉、美味しかったですよ。
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これでコソボ観光を終え、これからバスで3時間半かけて国境を越え、マケドニアに入国します。
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by kanekatu | 2014-06-18 07:12 | コソボ | Comments(4)

西バルカン6ヶ国周遊記3(附-コソボ紛争・考)

コソボは外から見ると不思議な国です。首都プリシュティナにはクリントン通りがあり、ビル・クリントンの銅像も建っています。バスで通り過ぎて写真が撮れなかったので、他のサイトから借用しました。
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建設中の国営施設は「クリントン」と名付けられるそうです。

近ごろクリントンと言えばヒラリー・クリントンを指しますし、どうも私のような下衆な人間はクリントン元大統領というとついつい例の「葉巻事件」を想い出しニヤけてしまうのですが、コソボではまるで「建国の父」扱いです。
コソボのアルバニア国旗林立とクリントン銅像を解くカギは、コソボ紛争にあると思われます。この全貌を明らかにしようと思うと、それだけでこの旅行記が埋まってしまうので、短く要約してみます。

コソボにイスラムのアルバニア人が入植してきたのは14世紀オスマントルコがバルカン半島へ進出してきた頃からです。この時代はキリスト教のセルビア人と共存していました。
19世紀末から20世紀初めにかけてセルビアとアルバニアは独立を果たしますが、第一次世界大戦以後はコソボはユーゴスラヴィア領となり、第二次大戦後はユーゴスラヴィア連邦の一つだったセルビア共和国内の自治州になります。
1974年の憲法改正でコソボの自治権が大幅に認められるようになりますが、アルバニア人がコソボの独立を求まて暴動を起こしてセルビア人との民族対立が激しくなり、却ってコソボの自治権が縮小されてしまいます。

90年代に入りユーゴが解体されると再びアルバニア人が独立を叫び、対抗してセルビア側が自治権を停止するなど対立がエスカレート。
アルバニア人側はコソボ解放戦線という武装組織を結成して武力闘争を開始すると、セルビア側は治安部隊で対抗するなど、泥沼の紛争に突入していきます。
1999年3月にはNATOが仲介して和平交渉が行われますが不調に終わり、NATO軍はコソボでの人道問題を理由にセルビアに空爆を開始します。この時、コソボの数十万人のアルバニア人が難民化します。
6月にセルビア側はコソボから治安部隊を撤退させますが、今度はセルビア人が報復を恐れて26万人がコソボからセルビアへ避難してしまいます。
その後コソボでは国連による暫定統治が行われ、セルビアとコソボとの地位交渉が行われますが、交渉がまとまらない中、2008年にはコソボ議会が独立を宣言します。
現在、欧米や日本を含む106ヶ国が独立を承認していますが、ロシアや中国、スペインなどは独立を認めていない。セルビアは依然として自国の自治領だという姿勢を崩しておりません。
(当時、国名が目まぐるしく変わっていたので、一部正式国名を使っていないことをお断りします)

こうして見ると、コソボが独立できた鍵は、1999年のNATO軍によるセルビア(セルビア人側)への空爆です。アライド・フォース作戦と呼ばれるこの作戦はアメリが主導し、攻撃の主力も米軍でした。
コソボが当時のクリントン米国大統領を建国の父のように敬うのか、これで分かると思います。

確かに当時のコソボでアルバニア系住民に対する非人道的行為が行われていたのは事実です。しかし紛争の経緯を見れば、アルバニア側のセルビア系住民に対しても同様の行為が行われていて、NATO軍の空爆は一方的だったのではという主張も否めません。
それと、この空爆はセルビア側が和平交渉において、合意文章に調印しなかったために起きたものでした。なぜセルビア側が調印しなかったのかという理由として、和平交渉の期限切れ直前にアメリカが提出した付属文章の存在があると言われています。
その内容は、「コソボのみならずユーゴスラビア全域でNATO軍が展開・訓練でき、なおかつ治外法権を認めよ」という、事実上の占領化を意味するようなものでした。
最初から到底受け容れられないような条件を出して、それが拒否されたからと攻撃したとするなら、これはかなり恣意的なものと言わざるを得ないでしょう。

