人気ブログランキング |

世界の絶景SELECT「文化遺産・建物」

ノイシュバンシュタイン城(ドイツ)

ドイツ観光で最も人気が高いのはロマンチック街道ですが、その終点に位置するのがバイエルン王ルートヴィヒ2世により建設された「ノイシュバンシュタイン城」です。
ルートヴィヒ2世が「私自身の作品」として建てただけあって、城全体が大きな美術作品ととらえることができます。城としての実用性は無いものの、その姿の美しさは例えようがありません。
この城は1869年に建設が開始され、1886年にルートヴィヒ2世はこの城に住みますが、わずかに102日間で別の場所に軟禁され、謎の死をとげます。そう思って見ると、どこか悲しさを漂わせているかのようにも見えます。
c0051938_10155178.jpg


姫路城(日本)

最初の築城は14あるいは16世紀ごろと推定されていますが、池田輝政によって1609年に現在の形の城が完成しています。
その後は、徳川四天王の一人で勇将といわれた本多忠政が入城します。
当時、西国には秀吉恩顧の大名が大勢いて、かれらが連携して大阪や京都にのぼることを阻止するには、この姫路城がとても大事な役割を持っていました。
だから徳川家として最も信頼のおける大名を配し、頑健な城郭を築いたわけです。
姫路城は機能美と様式美が見事に融合した建築物だということです。
姫路城は大天守と三つの小天守、それらを結ぶ渡櫓によって構成される連立式天守閣の構造を持っています。
築城当時の姿がそのまま残されているという点も特長で、太平洋戦争当時は城をすっぽりと覆って、米軍の爆撃から守ったという市民の力が与っています。
我が国で初めて世界遺産に登録されたのも、こうした理由があったからです。
c0051938_10172506.jpg


シェーンブルン宮殿(オーストリア)

オーストリアの首都ウィーンにあるシェーンブルン宮殿は、ハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジアによって18世紀に建造されたもので、最も優美な宮殿建築の傑作といえましょう。
宮殿の部屋数が1441室というのは、ベッドの上で帝国を築いたハプスブルグの象徴でもあります。
敷地内に世界最初の動物園や植物園が造られ、今は最上階が一般市民のアパートメントとして利用されていたり、ウィーンという都市の大らかさが伝わってきます。
c0051938_10183435.jpg


ブルーモスク(トルコ)

正式名称は「スルターンアフメット‐モスク」。かつてのビザンツ帝国の首都であり、15世紀からはオスマン帝国の首都として栄えたイスタンブールにあります。
17世紀初め、オスマン帝国のスルターン、アフメット1世により建造されたもので、高さ43メートル、直径27.5メートルの巨大なドームを中心に、大小34のドームをもち、周囲に6本の尖塔が立っています。内部がイズニク陶器の青いタイルで装飾されていることから、ブルーモスクと呼ばれています。
これ程美しいフォームのモスクは他に例が見当たらないほどで、宗教寺院の建築物の傑作です。
c0051938_10195730.jpg


イマームモスク(イラン)

かつて「世界の半分」と称してその繁栄を謳歌していたイランのイスファファンにあるイマーム広場、その中心にあるのがイマームモスクです。
青を基調とした正面部分のイーワーン(三方を壁で囲まれた門のような形をしたホール)や、二重構造のドームをもつ中央礼拝堂には鍾乳石(しょうにゅうせき)を模した精緻な装飾が施されています。イランにおけるイスラム建築の傑作として知られています。
イマーム広場に佇んでいると、確かに世界の半分かも知れないなと思わせられます。17世紀の建築ですが、モスク全体を覆う気の遠くなるような数のタイルの技術は、世界最高レベルといえるでしょう。
c0051938_10204776.jpg


黄金ドーム(イスラエル/パレスチナ)

エルサレムという都市は、ユダヤ教にとってはユダ王国の首都であった場所であり、その中心であるエルサレム神殿が置かれていた場所です。しかし西暦70年にローマ帝国により破壊され、今では外壁の一部が残されているだけです。これが嘆きの壁です。
キリスト教にとっては、エルサレムはイエス・キリストが処刑され、埋葬され、復活した場所として、今でも多くの教会が建っています。
イスラム教にとっては、コーランによればムハンマドが神の意志によりメッカのカアバ神殿から、一夜のうちにエルサレム神殿まで旅をしたことになっています。つまりムハンマドはこの神殿の岩から天馬に乗って昇天し、神の御前に至ったというわけです。現在、ムハンマドが昇天したとされる場所にはウマイヤ朝の時代に岩のドームが築かれ、イスラムの聖地となっています。
エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって、それぞれの聖地であり、黄金ドームはその象徴的存在と言えるでしょう。
c0051938_10215500.jpg


サグラダ・ファミリア(スペイン)

「聖家族教会」の名でも親しまれています。
スペインのバルセロナはアントニ・ガウディの街でもあります。市内には7つものガウディの建築物がありますが、その中で最も有名なのが「サグラダ・ファミリア贖罪聖堂」です。ガウディの代表作と思われていますが、実はガウディ自身は1926年に亡くなっていて、彼の設計資料や製作した模型もほとんど残されていません。だから現在はガウディの思想(意志)を汲む形で、多くの建築家や彫刻家、職人がその作業を受け継いでいます。
この写真は20年以上前に撮影したもので、現在はかなり形が変わってきていると思います。教会建築としては相当に異色で、最終的にはどんな形になるのか楽しみです。
当初は完成までに300年かかると言われていましたが、今のところの完成予定が2026年だそうです。
c0051938_10225042.jpg


エルミタージュ(ロシア)

ロシアで最も美しい街、サンクト・ペテルブルグにある「エルミタージュ美術館」は世界屈指のミュージアムとして知られていますが、元々はロシア皇帝の「冬の宮殿」でした。宮殿は緑と白の石材を用いた美しいロココ建築で、街の中心部を流れるネヴァ川の辺に建っています。
北のヴェネツィアと称されるサンクト・ペテルブルグには多くの歴史的建築物がありますが、その中でもエルミタージュはその優美さが際立っています。
ロシア革命の後は、エルミタージュ美術館として市民に開放されました。
現在は周辺地域とともに世界遺産に登録されています。
c0051938_10235123.jpg


フラウエン聖母教会(ドイツ)

ドレスデン爆撃は、第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて、連合国空軍によって行われたドレスデンへの無差別爆撃を指します。
4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下され、この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊されました。
死者は2万5000人とも15万人とも言われています。
当時、戦争の帰趨はほぼ決着しており、この爆撃は戦略的に意味のない空襲でした。むしろドイツ軍の攻撃に対する報復だったと思われます。
戦後、ドレスデン市民はその瓦礫の一つ一つを拾い集め、街を元の形に復元しました。
フラウエン(聖母教会)はその象徴的存在で、2005年の完成です。
c0051938_10250724.jpg


