カテゴリ:ボスニア・ヘルツェゴビナ( 3 )

西バルカン6ヶ国周遊記15(ボスニア・ヘルツェゴビナ2回目)

夕方にサラエヴォに到着。ホテルは”HOLLYWOOD”、なんだかキャバレーみたいな名前。
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チェックインしてからレストランへ向かいました。途中のバスの車窓から見たサラエヴォの街の景色です。
トラムの走るこの道路がスナイパー(狙撃兵)通り。こんな物騒な名前が付いたのは、ボスニア紛争中にこの通りで動く者全てが、高層ビルにひそんだ狙撃兵の標的になりました。老人も子供も女性も全て犠牲になりました。
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旧ホリデイ・インは戦時中ジャーナリストのたまり場になっていたホテルで、今は名前が変っています。
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外資系企業のビルも建っています。
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夕食の写真が無いのは段々面倒になってきたせいか。

観光9日目はサラエヴォ市内見学からスタート。
ハンガリー=オーストリア帝国時代に市庁舎として建てられその後は国立図書館として街のシンボルでしたが、紛争の時の砲撃で全焼、蔵書も全て灰燼に帰してしまいました。
現在は再建工事中です。
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バチチャルシャは旧市街の中心にある職人街。
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バチチャルシャ通りの中央にある水飲み場(セビリ)。
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赤レンガの古い家屋が軒を連ねています。
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白壁に格子窓というのは日本的なものも感じますね。
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ガジ・フスレヴ・ベイ・ジャーミヤは1531年に建てらえたこの国の最も重要なイスラム寺院です。ガジ・フスレヴ・ベイは当時のボスニア総督で、数々の公共施設を建てサラエヴォの発展に貢献しました。
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ブルサ・ベジスタンは16世紀オスマン朝時代に建造された旧絹取引所。現在は博物館になっています。
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イスラム時間を指す時計塔
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市のトラムで、この左にラティン橋があります。
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この三叉路が第一次大戦の引き金になったサラエボ事件現場です。オーストリア皇太子夫妻の車列は、往きは大通りの左から右へ進み、この時に爆弾が投げられ夫妻は無事でしたが随行の人が20名亡くなっています。帰路は大通りを右から来て右折する予定でしたが、急きょそのまま直進するよう変更していました。処が運転手が勘違いしたのかこの角を右折してしまい、今はサラエヴォ博物館となっている右側の建物に潜んでいた青年ボスニア党のガブリロ・プリンツイプによって狙撃されてしまいます。
何となくケネディ暗殺事件を思わせます。
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ホテルヨーロッパは数々の名士が宿泊した名門ホテル。
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旧正教会は16世紀建造のセルビア正教教会。
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内部の装飾にはトルコの影響も感じます。
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サラエヴォを離れ、最後の観光地ヴィシェグラードに到着。先ずは昼食で生ビール。
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瓶ビールも。
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メインはハンバーグステーキ。
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ヴィシェグラードはセルビアとの国境近く、ドリナ川沿いにある小さな町ですが、ボスニア出身のノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの作品「ドリナの橋」の舞台となったことで一躍有名になりました。
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下の家はイヴォ・アンドリッチ氏の自宅。
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世界遺産に登録されたメフメット・パシャ・ソコロヴッチ橋は16世紀の建造。設計はトルコの建築家ミマール・スイナンで、11のアーチから成る全長175mの橋は建築技術の高さと共に、その美しさは彼の最高傑作と評されています。
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橋を渡ると旧市街に出ます。有名なアンドリッチグラードは左側にありますが工事中でした。
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見学に来ていた小学生、雨が降ってきたので急いでバスに戻るところです。
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これでボスニア=ヘルツェゴビナの観光は終了。
これから国境を越えて最後の訪問地セルビアに入国です。
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by kanekatu | 2014-06-29 06:36 | ボスニア・ヘルツェゴビナ | Comments(2)

西バルカン6ヶ国周遊記14(ボスニア・ヘルツェゴビナ1回目)

ボスニアへの入国は緊張していたのですが、呆気ないほど簡単でした。楽勝かなと思ったら、入国してバスで1時間程走った所で停車。ドライバーによるとNATOの検問所だとか。いつものようにトメさんが全員のパスポートを抱え走り回っていました。やがて戻ってきてパスポートの返却されましたが、今度は係官がバスに乗り込んできて一人一人パスポートの写真と実物とを比べてチェック、これでようやく通過となりました。ドライバーが言うNATOなのか、この国の監督機関として和平履行評議会(PIC)の下にある上級代表事務所(OHR)なのか、あるいは治安を維持するEUの部隊である欧州連合部隊アルテア(EUFOR Althea)が実質的な入国審査をしているのかも知れませんが、よく分かりません。いずれにせよ、この国の複雑さを物語っているような気がします。

