憧れのレバノン・7(シューフ)

宿泊したティールのアブディーブホテル。
ドアのカギを空けるのに悪戦苦闘、ようやく空けて中からカギを閉めたら今度は開かない。これも悪戦苦闘してようやく空けたが、もし火事でも起きたら焼け死んじゃうという恐怖心から、ずっとカギは開けっ放しにした。
そういうホテルです。
これから泊まる方はご注意を。
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2日目の午前中は、バスで内陸側に向かいシューフへ。
最初の観光はベイト・エッディーン宮殿です。
バシール・シハブ2世が山岳レバノン(レバノン首長国)の首長として、オスマン帝国から任命された1788年から建設が始まりました。
建設には30年を要し、シリアやイタリアから建築家が招かれ、その結果アラブとイタリアのバロックが融合した建物になっています。
宮殿の入り口で、広い庭になっています。
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宮殿より見たダニエルカマル村の風景。
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階段を上がると宮殿の中庭に出ます。
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中庭の噴水。
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来客のレセプションルームで、当時は客が来ると3日間は黙ってもてなし、3日過ぎて初めて訪問の目的をたずね、国王に面会をさせたいたそうです。
悠長なもんですね。
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国王の第一夫人の部屋。
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天井の細工が豪華です。
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国王の浴場(ハマーム)。
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こちらは複数の人が使った浴場ですが、暖かい、とても熱い、冷たいといった部屋に分かれていました。要はサウナです。
天井のデザインが凝ってます。
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宮殿内で結婚式を挙げたお二人。年の差婚? どうでもいいですけどね。
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子どもたちも大勢見学に来てました。
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バスでダニエルカマル村に移動。
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次の観光は、ダニエルカマル村にあるマロン典礼カトリック教会です。

マロン典礼カトリック教会は、レバノンを中心に信者を擁するキリスト教東方典礼カトリック教会の一派で、マロン派と呼ばれています。名前の由来は4 - 5世紀に活躍した聖マロンに由来します。
レバノン国内では人口のおよそ3割程度を占める最大宗派であり、大統領がマロン派から選出される慣行を持つなど、国内外の政治・経済両面において大きな影響力を持っています。
レバノンから外国へ移民し成功をおさめた人も多く、日産のカルロス・ゴーンやブラジル大統領のミシェル・テメルもマロン派の信徒です。
後に述べるレバノン内戦では、マロン派はパレスチナ難民を排斥する側に立って戦いました。
教会の外観。
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この日は特別の日だったらしく、子どもたちや聖歌隊の後進があり、最後はみんなが集合してお祈りをしていました。
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午後からはバスでレバノン山脈を越え、シュトゥーラに向います。


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# by kanekatu | 2018-04-20 10:02 | レバノン | Comments(0)

憧れのレバノン・6(ティール)

ある日ゼウスが天空からフェニキアの王女エウローペーを見初めます。何とか彼女をモノにしたいとゼウスは白い牡牛に姿を変えて近づきます。警戒心のないエウローペーが牡牛に乗ると、雄牛は大空を駆け抜けます。その範囲が今のヨーロッパとなったいうのです。
ヨーロッパの地名もエウローペーが語源となっています。
この伝説も「エウローペーの誘惑」として絵画で題材になっています。
下の絵画はマールテン・ド・フォス作。
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この話がティールと重なるのは、フェニキア文字がティールからギリシャに伝わり、やがてアルファベットとなってヨーロッパ全体に拡がったとされているからです。
かほどにティールはフェニキアの都市国家として隆盛を極めていました。
BC1000年頃に陸地から1㎞ほど離れた小島にティールは都市形成し、フェニキアの首都となります。
BC332年にアレキサンダー大王がここを攻撃しますが、猛烈に抵抗します。苦戦した大王は艦隊を終結し、陸と小島の間を埋め立てティールを陥落しました。
以後、小島は陸続きとなり今は半島になっています。
現在はローマ帝国時代の遺跡が残されています。
ローマ時代は一つの町でしたが、間に道路や家がたち陸側と海側に分断されています。
最初は陸側の遺跡から観光。
凱旋門。
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町の入り口で、ここからが東西に走るメイン道路です。真ん中を馬車が通り両側が歩道となっていました。
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道路の両脇にはこうした列柱が並んでいて、今は一部が残っています。
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ローマの象徴ともいうべき水道橋。
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水道橋を断面から見ています。
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競技場で、2頭だての馬車の競技が行われた会場ですが、今はこのスタンド部分だけが残されています。これが全周を囲んでいたんですから、さぞかし壮観だったでしょう。
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ミータと呼ばれる石を7度回って早さを競うというルールでした。映画の場面を想像してしまいます。
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長さが480mあり、オリンピックの競技場を思わせます。
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ここからは海側の遺跡の観光となります。
遺跡がここで切れていますが、この先が陸側とメイン道路で結ばれていました。
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家屋が並んでいた跡で、おそらく商店だったと思われます。
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モザイクの通りの跡です。馬車は通らなかった道路だったんでしょう。
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道路脇の列柱。
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ローマ浴場。
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競技場で、陸側に比べ規模は小さいですが、観客隻がよく残っています。
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遠くに見えるのが古代ギリシャの柱。
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遺跡を先に進むと海が見えてきます。
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ここが港で、方向がエジプトに向いていることからエジプト港と呼ばれています。
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ティールの町で出会った花嫁花婿、幸せそうですね。
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夕食で、この日のメインは海鮮料理でした。
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フルーツはカットされずに丸ごと出てくるのがレバノン流、どれも美味しかったですよ。
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# by kanekatu | 2018-04-18 09:54 | Comments(2)