シュテファン大聖堂(オーストリア)

シュテファン大聖堂は、オーストリアの首都ウィーンにあるゴシック様式の大聖堂です。ウィーンのランドマークであり、大聖堂を含むリングと呼ばれるウィーン歴史地区は2001年にユネスコの世界遺産に登録されました。
ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとコンスタンツェ・ウェーバーの結婚式が行われ、また葬儀が行われた聖堂としても知られています。
天に向かってそそり立つ高さ137mの南塔は、世界3番目の高さで、塔頂に上るとウイーンの街が一望できます。
c0051938_10255407.jpg


グリ・アミール廟(ウズベキスタン)

ティムール帝国は、14世紀から16世紀にかけ、中央アジアから西アジアにまたがって栄えた大帝国でした。1369年、ティムールによって建国。首都のサマルカンドを中心にイスラム文明が栄えました。
ティムールが明国遠征の途上で1405年に急死してしまい、彼の息子や孫たちと一緒にこのグリ・アミール廟の中に眠っています。
グリ・アミール廟は、青の都と謳われているサマルカンドの中でも、美しさと壮大さがひときわ目立つ建造物です。
c0051938_10264949.jpg


# by kanekatu | 2019-04-12 10:30 | 世界の絶景 | Comments(0)

「稲取銀水荘」宿泊と伊豆・三島の桜(2019/4/1-2)

4月1日から1泊2日間で、「稲取銀水荘」宿泊に、伊豆高原と三島神社の花見に行きました。のんびり団体ツアーで、1日目は列車で伊豆稲取に着き、そのまま「稲取銀水荘」に投宿。早めに着いたのでチェックインの14時までロビーで待機。稲取では最高級旅館とされているだけに、施設は手がこんでいます。
入口で、ここは全室オーシャンビューです。
c0051938_11474540.jpg
玄関ロビー。
c0051938_11482506.jpg
ロビーの一角に雛人形が飾られていて、吊るし雛という珍しい飾りつけです。この下には池があり錦鯉が泳いでいました。
c0051938_11492820.jpg
ようやくチェックイン、部屋番号が書いた紙が渡され、各自で部屋へ。案内は一切なし。エレベーターを降りてウロウロしていたら、従業員が「真っすに行って右へ回って下さい」。
廊下の途中にはこういう小さな中庭があります。
c0051938_11502214.jpg
部屋は11畳の和室で広縁つき。
c0051938_11513080.jpg
眼前に伊豆東海岸が拡がり、さすが眺めは最高です。
c0051938_11515662.jpg
夕暮れの風景。
c0051938_11531077.jpg
大浴場は2階にあり、脱衣場も湯船も広々としていました。特に露店風呂は海に面しているので開放感を味わえます。
欠点はカランの給湯時間が短いことで、1回に30秒ほどで切れてしまいます。節水のためでしょうが、とても不便でした。
バスタオルが用意されていましたが、午前7時から午後7時までの間だけなので中途半端な感があります。

夕食は8階の会場ですが、テーブルを連結させて、家族が差し向いに座るスタイルです。団体でも旅館によっては家族単位で席を用意するケースもありますので、高級旅館にしてはどうなのかなと思いました。
献立は鮪と鯛の刺身、金目鯛の煮つけ、鮑とつぶ貝の蒸し焼きなど海鮮料理が主体でしたが、みな少量で食べ堪えはありません。
c0051938_11540436.jpg
c0051938_11543821.jpg
味付けは良かったですが、ご飯が雑炊、スイーツは杏仁豆腐とは、些か手抜きでは。
あるいは団体専用のメニューかも知れませんが、やや期待外れでした。

朝食は和洋ビュッフェスタイルでしたが、品数が多く充実していました。

「稲取銀水荘」を5段階で採点すると、次の様になります。
部屋 5
浴場 4
夕食 3
朝食 5
接遇 2
総合的にはハード面は良かったですが、ソフト面では不満といった所です。
旅行のサイトではかなりの高評価になっていますが、高級旅館としては物足りないというのが感想です。

2日目は10時にチェックアウトし、ここからは観光バスでの移動です。
最初の観光は「伊豆高原」の桜並木で、約4㎞にわたって桜のトンネルが出来ています。
c0051938_11571023.jpg
ソメイヨシノはほぼ満開でした。
c0051938_11573061.jpg

その後「川奈ホテル」に移動し、ここでフランス料理のランチです。
前菜は、タコのマリネのサラダ。
c0051938_11575644.jpg
メインは、金目鯛。
c0051938_11585304.jpg
スイーツは、プリンとケーキ。
c0051938_11594995.jpg
料理の中身といい、味付けといい、従業員のマナーといい、言う事なしです。さすが、名門ホテルは違います。

午後の観光は、伊豆国一ノ宮・伊豆国総社である「三島大社」。源頼朝が源氏再興を祈願した神社として知られ、“日本総鎮守”と仰がれていた時代もあったそうです。
本殿は、1854年に起きた東海大地震によって倒壊し、その後再建されました。国の重文に指定されています。
c0051938_12003016.jpg
こちらも桜の名所として有名で、境内には沢山の桜が咲いていました。
c0051938_12012086.jpg
c0051938_12014114.jpg
桜の花だけ見るのなら近所の公園で十分ですが、桜にしろ紅葉にしろ大事なのは背景です。この様に背景に池があると、一段と映えます。

復路は、熱海から列車で帰京。

今回の小旅行、花見のベストシーズンに加えて好天にも恵まれ、とても楽しい旅となりました。


# by kanekatu | 2019-04-04 12:06 | 伊豆・箱根 | Comments(2)

世界の絶景SELECT「文化遺産・遺跡」ヨーロッパ・南米編

世界の絶景SELECT「文化遺産・遺跡」ヨーロッパ・南米編


マチュピチュ(ペルー)

ペルーのマチュピチュの最大の魅力は、ロケーションです。標高2400mの位置にあり、山道を登っていくと急に視野がひらけ、忽然と空中都市が現れる、このサプライズが観光客の目に焼きつくのです。後方の山も効果的ですね。
最近の研究からマチュピチュは、15世紀の第9代インカ皇帝の築き上げた王直轄の都市であることが分かりました。ただなぜここの場所に街を造ったのか、なぜ滅亡してしまったのか、未だ解明がされていません。
c0051938_11510110.jpg

ナスカの地上絵(ペルー)