正式国名はボスニア・ヘルツェゴビナ、面積は5万1126k㎡で北海道の約5分の3。人口は379万人、首都はサラエヴォ。
民族構成はボシャニク人54%、セルビア人32.5%、クロアチア人11.5%、その他2%。
宗教はイスラム教、セルビア正教、ローマン・カトリック。言語はボスニア語、セルビア語、クロアチア語。
通貨はマルカ(KM)で、1㎞=約68円。モスタルではユーロが通用するが、サラエヴォではマルカしか通用しない。

最初の訪問地はモスタルで、近郊の風景。
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泊りは”MOGORJELO”。
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ホテルの窓から見た景色、モスタルの中央を流れるネレトヴァ川が見えます。
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夕食のビール。あれ、料理の写真がないや。
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観光8日目のスタートはモスタル近郊のクラヴィツェの滝から。森の中を分け入っていくと、ゴォーっという音が聞こえてきます。
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高さは25mほどですが、幅が広く迫力があります。
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メジュゴリエはカトリックの聖地の一つです。1981年6月24日日曜日に6人の子どもがマリアを目撃した事からこの寒村が一躍有名になりました。
とにかく大変な人出で、欧州を始め全世界から巡礼者が集まるようです。
マリア様はこういう恰好で現れたという。
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こんな立派な教会が建てられました。
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涙を流しているキリスト像、人々は代わる代わる銅像の足に触っていました。
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参道の商店です。早く言えば仲見世ですね。
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子供たちがマリアに出会ったなんて話、信じますかね。ウソでしょ。
キリスト教の事はよく知りませんが、イエスは復活しますがマリアも復活したんでしょうか、分からない。
マリアが子供たちに話しかけたのは、この地域だからクロアチア語だったのかな。マリアはクロアチア語が話せるんでしょうか、分からない。
キリスト像の涙にしても、雨に当たって材料の一部が溶けだしたんだと思いますが。
以前イスラエル旅行記でこの手の事を書いたら、お叱りを受けたので止めておきましょう。

モスタルに到着、バスはこの教会の下あたりに駐車し、これから先は徒歩。
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この辺りからモスタルの旧市街が始まります。
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モスタルというのは「橋の守り人」の意味で、ネレトヴァ川に架かる石橋・スタリモストが中心となってこの街は発展してきました。オスマン朝時代の1566年に架橋。橋台を使わず両岸からのアーチ状にかかる橋は見た目の美しと共に、この時代の建築技術の高さを示すものです。
しかしボスニア紛争中の1993年にこの橋は破壊されてしまい。ユネスコの協力で2004年に復元されました。だからボスニア復興の象徴とも言えます。
橋の上は人で溢れ、渋滞してました。
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橋の上から見たネレトヴァ川の風景
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この橋の上から川へ飛び込む若者がいました。男の勇気を見せるんだそうで、見物人からヤンヤの喝采を浴びてました。
こういうのは阪神ファンだけじゃないんですね。
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画像中央のカラジョズ・ベコヴァ・ジャミーヤは1557年に建てられた寺院で、ヘルツェゴビナを代表するイスラム建築です。
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コスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤは、1618年に建てられたイスラム寺院です。
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ここで昼食、レストランは川の傍にありました。
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メインは、ウーン、思い出せない。
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橋の東側はムスリムの地域です。
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トルコ人の家は17世紀に建てられたオスマン朝時代の伝統建築。
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2階には当時の調度品が展示されています。
バスの駐車場の近くにあった建物でコンクリート部分だけが残されていましたが、銃撃の跡かと思われます。
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これでモスタルとお別れで、次は首都サラエヴォに向かいます。
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by kanekatu | 2014-06-28 07:21 | ボスニア・ヘルツェゴビナ | Comments(3)

西バルカン6ヶ国周遊記13(ボスニア紛争・考)