憧れのレバノン・5(シドン)

4日目の最初の観光はシドン郊外にあるエシュムーンです。
エシュムーンは狩りの好きな美青年でしたが、愛の女神アステルタに言い寄られ、逃れるためにエシュムーンは自殺してしまいます(モッタイナイ)。
悲しんだアステルタは彼を神として生き返らせます。

そうした伝説に基づきBC7世紀に建立されたのがエシュムーン神殿ですが、4世紀にローマによって破壊されてしまいます。
エシュムーン神殿でわずかに壁の一部が残されています。
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床にモザイクが敷き詰められていたようで、一部がこの様に残っています。
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大学のボランティアによってモザイクの修復作業が行われていました。
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シドンはベイルートから地中海に沿って南に40㎞、レバノン第3の都市です。
紀元前12世紀にはフェニキア人の都市国家として、交易の拠点として繁栄します。
BC6世紀からのペルシャ時代にはペルシャ第5の州都として最盛期を迎え、またガラスの産地としても有名でした。
その後は沿岸部の重要な軍事拠点として、ローマ、十字軍、トルコなどから侵略を受けて、多くの遺跡が残されています。
海の城塞です。
12-13世紀にかけて十字軍との攻防の砦となり、最終的には十字軍の城塞となりました。
その後破壊され、ビザンチン時代に橋がかかり陸とつながりました。
城門。
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城塞よりシドン旧市街をのぞむ。
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城塞の内部。
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城塞の先端から地中海をのぞむ。
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旧市街のスーク近くにあるキャラバン・サライです。陸上輸送されたものはここで交易が行われました。
1階にラクダや馬が繋がれていて、2階は宿泊施設がありました。
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シドン旧市街のスーク。この一角に名物の石鹸博物館があります。
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スークの外には露店の店も。
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昼食では、生野菜タップリのメーザ。レバノンは比較的水がいいので、安心して食べられます。
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こちらはモロヘイヤ。
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メインの揚げ物も大皿で出され、取り皿に移して食べます。
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米とナッツと乾燥アラビアパンの盛り合わせで、これもメーザです。海外では米を野菜として所が多いです。
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午後からはティール観光です。


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# by kanekatu | 2018-04-17 09:45 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・4(ビブロス)