ペルー南部のナスカ平原と呼ばれ砂漠に、1~6世紀に古代ナスカ人が描いたという巨大な地上絵が残されています。その数は数百にのぼりますが、何といっても不思議なのはこの絵が上空からしか見えないことです。だから飛行機が発明されるまで、誰もこの絵に気付かなかった。
遺跡としては、地面に30センチほどの幅で浅い溝を掘っただけの絵で、それだけでは何の変哲もありません。
また、遺跡として認識されていなかった頃の車両が上を走った形跡もあり、保存状態には心配な面もあります。
軽飛行機でひどい酔いと戦いながら見る地上絵は、見れば見るほど不思議な気持ちになります。
c0051938_11514105.jpg

メテオラの修道院(ギリシャ)

メテオラはギリシャ中部にあり、平原の中に高さが600mにおよぶ岩山が立ち並んでいます。
その頂上に修道院が建てられていて、現在も6カ所の修道院に50人を超す修道士・修道女が暮らしています。
修道院ができたのは14世紀で、オスマントルコの迫害から逃れ、ギリシャ正教を守り抜こうとしたためです。縄はしごを使って上り下りし、必要な食糧や資材はロープであげるしか方法がない生活。敵の攻撃から身を守り、修行に専念するに相応しい場所だったのです。
国民の97%がギリシャ正教の信者であり、日常生活のあらゆる場面に正教が浸透しているギリシャの中で、メテオラはその信仰の中心地です。
同時にギリシャを訪れる人にとっては、ギリシャ観光の目玉でもあります。
c0051938_11523426.jpg

アテネのパルテノン(ギリシャ)

パルテノン神殿、第一印象は建物に風格というか、品があります。紀元前に創建された当時は、内部には高さ12mのアテナ神の像が安置され、壁面には数多くのレリーフや彫刻像で飾られていたのですが、現在残されているのは、いうなればスケルトンだけです。それでも大理石から作られた46本の巨大な列柱から成る建物は十分に美しい。
ドリア式の柱は中間で膨らんでいて、上部は細くなっています。そして完全な垂直ではなく、少し内側に傾いて立てられています。
ただレバノンのバールベックのバッカス神殿に比べると、スケールの小ささは否めません。
c0051938_11532703.jpg


ポンペイ(イタリア)

文化遺産の多いイタリアですが、一つ選ぶとすればポンペイ遺跡となるでしょう。
紀元前から繁栄していた古代都市ポンペイは、今から約1900年前の79年、ベズビオ火山の噴火で灰の下に埋もれ、突如として姿を消した悲劇の都市です。噴火による埋没後、1748年に再発見され発掘が行われました。
掘り起こされた遺跡からは、住居や壁画、落書きなども発掘され、当時の人々の日常生活を鮮明に知ることができます。また石膏によって復元された遺体からは、噴火直後の慌ただしい様子が分かります。
これだけ生々しい姿を示している遺跡は極めて稀です。
c0051938_11542065.jpg

アウシュヴィッツ(ポーランド)

私たちが普段耳にするアウシュヴィッツですが、次のように分かれています。
アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)
アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ
アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツ
アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部
モノヴィッツは連合軍による爆撃や爆破のため今は何も残っていません。
そのため「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」というのが一般的な名称とされています。
いずれもナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により生まれた強制収容所であり、ホロコーストの拠点として絶滅収容所とも呼ばれています。
ユネスコは二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて「負の世界遺産」に認定しました。
現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開しています。

c0051938_11545479.jpg

ドブロヴニク(クロアチア)

ドブロヴニクの町が誕生したのは7世紀とされ、当時の名前ラグーサ共和国は交易によって繁栄していました。13世紀にはヴェネツィア共和国により実効支配されますが、14世紀にハンガリー帝国の支配に移管されると又自治を回復します。
しかしラグーサ共和国が壊滅的な打撃を受けるのは戦争ではなく、1667年に起きた大地震で、この時町の殆んどが崩壊します。
その後一度復旧しますが、今度はナポレオンによって降伏させられ、ラグーサ共和国は完全に消滅してゆきます。
20世紀に入ってからは旧ユーゴスラヴィアで起きた内戦により街は破壊されますが、今は完全な形に修復されています。
幾多の戦歴や地震に耐えて、アドリア海の真珠と呼ばれるドブロヴニクの町は、今日その姿を私たちの前に見せています。
c0051938_11553802.jpg


アルハンブラ宮殿(スペイン)

スペインを代表する文化遺産といえば、グラナダの丘の上にたつアルハンブラ宮殿でしょう。この宮殿の建設は、イスラム教徒の各都市がキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)によって陥落した後にムハンマド1世がナスル朝を開国し、1238年にグラナダに都を置いたことに始まります。
アルハンブラ宮殿の意味は「赤い城」で、歴代の王により建設は受け継がれました。内部は宮殿をはじめモスク、市場、軍事要塞などが整備された城塞都市を形成しています。
グラナダが陥落し、イスラム教からキリスト教に支配が移った後もほとんど破壊されず、キリスト教徒の王たちによって改築や増築が続けられました。そのため、アラブ様式だけでなく、中世イタリアのルネッサンス様式などが混在している珍しい宮殿建築です。
写真は観光用HPより引用。
c0051938_11562126.jpg


モスタル(ボスニア・ヘルツェゴビナ)

モスタルというのは「橋の守り人」の意味で、ネレトヴァ川に架かる石橋・スタリモストが中心となってこの街は発展してきました。オスマン朝時代の1566年に架橋。橋台を使わず両岸からのアーチ状にかかる橋は見た目の美しと共に、この時代の建築技術の高さを示すものです。
しかしボスニア紛争中の1993年にこの橋は破壊されてしまい、ユネスコの協力で2004年に復元されました。だからボスニア復興の象徴とも言えます。
c0051938_11570032.jpg


テオティワカン(メキシコ)

2001年1月1日早朝、つまり21世紀の最初の日の出を、メキシコの太陽のピラミッドの頂上で迎えました。
マヤ文明は、紀元前後から16世紀頃まで,メキシコ,グアテマラ,ホンジュラスなどに展開した文明です。3世紀には一種の宗教的都市が形成され、巨大なピラミッド形の大神殿や祭礼場,裁判所,市場などが建造されました。
800年頃に頂点に達した後、文化の中心はユカタン半島に移って,950~1000年頃にはチチェン・イツァを中心とするメキシコの影響を受けた文化が発展しますが、15世紀には衰退してしまいます。
かつては20万人もの人口を擁した世界最大の宗教都市遺跡「テオティワカン」には、高さ64mで世界で3番目の大きさを誇る「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」があり、遺跡の中心に真っ直ぐのびる「死者の大通り」が今も残っています。
古代の人々が広大な敷地に区画整理された古代都市を築いていたことがはっきり分かる遺跡としても有名です。
但し、他の文化遺産と比べると修復が荒っぽく、どこまでオリジナルに近いのかが疑問です。
c0051938_11580006.jpg