ボスニア・ヘルツェゴビナの地図は下記の通り。大まかにいうと北部をボスニア地方、南部をヘルツェゴビナ地方とよび、この両者が合わさって国名となっています。
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ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側2辺をクロアチア、南側1辺をセルビア、モンテネグロと接しています。
国旗は下記の通りで明らかにEU指向です。
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この国の現状はもう少し複雑です。
いわゆるボスニア紛争は、1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し終結しました。
デイトン合意の定めにより、クロアチア人およびボシュニャク人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が主体のスルプスカ共和国という二つの構成体によって構成される事になりました。両者が権利を主張して合意に至らなかったブルチコについては、2000年の裁定によって独自の行政区「ブルチコ行政区」として、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の直轄地とされました。
このようにボスニア・ヘルツェゴビナという国は三つの構成体から成っています。
下の地図はその構成体を示しますが、それぞれボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(青)、スルプスカ共和国(赤)とブルチコ行政区(緑)で表示しています。
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それではボスニア紛争について簡単に振りかえってみましょう。
その前に少し歴史をさかのぼると、バルカン半島の国々は中世以来オスマン朝の支配下にありましたが、これに抵抗してボスニア・ヘルツェゴビナの住民が蜂起し、やがてこれが露土戦争へと発展します。オスマン朝の敗北とともに自治権を獲得しますが、オーストリア=ハンガリー帝国の軍事占領下に置かれてしまいます。こうした中でスラブの統一を目指す青年ボスニア党が結成されます。
1914年、青年ボスニア党のメンバーの一人が、サラエボを訪問中だたオーストリア皇太子夫妻を暗殺し、これが引き金になって第一次世界大戦が勃発します。大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国に組み入れられますが、1941年のドイツの傀儡国家クロアチア王国が出来ると今度はそちらへ組み込まれます。
1945年ドイツから解放されるとユーゴスラヴィア連邦共和国が結成され、ボスニア・ヘルツェゴビナもその一国となります。

1990年に一党独裁が放棄され多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになります。1991年から旧ユーゴ各国が次々と独立し独立戦争や民族紛争が始ると、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備し始めます。
正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちはユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望みます。

1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立します。多数者のボシュニャク人の指導者たちは、自分たちが実質的にボスニア・ヘルツェゴビナを支配できると考えていました。これに対してセルビア人やクロアチア人はボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗します。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、それぞれ独自の議会を持ち、武装を進めてゆきます。

ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、やがて「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言します。
独立に伴い1992年5月にユーゴスラビア人民軍が撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となりました。
またヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、軍事組織としてクロアチア防衛評議会を設立します。

2つの民族ごとの分離主義国家とボシュニャク人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈してゆきます。その結果それぞれの民族から異民族を排除する目的で虐殺や暴行といった民族浄化が繰り広げられました。
1994年にはアメリカの主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立しますが、これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、これに対抗したセルビア人側の勢力に対しNATOによる空爆などの軍事介入も行われました。
1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結しました。

合意により、クロアチア人・ボシュニャク人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国というそれぞれ独立性を持つ国家体制を形成し、この二つが国内で並立する国家連合として外形上は一国と成しています。
領土配分は、スルプスカ共和国が約49%、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が約51%とされ、両国はそれぞれの主体が独自の警察や軍を有します。

およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、難民・避難民200万人が発生したほかレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となりました。

ざっくり言ってしまえば、ユーゴスラヴィアから独立しようとしたボシュニャク人とクロアチア人に対し、これに反対したセルビア人とが戦い、当初はユーゴスラヴィアから支援を受けてセルビア側が優勢だったが、アメリカとNATOの支援を受けたボシュニャク人とクロアチア人側が勝利し独立が維持されたという事になります。
この紛争では自分たちの「正義」をいかに国際世論に訴え正当化するかという情報戦が、紛争の帰趨を決定づけたという見方があります。国際的なPR企業の存在で、時には写真が捏造され加害者と被害者を逆転して宣伝する事まで行われました。
いまわが国でも問題となっている「集団安全保障」が往々にして「悪いヤツを皆で懲らしめる」手段として使われてきましたが、その「悪いヤツ」が世論操作によって作り上げられる事もあるわけです。
こうした「戦争広告代理店」の暗躍には、これからも十分注意してゆかねばならないでしょう。

旅行記からだいぶ外れてしまったようですが、ボスニア・ヘルツェゴビナを訪問したのを機会に改めてあの時の紛争を振りかえってみました。
長くなってしまったので、本論の旅行記は次回に回します。
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by kanekatu | 2014-06-27 07:16 | ボスニア・ヘルツェゴビナ | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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