ビブロス観光に先立ち、レバノンの歴史について簡単にまとめてみます。
・古代オリエント世界
古代にはこの地に住む人々をフェニキア人と呼んでいて、BC3000年頃には歴史の舞台に登場します。
この地からフェニキア人は地中海を渡り、カルタゴ・バルセロナ・マルセイユ・リスボンなど各地に植民地を形成します。
その後フェニキアの勢力は弱体化し、紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれます。
アッシリアの後は新バビロニアやペルシャ、紀元前525年にはアレクサンドロス大王のマケドニア王国の支配下、その後継のセレウコス朝シリアの一部となります。
紀元を挟んでローマ帝国の支配下に、7世紀にはアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれます。
その後も東ローマ帝国、オスマントルコに支配されます。
・レバノンのアラブ化
アラブの一員となったレバノンの山岳地帯は、西アジア地域の宗教的マイノリティの避難場所となります。
キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、独自の共同体を維持してきました。
19世紀頃からマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透してきます。
・20世紀のレバノン
第一次世界大戦後の1919年、サイクス・ピコ協定に基づきフランスの委任統治下に入ります。
1920年にいったんシリア・アラブ王国とし独立を図りますが、フランス・シリア戦争でフランス軍と衝突すると、4ヶ月あまりで王国は瓦解しました。
・フランス委任統治領時代
第一次大戦後、キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノンはシリアから切り離されて、フランス占領下で大レバノンとなりました。
フランスによる委任統治は第二次大戦中まで続き、現在でもフランスとの緊密な関係を維持していますし、国内でフランス語が通じるのもこのためです。
第二次世界大戦後の1941年11月26日に、レバノンが独立しました。

ビブロスですが、フェニキア人の発祥の地として有名です。つまりこの町は5000年も続いているわけです。
アルファベットの元になったフェニキア文字もこの地で生まれました。このことからアルファベット発祥の地と言われます。
フェニキア人はビブロスからレバノン杉をエジプトへ輸出し、地中海貿易の主役へと躍り出ました
後にローマ帝国の支配下に入り、12世紀には十字軍を迎え撃つべく要塞化されます。
「ビブロス」は聖書を意味する「バイブル」の語源ともなりました。
当地の港からエジプトにレバノン杉材が輸出され、その代価としてパピルスなどが輸入され、さらにそのパピルスがこの都市を経由してギリシャなどに運ばれていたので、ギリシャでは紙は原産地のエジプトではなく、積出港のビブロスとして知られる様になりました。やがてパピルスを意味するビブロスから「ビブリオン」(本)という言葉ができ、さらに「ビブル」(聖書)が生まれたというものです。
いずれにせよ歴史的に重要な町で、世界遺産に登録されています。
先ずはビブロス旧市街で昼食を。
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こんな風景も。
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レバノンはワインの産地でもあります。グラスで6ドルほど。
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メーザとしてポテトも多い。
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メインは焼き魚、アジでしょうか。
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ビブロスの港で、フェニキアの時代には地中海交易の中心となっていました。今も漁港として使われています。
建物はかつての城塞です。
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ここからビブロスの遺跡観光です。
城門はBC1600年頃のものの様です。階段と城壁の一部が残されています。
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BC3000年頃の家屋跡と見られます。
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遺跡の高台から見ると海に近いことが分かります。
また遺跡群が町の中にあることも分かり、5000年ものあいだ連綿と続いてきたビブロスの歴史を思い起こさせます。
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神殿がいくつかありますが、これはBC2000年頃に建てられたレシェフ神殿と思われます。レシェフ信仰はオリエント時代にエジプトにも拡がっていきました。
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オベリスク神殿もレシェフ信仰の時代のもので、エジプトの影響を感じさせます。
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十字軍の城は12世紀に十字軍によって建てられた強固な城。
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王の泉は、先史時代からローマ時代まで使われていた井戸です。女神イシスの伝説と結びついてこの名が付きました。
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小さなローマ劇場は3世紀に建てられたもので、もっと大きなものでしたが座席の3分の2が失われています。
現地ガイドはアリーナ(闘技場)だったと言ってました。
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この遺跡では他にフェニキア文字の解読のきっかけとなったアヒラムの石棺も発掘されていますが、実物は国立博物館に移されています。
悠久の5千年の町ビブロス、見ごたえがありました。


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# by kanekatu | 2018-04-15 05:08 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・3(レバノン杉)