カッパドキア(トルコ)

トルコ中央部に広がるカッパドキアでは、度重なる火山の噴火と長い間の風雨の浸食で出来た奇岩群が不思議な光景を作り出しています。ラクダやキノコの形をした岩をいたるところで見ることができます。
カッパドキアには地上の奇岩の他に地下空間があります。
ギョレメ野外博物館には迫害から逃れてきたキリスト教徒の作った洞窟教会が残り、内部では美しいフレスコ画を見ることができます。
この他、カッパドキアにはいくつかの地下都市が迷路のように広がっています。井戸やキッチン、礼拝堂、学校の教室だった場所などが残されています。
写真は観光用HPより引用。
c0051938_11591770.jpg

【お断り】
「世界の絶景SELECT」まだ続きますが、暇をみつけての断続的な掲載になりますので、ご了承ください。


# by kanekatu | 2019-03-04 12:00 | 世界の絶景 | Comments(0)

世界の絶景SELECT「文化遺産・遺跡」アジア編

世界の絶景SELECT「文化遺産・遺跡」アジア編

京都・奈良の寺社(日本)

文化遺産で世界一といえば、これは文句なく京都・奈良の社寺です。
例えば京都なら東寺、清水寺、三十三間堂、南禅寺、醍醐寺、下鴨神社、上加茂神社など、奈良なら東大寺、法隆寺など、いずれをとってもその一つ一つが世界遺産になるような建築物で、それが集積して存在しているのですから、これに勝る文化遺産など、世界のどこにも無いでしょう。
建物だけではありません。それぞれの寺院に置かれている仏像や絵画、あるいは庭園がまた実に見事で、仏教芸術として世界最高水準をいくものです。
更にそれぞれの施設において、建物が四季おりおりで全く違う表情を見せるのも、日本建築の素晴らしさです。
私は京都・奈良合わせて数十回観光していますが、ようやく主な寺社をひとわたりしたという情況です。
木と紙と布から成る建物を、数百年、千年という単位で長期にわたり守ってきた京都町衆の努力には、ただただ頭が下がります。
c0051938_18414491.jpg

アンコール(カンボジア)

カンボジアのアンコール遺跡は、アジアで最大規模の遺跡です。全てを観ようとすれば3日かかります。それほど大きい。
カンボジア・クメール王朝の首都として栄えたころの建造物ですから、12世紀に建てられたものです。ただ、収められていた仏像の大半が壊されたり持ち去られたりしていて、残っていないのが残念です。
また劣化が進んでいるので、希望される方は早く行かれることをお勧めします。
写真は観光用HPより引用。
c0051938_18435114.jpg


万里の長城(中国)

中国の現地ガイドを前にして毛沢東批判をしたら、ガイドが固まってしまいました。今でも毛沢東はタブーな様です。
人工衛星からも見える世界で唯一の建造物である中国の万里の長城。紀元前3世紀の秦の時代に造られ、その後幾多の増改築を重ねたもので、全長は5万キロというから地球一周より長い。但し、風化が進んでいて観光出きるのはごく一部です。
人間の凄さと愚かさを併せ持ったような巨大な遺跡、やはり一度は見る価値十分です。
写真は観光用HPより引用。
c0051938_18462304.jpg


パガンのパゴダ群(ミャンマー)

ミャンマーを訪れたのは民主化以前でした。各国の観光ガイドというのは自国の良さをPRする立場もあるのでしょう、政府批判はしないものです。しかしこの時のミャンマーのガイドは、かなり激しい軍事政権批判をしていたのが印象的でした。
仏教国ミャンマーはどこに行っても荘厳なパゴダ(仏塔)が見られますが、中でも11世紀ごろ栄えたパガン王朝の都であったパガンの2000基を越えるパゴダ群は、実に壮観です。
ランドマークであるシュエサンドーパゴダの最上層から見る夕日に映えたパゴダは、夢のような姿です。
国の事情から世界遺産になっていませんが、アジア屈指の遺跡と言えるでしょう。
c0051938_18472502.jpg

スコタイ(タイ)

タイ人の祖先は、中国の泰族の人々が南下してきた人たちで、10-14世紀にかけて北部を中心にクメール帝国(アンコール朝)の一部にのみ込まれてしまいます。
1238年にスコタイ王朝が誕生しますが、第三代王ラームカムヘンの時代に最も繁栄します。
タイ文字が作られたのもこの時代で、正にスコタイ(幸福の夜明けの意味)の時代を迎えますが、その後アユタヤに併合され、王朝の幕を閉じます。
現在スコタイ王朝時代の城壁の内側を中心として、多くの遺跡が残され、世界遺産に登録されています。
スコタイの寺院は、プラーンとよばれるクメール様式の塔堂、チェディとよばれる円錐形の仏塔、そして仏像が置かれています。
スコタイの仏像は、頭部が長く、面長で鼻筋が通り、目がつり上がっているのが特徴です。流れるような身体の線も特徴で、歩く姿の歩行仏像もスコタイの時代にしか見られません。
c0051938_18491213.jpg

敦煌の莫高窟(中国)

莫高窟は敦煌市の近郊にある仏教遺跡です。鳴沙山の東の断崖に、南北1600mに渡って掘られた700あまりの洞窟があり、その中に約2400の仏塑像が安置されています。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は4500㎡にもなります。紀元前336年に楽和尚により創建されたとされ、その後、元朝までの約1000年間にわたり造り続けられました。建築、彫塑、壁画の保存状態や芸術性の高さには目を見張るものがあり、世界遺産に登録されています。現存する洞窟数は492ですが、その内常時公開されているのは40あまり。他に別料金が必要な特別窟があります。
なかでも脇侍菩薩図はあまりに有名で、中央は観音菩薩で、周囲に菩薩や釈迦の弟子が並んでいます。
c0051938_18502269.jpg


西安の兵馬俑(中国)

秦の始皇帝は中国史初の皇帝で、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた。これが秦始皇帝陵です。
「兵馬俑(へいばよう)」は秦始皇帝陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万㎡、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、兵士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあります。
特長としては、
・兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない
・秦の軍隊が様々な民族の混成部隊であった
・秦の敵国が存在した東方を向いて置かれていた
等が挙げられます。
兵馬俑はいずれも焼成されたもので、このためこの地に起きた洪水や火災から守られたと思われます。
c0051938_18513766.jpg