コソボの独立はアルバニア側の勝利であると同時に、アメリカの勝利でもあったというのが私の見立てです。
第二次世界大戦の後半から現在に至るヨーロッパを、アメリカとロシア(旧ソ連)とのオセロゲームに例えるなら、オセロの石は着実にロシア色からアメリカ色に裏返しになりつつあります。
NATO加盟国はこれからも増え続けるでしょう。
気が付けば日本も、なんてね。その前に集団的安全保障を決めておかねば、ですか。
決してジョークじゃありませんよ。

予想以上に長い文章になってしまったので、観光記は次回にします。
今回は「オマケ」ということで。
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by kanekatu | 2014-06-16 05:45 | コソボ | Comments(2)

西バルカン6ヶ国周遊記2(コソボ1回目)

イスタンブール~プリシュティナ間のしかも早朝便とあって空いているだろうと予想していたが、これが満席。国が新しいせいか空港も新しい。空港周辺も出迎えの人などで賑わっていました。
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コソボは2008年に独立した欧州で最も新しい国です。ただ独立国として承認しているのは日本を含め100ヶ国あまりで、ロシアやスペインなどは未承認です。もちろんセルビアでは現在も領土の一部(コソボ・メトヒヤ自治州)とみなしています。
地図は下記の通り。
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正式国名はコソボ(コソヴォ)共和国、面積は1万908k㎡で岐阜県と同等。人口は約180万人、首都はプリシュティナ、民族構成はアルバニア人92%、セルビア人5%、その他3%。宗教は大半がイスラム教徒で、一部がセルビア正教徒。公用語はアルバニア語とセルビア語。通貨はユーロ。
面白いのは国旗で、国土と民族構成を表しているそうですが、素直に見ればEU指向がミエミエ、とは穿ち過ぎかな。
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道路を走っているとアチコチに国旗が掲げられていますが、全てアルバニア国旗。ガイドにコソボの国旗は?と訊くと、ありますよと答えていましたがなかなか見つからない。実態はアルバニアがセルビア領土に食い込んだ形の国家といった所でしょうか。こうして見ればスペインなどがコソボを承認しない理由も肯けます。
住宅はレンガ造りの白い壁に赤い屋根が共通点です。
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途中の高速道路はよく整備されていました。
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最初の観光地はプリシュティナから約100㎞離れたデチャニ修道院です。
コソボには現在もNATO軍が駐留していますが、ここはイタリア軍が警備していました。観光バスもチェックポイントで止められ、OKが出てから中へ入れます。軍の事務所周辺は撮影禁止ですが、若い女性兵士をみつけ撮影許可を求めると彼女だけならと応じてくれました。未だあどけなさが残る若い女性で、撮影前に髪を直したのは女心でしょうか。右はツアー参加者。
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もし騒乱が起きれば彼女らも武器を持って戦わねばなりません。戦闘になれば殺すこともあれば殺されることもある、イタリア人がコソボの国で。これが集団的安全保障というものの現実です。

コソボの世界遺産の一つであるヴィソキ・デチャニ修道院は14世紀に建てられたセルビア正教の修道院です。建築様式はビザンツ、ロマネスク、初期ゴシックの折衷です。
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内壁は15年かけと言われるフレスコ画で覆われていて、保存状態も大変宜しい。
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東方正教としては例外的に彫刻による装飾も施されています。
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赤い布で覆われた棺は創立者のウロシュ3世の遺体が納められているそうです。
毎週木曜日には棺の蓋をあける儀式が行われ、多くの信者が集うとのこと。
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ここから15㎞移動しペーチに向かいます。
途中の光景で、白馬が引く馬車に出会いました。王子様ならぬオジサンが乗ってましたけど。
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小学生の女生徒たちです。昼前ですがもう下校時間なのでしょうか。
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コソボの人口はこれから急激に増える見込みとか。その理由はアルバニア人の家庭では4-5人の子どもを持つのが普通だそうで、人工が倍増する日も近いとガイドが言ってました。

コソボに着いてから初めての食事です。移動途中にビール工場を見つけので、先ず地元のビール。美味い!
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メインは肉、ビールさえあれば何でもOK!全て口に合う。
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もう一つの世界遺産であるペーチ修道院は創立年代が不明ですが、およそ13世紀頃と推定されていて、14世紀にはセルビア教会の総主教座に就いたと思われています。
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修道院内の教会は赤い色が特長ですが、手前の建物に隠れて頭の上しか見えません。
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付属する小さな教会から想像してみて下さい。
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コソボがセルビアから独立してしまったがために、セルビア正教のいわば総本山がイスラム教徒の国であるコソボに残されてしまった。
この事は後々紛争が再発する要因をはらんでいる、そんな危惧を捨てきれません。