私たちが宿泊したブシャーレは標高1450mですが、周囲は普通の民家が立ち並び高度を感じません。この辺り一帯はガディーシャ渓谷と呼ばれていて、レバノンでも屈指の景観を誇ります。
ブシャーレからバスでさらに5㎞ほど上ると、レバノン杉が自生する神の杉の森に到着しました。
世界遺産に登録されています。
レバノン杉は、紀元前にフェニキア人の繁栄の原点になったことでも有名です。フェニキア人は、当時レバノン山脈全域に自生していたレバノン杉からガレー船を始め、船舶の建造材として使用し、地中海貿易を制覇していました。
レバノンの沿岸部各地にフェニキア時代の遺跡が数多く残るのは、そのためです。
また、木材やレバノン杉からとった樹脂をエジプトなどに輸出していました。
旧約聖書によればソロモン王の宮殿内部はレバノン杉で装飾されていたとあり、建材としても広く使われていたことが分かります。
レバノン国の象徴として、国旗中央にレバノン杉が描かれています。
しかしレバノン杉は長年の伐採がたたり、2004年現在は1200本程度が残るだけになってしまいました。まだ樹齢1200年以上のものが、400本ほど残っています。
現在はレバノン杉を保護すると同時に植樹を行い、その中心がこの杉の森です。

国内で2番目に大きいと言われるレバノン杉です。
木の形から分かるように実際は杉ではなく、マツ科の樹木です。
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標高が高いので、この時期でも雪が残っています。
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樹齢2000年と推定されている木です。
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森の中はこうした遊歩道が整備されています。
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新しい木を植樹していますが、なにせ成長が遅いので育つには長い年月を要します。
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1本の木が二つに分かれたもの。
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枯れてしまった木に彫刻されたもの。一番高い所にあるのが、キリストの磔刑を彫ったものです。
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近くのハリッサ展望台から見たレバノン山脈で、3000m級の山頂は雪に覆われています。
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眼下に見えるのがガディーシャ渓谷にある家々。この景観も世界遺産に含まれています。
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次の観光は、聖アントニオス修道院です。
聖アントニオス(アントニウス、アントニヌス、アントニー)は251年にエジプトに生まれ、キリスト教の聖人です。。
様々な苦行を通して聖人にまで達するんですが、苦行中に悪魔が現れたり、豊満な女性の幻覚を見せたり、暴力で恐喝したりと何とか彼を堕落させようとしますが、アントニオスは悪魔に屈せずにキリストを信じ、人々に信仰を伝え続けたと言われています。
このエピソードは「アントニウスの誘惑」という題材で多くの画家が描いています。
その一つは、ロヴィス・コリント作の下の絵画です。ヒェーと頭を抱えて悲鳴を上げている様子です。
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私ならコロッといかれてますね。聖人になるのは絶対に無理です。
彼を信仰する修道院は各地にあるようで、このブシャーレ近郊のものもその一つです。
崖の中腹にある小さな洞窟は、修道僧が神と出会う場所です。
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修道院に付設された博物館。
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館内に展示されている印刷機。17世紀に制作されたもので、マロン派の聖書が印刷されました。
それまでは手書きだった聖書は、印刷機の登場で一気に大衆の間に拡がるのです。
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狂人の洞窟と呼ばれる岩屋で、精神錯乱になった人を鎖でつないで治すというもの。随分と荒っぽいですね。
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修道院としては12世紀には機能していましたが、この建物は1861年に建てられたものです。外観がイスラム教の寺院に似ています。
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礼拝堂は洞窟の中に作られています。
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午後はビブロスの観光です。


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# by kanekatu | 2018-04-13 10:32 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・2(ドッグリバー)

3月21日21時20分成田発のエミレーツ航空で、およそ11時間30分のフライトでドバイ着(時差6時間)。3月22日ドバイ発7時30分のエミレーツ航空で、およそ4時間30分のフライトでベイルート到着(時差2時間)。
感心したのは、ドバイからのビジネスも座席が180度フラットになることで、さすがエミレーツです。
入国審査や通関はスムーズでしたが、通関時にセキュリティチェックがあるのはお国がらでしょうか。
今回は参加者が21名ということで50人乗りの大型バスでの移動で楽でした。マイクロバスでの長距離移動はキツイですから。