シーギリア(スリランカ)

スリランカを代表する遺跡は、シーギリアです。
ジャングルの中に突然大きな岩山が出現します。シーギリアロックです。
1500年前にこの岩山の頂上に宮殿が建てられ、そして岩肌に美女を描いた500もの壁画が描かれていました。
その後約1400年間にわたりこの遺跡は完全に忘れ去られていましたが、イギリス人により偶然に発見されました。
風化のため大半の壁画が消えてしまい、今では18の壁画だけ色鮮やかに残っています。
1500年の時を超えて出会った美女は、実に美しい。
c0051938_18524001.jpg


アジャンタ(インド)

「アジャンタ石窟」は、デカン高原西北部・サフヤドリ連丘の谷間を馬蹄形に湾曲して流れるワーグラー渓谷沿いに、幅600mにわたって断崖を穿って建造されたインド最古の仏教石窟群です。この遺跡の特長は内部に描かれた壁画で、インドでは古代から壁画技術が発達していましたが、高温多湿という気象条件から残っているものは皆無に近い。例外のはここアジャンタ石窟で、乾燥地帯という風土がその理由です。
石窟寺院は大きく二つに分かれ、一つは紀元前1世紀頃の前期窟で上座部(小乗)仏教期のもの、もう一つは紀元5世紀頃の後期窟で大乗仏教期のものです。
とりわけ蓮華手菩薩の壁画は傑作とされ、法隆寺金堂内陣の装飾に見られる菩薩像のオリジナルとして知られています。
c0051938_18542694.jpg

エローラ(インド)

「エローラ石窟群」は、オーランガバードの西北30㎞にあるエローラにある岩を掘って作られた石窟寺院群です。
34の石窟が、シャラナドリ台地の垂直な崖に掘られており、5世紀から10世紀の間に造られた仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟寺院や修道院(僧院、僧坊)などから構成されています。仏教寺院(仏教窟)の数は第1窟から第12窟、ヒンドゥー教寺院(ヒンドゥー教窟)は第13窟から第29窟までの17窟、ジャイナ教の寺院(ジャイナ教窟)は第30窟から第34窟までの5窟となっています。それぞれ石窟は近接している上に作られた時期も重なっています。
それぞれ100年以上かけて人力だけで造ったもので、巨大岩盤に綿々と掘り下げた人間の叡智と努力の結晶と言えましょう。
c0051938_18554112.jpg


タージ・マハル(インド)

インドを代表する文化遺産といえば、北部アグラにある「タージ・マハル」でしょう。
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハルの死(1630年)を悼んで建設した霊廟で、2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造させたといわれています。
全体を大理石で造り、その中に28種類もの宝石を埋め込んであります。
計3回ここを訪れていますが、見れば見るほどその魅力が伝わってきます。
c0051938_18565945.jpg


ヒヴァのイチャンカラ(ウズベキスタン)

ヒヴァはウズベキスタンの砂漠の中にあり、肥沃なデルタ地帯だったのでBC3000年頃には農業が営まれていました。
8世紀にはシルクロードの中継点となり、町が形成されていました。
16世紀に入って、ウズベク人がヒヴァ・ハーン朝を建国し、シルクロードの中継点となっていたこの地を首都としました。
17世紀以後はホレズム地方随一のイスラムの聖都となり、外敵の侵入を防ぐため、二重の城壁に囲まれた町を形成しました。
この内壁は高さ8m、厚さ6m、周囲が2200mに及び、内側をイチャンカラと称しています。
これ以後ヒヴァは、中央アジアの真珠と称えられるようになります。
イチャンカラは全体が博物都市として、ユネスコ世界遺産に登録されています。
c0051938_18582535.jpg

メルブ(トルクメニスタン)

「中央アジアの北朝鮮」というあまり有り難くない綽名で呼ばれるトルクメニスタン、街中にニヤゾフ元大統領の大きな肖像画が掲げられ、銅像の周囲は兵士が警護し、首都アシュガバートのランドマークであるタワーのてっぺんには金色の銅像がクルクルと回っています。ニヤゾフさんがメロン好きだから「メロン記念日」は国民の祝日という徹底ぶり。反面、公共料金はほとんど無料だそうで、高福祉国家でもあります。
メルブはペルシャと中央アジアの中継点として栄え、BC6世紀ごろには既に都市が築かれていました。
その後、数々の王朝の興亡の舞台となり、12世紀にセルジュク朝の首都として最盛期を迎えますが、1221年モンゴル軍の来襲により完全に破壊されてしまいます。
大キズ・カラは、6-7世紀のササン朝ペルシャ時代の豪族の住居跡と考えられています。奴隷の娘たちをここに侍らせていたことから、「乙女の城」(キズ・カラ)と呼ばれるようになりました。
c0051938_19010692.jpg

ボロブドゥール(インドネシア)

ボロブドゥール遺跡は大乗仏教王国のシャイレンドラ王朝により、780-830年の間の約50年間で建設されたものと推定されています。
しかしこの建造物の目的が何なのか、寺院なのか王墓なのか王朝の廟なのか、未だに解明されていません。
ボロブドゥール遺跡はピラミッドのような形をしており、最底部の正方形の一片が123m、高さが34.5mの及ぶ巨大な建造物です。
1個が高さ23㎝に統一された安山岩ブロック200万個を、接着剤を使わずに積み上げたもので、下部方形6層と上部円形3層の合計9層より成っています。
周囲に彫られたレリーフは総延長5㎞、登場人物が1万人という壮大なもので、仏陀の生涯などの物語が精緻に描かれています。
上の円壇の中央には大ストゥーバがそびえ、その周囲を釣鐘形の小ストゥーバが72基、規則的に配置されています。
c0051938_19020409.jpg


モヘンジョ・ダロ(パキスタン)

市民レベルで日本人大好きという国は、知りうる限りではイランとパキスタンで、ちょっとしたスター気分を味わえます。
パキスタンのモヘンジョ・ダロは、数少ないインダス文明の遺跡としては最大規模のものです。
モヘンジョ・ダロは現地の言葉で「死の丘」を意味し、かつては非常に古い時代の死者が眠る墳丘として、地元民から恐れられていました。
やがて丘のてっぺんで仏教のストゥーパ(仏塔)が発見されて、一体は仏教施設だと考えられていました。
1922年、インド考古調査局員であったインド人歴史学者R・D・バナルジーの発掘調査によって、絵や文字の書かれた印鑑、像、紅玉髄などが見つかり、インダス文明の遺跡であることが分かりました。
インダス文明は紀元前2700年前から約1000年にわたり栄えたとされ、世界四大文明の一つとして数えられています。
ただ、発見された文字が少なく解読できないので実態がつかめておらず、滅亡の原因も不明です。
c0051938_19034449.jpg