これから元のプリシュティナの街に戻り観光のあと1泊して翌日はプリズレンの市街観光となりますが、これは次回に。
あわせて次回はコソボ紛争について触れたいと思います。
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by kanekatu | 2014-06-14 07:11 | コソボ | Comments(3)

西バルカン6ヶ国周遊記(2014/5/25-6/5)1

2014年5月25日より12日間、西バルカンのボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、コソボ、アルバニア、マケドニアの6ヶ国を巡るツアーに参加してきました。
旅行社はクラブツーリズム、参加者は22名。
この地域は以前から行きたいと思っていたのでようやく念願が叶いました。
ただボスニアやセルビアなどでは5月中旬に100年ぶりという大雨による大洪水で多くの方が亡くなり、被災者100万人、20万人が避難生活を余儀なくされているという報道があり、催行が心配されていましたが、結果としては予定通り行動ができました。

かつて「バルカン半島は欧州の火薬庫」と称され、近世から20世紀末まで幾多の戦乱に巻き込まれてきました。
バルカン諸国の地図は下記の通りです。
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南からトルコ、東からロシア、北からハンガリー・オーストリア、西からはドイツといった周辺国からの脅威にさらされてきたのがバルカンの歴史です。
12世紀にセルビア王国が形成されますが1389年にオスマントルコに破れ支配下に入ります。
1877年の露土戦争でオスマンがロシアに敗れると再びセルビア王国が生まれるが、北からオーストリア=ハンガリー帝国の支配が拡がり、ボスニア・ヘルツェゴビナが併合されてしまいます。
これに反発した民族運動がおこり、1914年にオーストリア皇太子夫妻が青年ボスニア党のセルビア人にサラエボで暗殺される事件が起きます。これが発端で第一次世界大戦が勃発します。
1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、1929年にはセルビア人が中心の独裁制のユーゴスラビア王国が誕生しますが、クロアチア人の反発を買い、1934年にアレクサンドル国王が暗殺されてしまいます。
第二次世界大戦でドイツはユーゴスラビア王国を攻撃し王国は降伏、領土がドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアに分割されます。クロアチアを手に入れたドイツは傀儡国家のクロアチア独立国を築き、思うままにセルビア人やユダヤ人を迫害、虐殺します。
こうした中でユーゴスラビア人民解放軍が生まれ、パルチザン活動による抵抗運動を展開し、ドイツの敗北とともに指導者チトーを中心にした人民共和国が誕生、1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称されます。
しかしソ連の崩壊、チトーの死を受けて、この共和国も崩壊、連邦各国の分裂が起き、内戦に向かって行きます。
これから後のことは、今後の記事の中で紹介してゆきたいと思います。

旅程ですが、5月25日22時30分発のトルコ航空0053便で成田空港を出発、およそ12時間でトルコのイスタンブール空港に26日5時に到着(日本との時差:6時間)、7時35分発のトルコ航空1017便に乗り継ぎ、コソボの首都プリシュティナ空港に8時10分に到着(時差:7時間)。
成田-イスタンブール間はビジネスを利用しましたので食事のメニューを紹介します。いずれもメインはチョイスでアルコールは飲み放題。
夕食のオードブル。
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生野菜を中心とした前菜。
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スープ。
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メインはチキン。酒はスペイン産赤ワインで通しました。
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朝食の前菜は生野菜とフルーツ。
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メインはスクランブルエッグとマッシュポテト。
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食事はまあまあでしたが、トルコ航空のサービスは頂けません。成田発のANAとのコードシェアー便であったにも拘らず、日本語を話せるCAが一人も搭乗していない。せっかくメニューが日本語表記されているのに、注文になると英語のメニューを通して行わねばなりません。
サービス面ではトルコ航空は失格です。

コソボの入国審査はパスポートの提示だけ。通貨はユーロが使用できるので楽です。
到着が朝で、これから即、終日観光になるので大変です。
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by kanekatu | 2014-06-11 19:06 | コソボ | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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