バスは今夜の宿泊地ブシャーレに向います。
ベイルート中心部の混雑はどこの都市も共通です。
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2日目の観光は2ヶ所で、最初はドッグリバー。
ベイルートの北15㎞を流れる川で、この辺りはエジプトとメソポタミアを結ぶ要衝でした。崖の上に犬の像が置かれていたことからこの名が付いたとのこと。
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BC1286年に古代エジプトとヒッタイトとの間で戦われた「ガディッシュの戦い」の帰りにラムセス2世がここを通りかかった際に碑文を刻んだのがきっかけとなり、マルクス・ウレリウスやナポレオン3世らが碑文を刻んでいます。
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この碑文は新しいもので、イスラエル軍の撤退記念碑。
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ナポレオン3世の名が。イスラム教徒によるキリスト教徒虐殺事件をきっかけにレバノンに出兵した帰途に碑文を建てました。
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全部で20基以上ありました。
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崖の上から見た地中海。
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全てが崖の途中に置かれていたので階段の上がり下りがきつく、長時間のフライトで到着したばかりの身には辛かったですね。

次の観光はジェイダ洞窟で鍾乳洞です。ドッグリバーの上流で川の水源ともなっています。
全長が約7㎞ですが、公開されているのは500mほど。入り口からゴンドラで上がり、洞窟内を徒歩で鍾乳石を鑑賞します。
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次にこんな乗り物に乗って下に移動。
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今度はボートに乗っての鑑賞になりますが、いずれも内部は撮影禁止のため紹介できません。
高さが100mもあるドームはなかなかの見ものでした。

ようやく昼食です。
レバノンはアルコールが自由なのが助かります。
先ずビール!
もっとも330mlビンで4ドルと高いのが欠点ではありました。
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レバノン料理は美味しいという評判で、旅の楽しみの一つでした。片や地中海、反対には並行して山脈が走っているため食材が豊富なんです。
レバノン料理の最大の特徴はメーザと呼ばれる前菜です。それが次々とテーブルに並べられ。数種類から多い時は10種類位になります。
左は生のニンジン、右はタップーレというパセリ、ミント、トマトなどのサラダ。
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左下の丸い皿はホンモス・ビ・タヒーニというひよこ豆のペーストです。
中央付近の四角い皿はラブネというヨーグルトから作ったクリーム。
右上の丸い皿はムッタバルというナスのペースト。
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ファトゥーシュは野菜の上に乾燥したアラビアパンをカットして乗せたもの。
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これらはサラダと共にメーザの定番で、どこでも出されます。
こうした揚げ物も前菜です。
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メインはマハシー・クーサという、くりぬいたズッキーニの中に米、ミンチ、タマネギを詰めて煮込んだもの。
上に載っているのがイースト菌を使わない固くて薄いアラビアパン。
但し、メーザでお腹が一杯になってほとんで食べられなかったんですが。
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最後はフルーツ。
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ここからバスに揺られてブシャーレに到着。
標高が1450mあるので涼しく感じます。
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宿泊の「シュバット」は予想通りの質素なホテルで、一斉にシャワーを使うとお湯がチョロチョロしか出なくなるのが大きな欠点。
夕食をすませてから爆睡。


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# by kanekatu | 2018-04-11 04:13 | レバノン | Comments(0)

憧れのレバノン(2018/3/21-28)・1

2018年3月21日から28日までの旅程でレバノンを訪れました。
旅行社は西遊旅行、キャリアはエミレーツ、添乗員はHさん。ツアー参加者は21名で、ちなみに最高齢は83歳でした。

私にとってレバノン訪問は永年の夢で、過去の2度のトライは諸事情で実現できず、今回が3度目の正直となりました。
レバノンは日本の岐阜県ほどの広さしかない小国ですが、5つの世界遺産があります。その一つは中東最大級、ということは世界最大級のローマ遺跡「バールベック」が含まれています。ここをどうしても見たかったのです。
結果は期待通りというより期待を上回る旅となりましたが、レバノンの印象を一口で表せば「不思議の国」といえましょう。
人口が400万人の国で、パレスチナからの難民50万人、シリアからの難民100万人(いずれも概数)を受け入れている、これだけでも驚きです。
レバノンの不思議さ、魅力を、これから何回かに分けた紹介してゆきます。

先ずレバノンはどの辺りにあるのかというのは下の地図で見てください。シリアの左に小さく書かれているのがそれです。
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大きくしたものが下の地図で、地中海の東端にあり地中海の沿うような形に細長くのびた国土の形をしています。