# by kanekatu | 2019-03-01 19:05 | 世界の絶景 | Comments(2)

世界の絶景SELECT「文化遺産・遺跡」中東編

世界の絶景SELECT「文化遺産・遺跡」中東編

ルクソールの神殿群・王家の墓(エジプト)

生まれて初めての海外旅行がエジプトでその魅力に魅かれ、計3回同国を訪れました。
定番のルートに加え、アレキサンドリアやスエズ、今は入ることの出来ないシナイ半島まで巡ってきたので、エジプトの観光地はほぼ網羅したことになります。
文化遺産の宝庫ともいうべき中東でも、エジプトは別格の感があります。
なかでもルクソールは遺跡観光の中心であり、ナイル川の東岸西岸にある主な遺跡だけでも、
[ナイル川東岸]
・ルクソール神殿
・カルナック神殿
[ナイル川西岸]
・王家の谷
・ハトシェプスト女王葬祭殿
・メムノンの巨像
があります。
遺跡の多くはエジプト第18王朝(紀元前1570年頃-1293年頃)に造営されていますので、今からおよそ3500年前ということになります。
写真は、カルナック神殿。
c0051938_16325387.jpg

レプティス・マグナ(リビア)

リビアを訪れたのはカダフィの独裁化にありながら欧米諸国とは良好な関係を保っている時期でした。
教育や医療が充実しており、周辺のイスラム諸国がうらやむ福祉国家を目指していました。
だから、リビアが今の様な状態に陥るとは想像もしていなかった。
リビアを代表する遺跡レプティス・マグナは、世界各地に散在するローマ遺跡の中でも最高の規模を誇ります。砂に埋もれたまま忘れられたのが幸いして、他に比べとても保存状態が良いのです。
レプティスの絶頂期は、この町の出身者セプティミウス・セウェルスがアフリカ出身で初のローマ皇帝となった193年で、そのためにこれだけの壮大な都市が形成されたのでしょう。
海辺にあって、遺跡に向こうに地中海が見えるのも楽しみの一つです。
c0051938_16482707.jpg


サブラタ(リビア)

リビアの首都トリポリから西へ約100kmの地点に、サブラタ遺跡があります。
元々はフェニキア人が築いた街だったのですが、2世紀初めのローマ時代に、貿易港として大きく発展しました。しかし5世紀に入って、北方ゲルマンのバンダル人、7世紀のアラブ人の侵入により破壊され、廃墟となりました。
サブラタ遺跡の発掘と修復は、1900年代のイタリア占領下にようやく始まります。
大部分が破壊され、また地中海の海辺にあるため侵食も激しいのですが、それでも遺跡の全容を眺めると、往時の町の規模が偲ばれます。
サブラタ遺跡の最大の見所は、巨大な円形劇場です。
客席は3層になっており、通路を歩くと大きなビルの中にいるという錯覚に陥ります。
今まで見たローマ式円形劇場の中では最大規模であり、恐らくは世界的にも最大級であると思います。
c0051938_16501830.jpg


ペトラ(ヨルダン)

ヨルダンを訪れるきっかけは、当初はイスラエルのツアーに申し込んでいたところ、当時PLOとの戦闘が激しくなり中止。その代替としてヨルダン・シリアのツアーに振り替えたのです。ロイヤル・ヨルダン航空という、サービスという概念が全く無い(旅行史上最悪)キャリアで首都アンマンに着きました。
ヨルダンのペトラは紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた街です。ペトラ遺跡の最大の目玉は宝物殿「エル・カズネ」で、ペトラの入り口から続く、岩に挟まれた高さ100m、幅2mという谷間を歩くこと30分、突如正面に宮殿が、蜃気楼のように姿を現します。これには誰しも感動します。
遺跡全体は未だ発掘途上であり、全容が明らかになったらきっと壮観でしょう。
写真は観光HPから引用。
c0051938_16535521.jpg


ギザのピラミッド・スフィンクス(エジプト)

エジプトの首都カイロから近く、今では近傍まで住宅が迫っているため有難味が薄れた感のあるギザのピラミッド群ですが、巨大な建造物としての価値は十分です。
およそ4500年前に建造されたこの巨大なピラミッド群やスフィンクスは、他に例が無いものです。
今でも多くの謎に包まれていることも、この遺跡の魅力の一つと言えます。
c0051938_16560239.jpg


アブシンベル神殿(エジプト)

2回目のエジプト訪問は1999年末から2000年の初め、つまりミレニアムの時期でした。コンピューターの時計がどうのという噂が流れ、特に飛行機は危ないから避けるようにという風潮があった時期です。
そのせいかエジプト航空のジャンボ機で乗客が往路は数十名、帰路は私たちのツアー一行20名だけという貸し切り状態。
普段は混み合うエジプトの観光地もガラガラで、ゆっくりと見学が出来ました。ミレニアム大歓迎です。
アブシンベル神殿は、新王国時代第19王朝の王ラムセス2世によって建造されたもので、その巨大さに目を奪われます。
1960年代、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により水没の危機にありましたが、ユネスコによって国際的な救済活動が行われ、ナイル川から210m離れた丘へ移築されました。
この大規模な移設工事がきっかけとなり、遺跡や自然を保護する世界遺産が創設されたのです。。アブシンベル神殿は世界遺産の象徴的な遺跡です。
写真は観光用HPより引用。
c0051938_16581670.jpg


パルミラ(シリア)

ヨルダンからシリアに入国すると、街全体に大統領の大きな肖像画が掲げられ、いかめしい印象を受けました。首都のダマスカスは美しい街で特に夜景が綺麗だったと記憶しています。
ダマスカスからバスに揺られておよそ3時間、シリアの砂漠にあるパルミラ遺跡は、紀元前1~3世紀にかけて築かれたとされています。東西交易の要衝として築かれたオアシス都市として建設されました。遺跡には巨大な石柱が列をなし、劇場や大浴場、大神殿などまるでローマ遺跡のような豪華さです。
そして何よりすごいのは、発掘はほんの一部しか行われていないことで、全容を現した時は一体どんな規模になっているか、想像もつきません。
残念なことに長く続いたシリア内戦の中で遺跡の多くが破壊されてしまいました。今後、時間はかかるかも知れませんが、人類の貴重な遺産として再建、修復を期待したいと思います。
写真は、旅行会社のPRサイトから引用。
c0051938_16470768.jpg


