中央アジア紀行 その10
2007年 11月 06日
マーリはトルクメニスタン第二の工業都市ですが、ここから30kmほど東に、世界遺産にも登録されているメルブ遺跡があります。
メルブはペルシャと中央アジアの中継点として栄え、BC6世紀ごろには既に都市が築かれています。
その後、数々の王朝の興亡の舞台となり、12世紀にセルジュク朝の首都として最盛期を迎えますが、1221年モンゴル軍の来襲により、完全に破壊されてしまいます。
そのセルジュク朝の王の廟が、スルタン・サンジャール廟で、高さ38mの大きな建造物です。
モンゴルの破壊や大地震に耐えてきた、堅牢な建物です。

エルク・カラは紀元前6-4世紀、アケメネス朝ペルシャ時代の城塞都市があった所ですが、かつての面影を偲ぶものは、今は何も残されていません。

AD651年に建てられたモスク跡で、地下にあった直径6.6mの貯水槽のみ残っています。
宗教施設には、水は欠かせません。

大キズ・カラは、6-7世紀のササン朝ペルシャ時代の豪族の住居跡と考えられており、奴隷の娘たちをここに侍らせていたことから、「乙女の城」(キズ・カラ)と呼ばれるようになったものです。
壁の向こうに、スルタン・サンジャール廟が見えます。

この辺りがキズ・カラの入り口であったと想定されています。

いずれも大キズ・カラの外観です。間近で見ると感動します。
独特の形状をした外壁ですね。


大キズ・カラを護衛する男の奴隷達の住居と想定されている小キズ・カラです。

内部は、いくつかの部屋に区切られていたようです。

メルブ遺跡は、トルクメニスタン最大の見所でした。
マーリの町に着いてから、郵便局に立ち寄り、日本に送る絵葉書の切手を買いました。
値段は1万マナット(約50セント)でしたが、最初に1000マナットの切手が10枚出てきて、これでは困るというと2500マナットの切手が4枚、それでも絵葉書が切手で埋まってしまうので困るというと、最後にようやく5000マナットの切手2枚が出てきました。
このヤリトリでおよそ5分間、いや実に非効率です。
どこの国の郵便局へ行っても、日本ほど手早く親切に応対してくれる国はありません。こうした経験をしてくると、郵政民営化など望まなくなりますね。
ホテル・マルグーシュに戻ると、玄関先でTV番組の収録が行われていました。
民族舞踊、日本の漫才に似たコント、それにカラオケと、いずれも素人芸で、まあ印象としては町内盆踊り大会といった感じです。
でも町としては大きなイベントなのでしょう、沢山の見物人が集まっていました。
下の写真は、民族舞踊に出ていた女の子たちです。恐らく地元の女子高校生たちと思われます。
見物の人たちも、美しく着飾っています。


翌朝、マーリのホテルを出発し、バスで再びウズベキスタンに向かいました。
途中、国道とカラクム運河が交差する所で休憩をとりました。
カラクム運河は、降水量が少ないトルクメニスタンの貴重な水源となるもので、アムダリヤ川から水を引き、最終カスピ海まで1400kmという、世界最長の運河です。
奥に鉄橋が見えますが、この鉄道はタシケントを通り、最終的にはロシアのモスクワまで行きます。
手前には、運河の辺で遊牧している姿が見えています。

この後、トルクメニスタン側の国境の町ファラブに着きました。
出国待ちのトラック62台が長い列を作っていて、時には3日間も待たされるのだそうです。気が遠くなりますね。運転手たちは、水と食料積み込んで、ただひたすら待っているわけです。
私たちのバスはその脇をすり抜け、出国審査に向かいました。
出国の後は緩衝地帯をスーツケースを引きながら徒歩で通り、次はウズベキスタンへの入国手続きです。
およそ2時間、炎天下で座る場所もなく、なかなか過酷な条件です。
困ったのは、入国、緩衝地帯、出国のどこにもトイレがないことで、用を足す時は近くの草むらに行くのですが、何せ国境なもので、あまり奥に向かうと係官に叱られます。
近場に集中しますので、足の踏み場もない有様となっていて、トイレだけは何とかして欲しいと思いました。
こちらへ来てから毎日30度を越す高温と、馴れない食事(料理の油が綿実油のせいか)、長旅の疲れなどが重なり、この日の前後からツアー参加者12名中11名が体調を崩しました。
それでも添乗員はさすがで、ビクともしません。鍛え方が違うのでしょうね。
ここで美女が一杯でチョット不思議な国、トルクメニスタンともお別れです。