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国の中央付近を背骨のようにレバノン山脈が走り、東側のアンチレバノン山脈によってシリアと分けられます。
隣国は南部の一部がイスラエル・パレスチナと接している以外は、大半がシリアとなっています。
渓谷や高原があり、3000m級の山があるレバノン山脈ではスキーが、地中海側ではマリンスポーツが楽しめるというリゾートの適した立地は「中東のパリ」と呼ばれていました。

レバノンの基本情報は以下の通りです。
国名:レバノン共和国
国旗:中央にレバノン杉が描かれているのが特徴。
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面積:1万452㎡(岐阜県とほぼ同じ)
人口:413万人
首都:ベイルート
民族構成:アラブ人95%、アルメニア人4%、ほか1%
宗教:全部で16の宗派に分かれている。
イスラム教60%(スンニ、シーア、アラウィ、ドルーズ)
キリスト教徒40%(マロン、ギリシア正教、カトリック、プロテスタント、ほか)
言語:アラビア語が公用語、他に英語やフランス語が通じる。
通貨:レバノンポンドが基本通貨だが、米ドルが通用する。
国民一人当たりのGDP:約1万7000ドル

戦後しばらくは中東で最も豊かな国でしたが、1975年から始まった内戦が15年間も続き、その後もイスラエルやシリアとの戦闘や占領などがあって、国土は荒れてしまいました。
その影響で観光客が激減し、外国資本も引き揚げられ、レバノン人(主にキリスト教徒)の一部が外国へ移住する事態になりました。
また、イスラエルとPLOの戦闘から逃れたパレスチナ難民およそ100万人、シリア内戦から逃れたきたシリア難民およそ50万人が今もレバノン国内に留まっています。

ようやく国内が安定し、復興が進んできて、日本からのツアーも可能となってきました。
しかしシリアやイスラエルとの緊張関係は続いており、数か月前には首相が突然「身の危険を感じるので辞任したい」と言い出して世間を驚かせました。
そんなこんなで今回の旅行は家族から猛反対され、じゃこれで海外旅行は最後にするからという条件で認めさせました。
従って、海外旅行記も今回が最終となります(家族の気が変わらなければ)。

どうせ最後だからということで、エミレーツのビジネスクラスをはり込んで、快適な気分を味わいました。
空港のラウンジでゆっくり時間を過ごし、航空機に搭乗すると直ぐにおしぼりとシャンパンが出てきます。
座席の配列は2-2-2でしたが、隣席とは顔の部分が仕切られていていちおう独立性が保たれていました。
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機内食は和食を選びましたが、思ったより美味でした。
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とにかく座席が180度フラットになるのは楽ちんです。
エミレーツのビジネスの最大の特徴はバーラウンジがあることで、いつでも自由に利用できます。
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前置きはこの位にして、次回から旅行記の本題へ入ります。


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# by kanekatu | 2018-04-09 07:22 | レバノン | Comments(2)

箱根「紗ら」に泊まる(2017/9/12_13)

9月12日より箱根湯本温泉「月の宿・紗ら」に1泊。
温泉での宿泊はとにかく何もせず、お湯に浸かってゴロゴロするだけと決めている。
従来は温泉といえば旅館に泊まることにしていたが、今回は妻の希望で洋室のある施設ということでここ「紗ら」にした。
というのは、和室の場合どうしても避けられないのが布団の上げ下げだ。
そこ行くと洋室ならチェックインからチェックアウトまで気兼ねなくごろ寝していられる。
自宅もベッドなので、今ではベッドの方が馴染みが良くなってしまったこともある。
温泉+和食+洋室という組み合わせが希望にかなったというわけだ。
「紗ら」は箱根湯本駅からゆっくり歩いて15分ほど、早川の畔にある。
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チェックインはホテルと同様にフロントで手続きしてから鍵を貰って部屋へ。
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露天風呂付きということだったが、広めのベランダにバスタブが設置されているという感じだが、思ったより開放感があった。
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向かい側は山だ。
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特別サービスとして、室内の冷蔵庫の中にある飲み物は無料ということだったが、ミネラルウオーターと缶ビールが一人一本ずつしか入ってなかった。
先ずは大浴場で温泉となったが、かなり狭い。他の貸し切り風呂が2か所あったが、使用せず。
浴場の出入り口にはソフトドリンクのコーナーがあり、これも自由に飲める。
入浴後の屋上庭園に出たが殺風景で、フリードリンクの缶酎ハイを飲んで部屋に戻る。