タッシリナジェールの岩絵(アルジェリア)

「ここは地の果て」アルジェリアを訪れた最大の目的は、タッシリナジェールの岩絵を見るためでした。
日本が8つも入る大きさのサハラ砂漠ですが、数千年前には豊かな水と緑に溢れた土地であったことを岩絵が証明してくれます。
岩絵の時代を大きく分けると、次のようになります。
①狩猟時代
約7000年前で、岩絵にはキリン、バイソン、カバなどが描かれています。
つまり、サハラには沢山の野生動物が生息しており、サファリ(狩猟旅行)が行われていたと推測されます。
②牛の時代
約5000年前ごろと思われ、岩絵から野生動物が消え、代わりに家畜としての牛が描かれるようになります。
サハラ砂漠の大きさ、美しさにも魅了されました。
c0051938_17010633.jpg


ペルセポリス(イラン)

イランを訪れたのは、アメリカによるイラク攻撃が開始される数か月前でしたので、同国でもかなり緊張が高まっていました。
イランの反米感情が高いのは、かつてのイラン/イラク戦争の影響もああります。この時は米国がイラクに軍事援助をしていたので、イランに打ち込まれたミサイルはみな米国製だったそうで、被害の一部はそのまま保存されていました。
イラン観光の最大の目玉はペルセポリス遺跡です。
アケメネス朝ペルシアの都ペルセポリスは、西はエジプトから東はインドに至る大帝国を築きあげたダレイオス1世が紀元前518年に創建し、3代約60年にわたり建設が続けられました。切石を積み上げた東西約300m、南北約450mの大基壇の上に、歴代王の宮殿跡など壮大な建築群が残されています。
写真は観光用HPより引用。
c0051938_17030672.jpg


シバーム(イエメン)

今は内戦で入国が出来ないイエメンですが、私が訪れた当時は昔の日本を思わせるような長閑な国でした。
トンテンカンと鍛冶屋が打つ槌の音が響き、農家では麦わらで編んだ茣蓙の上に穀物が並べられ、天秤棒で水を運ぶ姿が見られました。
サウディアラビアによって乱暴に引き起こされた内戦が早く終結することを願っています。
1982年に世界遺産に登録されたシバーム旧市街は3世紀ごろに形成され始め、現在のような建物が建てられたのは8世紀ごろからとされています。
世界最古の摩天楼の町、遠くから見るとまるで蜃気楼のように砂漠の中に浮かんでいます。
建物は5-8階建て、高さがおよそ30m、全て日干しレンガで造られているのが驚きです。今でも住居として使われています。
降雨が少ないのと、建物全体が固まっていて集合体のような形になっているので、形を保っているのでしょう。
c0051938_17044930.jpg


バールベック(レバノン)

エジプトから始まった私の海外旅行は、レバノンで一段落となりました。
バールベックとは「ベカー高原の主神」を意味していて、ここにフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来します。本来はフェニキア系の神々の聖地だったわけです。
しかし後にギリシア・ローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター・ビーナス・バッカスと呼ばれるようになり、遺跡はこれら三神をそれぞれ祀る三つの神殿から構成されています。
世界でも有数のローマ神殿跡として、世界遺産に登録されています。
BC1世紀頃からローマ帝国の手により最初にビーナス神殿が築かれ、続いてジュピター神殿やバッカス神殿が建てられ、皇帝ネロの時代には神殿はほぼ完成したと見られます。
2.3世紀には中庭や柱廊などの造成も行われました。全体の建設には約400年間を要しました。
しかし4世紀になって、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教を国教と定めた後は、キリスト教徒によって神殿が破壊されました。その後、ジュピター神殿跡はキリスト教の教会に変わったと考えられています。
低い土地にあったバッカス神殿だけは土に埋もれてしまっていたので、破壊を免れて、今日もその雄姿を見ることができます。
c0051938_17061286.jpg


# by kanekatu | 2019-02-28 17:17 | 世界の絶景 | Comments(2)

「世界の絶景SELECT」シリーズを開始

「世界の絶景SELECT」シリーズを開始

当ブログでは数年前に「世界の絶景ベスト10」と銘打って、過去の旅行で特に印象に残った文化財や風景をシリーズにしてまとめました。
その後かなりの旅行を重ね、かつ海外旅行に関しては一段落に達しましたので、今回改めて「世界の絶景SELECT」として再編集いたします。
大きな分類は前回同様に
(1) 文化遺産・遺跡
(2) 文化遺産・建物
(3) 自然遺産
(4) 街並み
(5) 聖地
の5つに分けますが、「文化遺産・遺跡」はあまりに数が多いので「中東」「アジア」「欧州・中南米」の3地域に分けて掲載します。
また、前回は順位付けを行いましたが、今回は順不同で掲載します。
なお、時代によってはデジタル写真が残されていなかったり、PCのHDが破損して画像が失われたりしているので、一部の画像は観光HPなどから転載している事をご了承ください。


# by kanekatu | 2019-02-28 16:24 | 世界の絶景 | Comments(2)

広告が勝手に表示される

当ブログを閲覧されている方はお気付きだと思いますが、広告が表示されています。
ブログに広告(アフィリエイト)を載せないのは当方の一貫した方針ですので、非常に迷惑です。
プロバイダー側の勝手な判断で行っているのでしょうが、嫌なら有料会員になれという事でしょうか。
言うまでもないことですが、掲載されている広告は当方とは一切関わりがありません。

# by kanekatu | 2018-07-21 10:33 | Comments(0)

”タグ”の追加

当ブログの記事の大半にはタグが付けられていません。
ただいまスタート当時の記事から順にタグを付ける作業を行い、終了しました。


# by kanekatu | 2018-07-16 09:43 | Comments(0)

憧れのレバノン・12(ベイルート・最終回)

最終日はベイルート市内観光です。
レバノン議会。
c0051938_07020715.jpg
レバノンでは、国会の議員数も各宗派人口数に応じて定められています。
キリスト教マロン派は34人、イスラム教スンニ派は27人、イスラム教シーア派は27人などと配分が決まっています。
大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から選出されるのが慣例です。
内戦を経てこうした政治機構になったのですが、これからも波乱要因になりかねない危険性をはらんでいます。

