憧れのレバノン・11(国立博物館)
2018年 04月 28日
経緯を一通り読みましたが、複雑すぎてうまく整理できません。私の理解の範囲での説明になりますので、その点ご留意のほど。
1、第一次世界大戦後に宗主国となったフランスが、レバノン独立運動を抑え込むためにシリアの領土であった地域をレバノンに組み込んだ。いわば人工的な国家になってしまったため、昔からのレバノン人に対して、新たな国民はシリアへの帰属意識が高く、同じ国民としての共通意識が生まれづらかった。
2、レバノンは中東の中では珍しくキリスト教徒が多く、イスラム教徒との割合がほぼ半々だった。さらに内部は細かな宗派に分かれていて、それぞれの内部対立もあり複雑な構成だった。
3、16ともいわれる宗派は独立性が強く、集落、学校、社会風習から軍隊の部隊までは宗派に所属していた。
4、その裏返しとして中央政府や国軍の力が弱く、問題に対処できなかった。
これによりキリスト教徒とイスラム教徒のバランスが崩れるのと、PLOが武器を保持していることが反発を生んだ。
そこでキリスト教マロン派は民兵を組織し、米国やソ連から武器を調達し始める。
対抗してイスラム教徒側も同様に民兵を組織し、シリアやイランから武器を調達する。
一触即発の状況の中で1975年に起きたベイルート市内での小さな銃撃戦が、全国に拡大し、マロン派対イスラム・パレスチナの内戦が本格化してゆく。
シリア軍の駐留は2005年まで続き、シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれている。
2005年になって、国民の抗議行動の中でシリア軍が撤退。
2006年にはイスラエルが再侵攻し、南部を占領するが、同年に撤退。
その後も国内では断続的に戦闘があり、2008年になってようやく正常な状態を取り戻す。
現在は、再開発や観光施設の充実を図るなど経済的回復を進めている。
観光6日目は首都ベイルート市内で、先ず国立博物館を訪れました。
内戦の主戦場となったベイルートは東西に分裂し、国立博物館は「グリーンライン」とよばれる東西の分離帯の真上に位置していました。
内戦の破壊から収蔵品を守るため、関係者は小さなものは地下の倉庫に、大きなものは周囲をコンクリートで固めて守り抜きました。
そのお陰で、私たちは素晴らしい収蔵品を見ることが出来るのです。
この後はベイルート市内観光になります。
連載は次回が最終回となります。