ローマ浴場(ハマム)。
c0051938_07034832.jpg
市内にはこうしたローマ時代の遺跡が残っています。右手奥には列柱が見えています。
c0051938_07050219.jpg
聖ジョージ教会は1767年に建てられたギリシア正教の教会。
c0051938_07055857.jpg

c0051938_07062489.jpg

真新しいムハンマドアミーンモスク。
c0051938_07065759.jpg
アルオマーリモスクは十字軍時代の教会を。13世紀にモスクに変えたもの。
c0051938_07073967.jpg

c0051938_07082112.jpg

旧市街の風景。
c0051938_07090178.jpg


c0051938_07092769.jpg

旧市街の中心部付近、ブランド店が立ちならんでいます。
c0051938_07100670.jpg
バスの車窓から見た、高層ビルが林立する新市街。
c0051938_07103900.jpg
内戦の傷跡を生々しく残す旧ホリディイン。復興から取り残された様ですが、将来への戒めのためにも負の遺産として遺した方がいいかも知れません。
c0051938_07110770.jpg



最後の昼食、メインは魚のから揚げ。美味しかったですよ。
c0051938_07115996.jpg

これで全工程が無事終了です。
とても充実した旅行で、いい思い出になりました。

帰路のエミレーツ機内の様子を紹介しておきます。
ドバイ-成田間の座席配列は1-1-1で、ファーストクラス並です。
c0051938_07123893.jpg
左側はサイドテーブル。
c0051938_07132456.jpg
右側は物入れがあり、小さな荷物はここに収納できます。
c0051938_07135206.jpg
夜食は和食をチョイス、前菜代りに寿司がでました。
c0051938_07141738.jpg
なかなか豪華な夜食でした。
c0051938_07144987.jpg

レバノン旅行記も今回で最終です。最後までお付きあい頂き、有難うございます。
最初に記したように、家族とはこれを最後の海外旅行にすると約束しましたので、海外旅行記もいちおう一区切りと致します。


# by kanekatu | 2018-04-30 07:16 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・11(国立博物館)

ここで、レバノン内戦について触れたいと思います。
経緯を一通り読みましたが、複雑すぎてうまく整理できません。私の理解の範囲での説明になりますので、その点ご留意のほど。

内戦にいたる背景については、次の通り。
1、第一次世界大戦後に宗主国となったフランスが、レバノン独立運動を抑え込むためにシリアの領土であった地域をレバノンに組み込んだ。いわば人工的な国家になってしまったため、昔からのレバノン人に対して、新たな国民はシリアへの帰属意識が高く、同じ国民としての共通意識が生まれづらかった。
2、レバノンは中東の中では珍しくキリスト教徒が多く、イスラム教徒との割合がほぼ半々だった。さらに内部は細かな宗派に分かれていて、それぞれの内部対立もあり複雑な構成だった。
3、16ともいわれる宗派は独立性が強く、集落、学校、社会風習から軍隊の部隊までは宗派に所属していた。
4、その裏返しとして中央政府や国軍の力が弱く、問題に対処できなかった。

1970年代に入り隣国イスラエルでのPLOによる武力闘争の影響で、PLOを含む多数のパレスチナ難民がレバノンに流入してきた。
これによりキリスト教徒とイスラム教徒のバランスが崩れるのと、PLOが武器を保持していることが反発を生んだ。
そこでキリスト教マロン派は民兵を組織し、米国やソ連から武器を調達し始める。
対抗してイスラム教徒側も同様に民兵を組織し、シリアやイランから武器を調達する。
一触即発の状況の中で1975年に起きたベイルート市内での小さな銃撃戦が、全国に拡大し、マロン派対イスラム・パレスチナの内戦が本格化してゆく。

中央政府は機能マヒに陥り、シリアや多国籍軍の介入も失敗に終わり、加えてPLOやレバノンの過激派ヒズボラに対抗するとしてイスラエルの侵攻や占領があり、宗派同士の対立では「捕虜なき戦争」と称されたほど血で血を洗うような残虐な殺し合いが行われた。
1990年にシリア軍が再侵攻して紛争を鎮圧し、レバノンはシリアの実質的支配下に置かれた。約15年間に及ぶ内戦は一応の終結をみた。

シリア軍の駐留は2005年まで続き、シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれている。
2005年になって、国民の抗議行動の中でシリア軍が撤退。
2006年にはイスラエルが再侵攻し、南部を占領するが、同年に撤退。
その後も国内では断続的に戦闘があり、2008年になってようやく正常な状態を取り戻す。
長期の内戦や外国軍隊の侵攻により、レバノンの国土は荒れ果てた。
現在は、再開発や観光施設の充実を図るなど経済的回復を進めている。

以上がレバノン内戦の概要です。

観光6日目は首都ベイルート市内で、先ず国立博物館を訪れました。
内戦の主戦場となったベイルートは東西に分裂し、国立博物館は「グリーンライン」とよばれる東西の分離帯の真上に位置していました。
内戦の破壊から収蔵品を守るため、関係者は小さなものは地下の倉庫に、大きなものは周囲をコンクリートで固めて守り抜きました。
そのお陰で、私たちは素晴らしい収蔵品を見ることが出来るのです。
c0051938_04042427.jpg
アルファベットの原形となったフェニキア文字。
c0051938_04050413.jpg
フェニキア文字の解読のきっかけとなったアヒラムの石棺の彫刻。
c0051938_04071580.jpg
石棺に刻まれたフェニキア文字。
c0051938_04074350.jpg
これは別の石棺で、王と王妃を収めたと思われます。
c0051938_04081546.jpg
棺に刻まれたレリーフでは、ホメロスにあるトロイ戦争におけるアキレスの活躍が描かれています。
c0051938_04084240.jpg
その裏側のレリーフでは、アキレスの死を描いています。
c0051938_04091372.jpg
出土した紀元前の彫刻にはエジプトに影響が見られます。
c0051938_04094278.jpg
天使のレリーフは、ローマ時代のものでしょうか。
c0051938_04101032.jpg
墓地から出土した石棺。
c0051938_04103687.jpg
国王の墓から出土した副葬品、兵士を象ったものと思われます。
c0051938_04110173.jpg
貝紫色は巻貝の分泌液を特殊に処理して得られる紫で、フェニキアのティルスで多く生産されたことからフェニキアの紫と呼ばれていました。貴重な交易品です。
カエサルの紫のマントやエジプトの女王クレオパトラの旗艦の帆が、この貝紫に染められていたことは有名です。
c0051938_04113144.jpg
大理石像で、大理石はレバノンでは産出されないのでエジプトから調達したのでしょう。
c0051938_04124514.jpg
その他、いくつか。
c0051938_04132634.jpg

c0051938_04135725.jpg

この後はベイルート市内観光になります。
連載は次回が最終回となります。


# by kanekatu | 2018-04-28 04:15 | レバノン | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


by kanekatu
プロフィールを見る
更新通知を受け取る