夕食は5時半と7時半の2回に分かれていて、当方は5時半の回に。
食事会場はレストランだったがあまり高級感はなく、居酒屋風。
飲み物はアルコール類を含め飲み放題(70分間)で、酒好きには助かる。
夕食の前菜。
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刺身。
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土瓶蒸しは松茸と鱧。
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焼き魚。
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メインのしゃぶしゃぶで、当方は海鮮しゃぶしゃぶを選んだ。蟹、金目鯛など。
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しゃぶしゃぶの野菜。
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締めの饂飩。
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スイーツ。
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翌朝の朝食。玉子焼き、蒲鉾、香の物など。
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魚は網で焼いて食べる。
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野菜類は蒸篭蒸しで。
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他に温泉玉子、ご飯、汁が出た。

全体的な感想。
【部屋】
ベッドはセミダブルでゆったりとしており快適だった。
部屋の露店風呂は、バスタブが座って足を伸ばせる程度の大きさで、大浴場よりこちらを愛用。
室内の装飾は高級感は無かったが、機能的だった。
【大浴場】
脱衣所も浴場も狭い。とても大浴場とは言い難い。
露店風呂も三方と天井に囲まれ、開放の面には目隠しパネルがあり、「露店」には程遠い。
一番いけないのは、お湯が常に給湯されていないこと。給湯口から断続的にお湯が出るが、この時間が短い。
温泉というよりは、小型の銭湯というイメージだ。
温泉にたっぷりと浸かりたい人には、ここは不向き。
【食事】
メニューはよく工夫されていて、量も過不足なかった。
ただ、焼き物や煮物の味付けは、他の同等レベルの旅館に比べ劣る。
客層は若いカップルが目立ったが、若い人向きな施設といえよう。


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# by kanekatu | 2017-09-15 16:40 | 伊豆・箱根 | Comments(0)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(10・最終回)

7日目午後の観光はオルヘイ・ベッキにある、旧オルヘイの洞窟修道院です。
中世にキリスト教の僧侶たちが世界各地に布教に向かいますが、13世紀ごろにこの地に修道院を作ったようです。随分と辺鄙な場所にと思うでしょうが、修業の場所としては最適だったのでしょう。
18世紀ごろに一度はここを離れたようですが、現在は修道士がいて修業しています。

入り口は人ひとりがやっと通れるほどの広さ。
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ここは修道士たちが生活していた場所で、7人が暮らしていたそうです。
天井が低くかがまないと歩けない。
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丘の上に教会が見えてきました。最近建った教会だそうですが、この修道院とは直接関係がないそうです。
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確かに新しい。
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ただ、昼食でのワインがぶ飲みが効いていたせいか、ガイドの説明も添乗員の通訳も聞いているこっちも、みな曖昧模糊だったのは否めません。

一つだけ思い出しました。
ガイドに、ソ連時代のKGBは怖くなかったかを訊いてみましたら、答えは「私は何も悪いことしなかったから、怖くなかった」。
悪名高いKGBも、体制側にいる人間や体制批判をしない人間には手出しをしなかったのでしょう。
もしかすると、昔のソ連が良かったと言っている人たちって、そいう人たちだったのかも知れません。


ここ今回のツアーの全ての観光は終了しました。
夕食は、近くの村Trebujeni(トレブジェニ)の”casa din lunca”というヴィラでとることになりました。
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ここが入り口で、右側が宿泊所、左奥にオープンエアーの食卓が備えてあります。
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プールもあって、なかなか立派なヴィラです。この日の家族連れが利用していました。
後で調べたら、日本からも予約できるんです。でもここまで来るのが大変ですね。
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夕食の前菜です。
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ここでもワインは無料で飲み放題。昼に飲んだワインがそろそろさめてきた頃で、また乾杯。
空になれば、従業員がピッチャーに入れてどんどん運んでくれます。
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夕食が終わると、モルドバの歌と踊りを披露してくれました。
家族経営のようで、子どもたち総出の歓迎です。
真ん中の2歳の女の子が大人気でした。
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最後は、私たちも一緒に踊りの輪に入って盛り上がり。
もちろん私も輪の中に入りましたよ。若い女性と手をつなぐなんて機会は、滅多にありませんからね。
お陰ですっかり酔いが回ってきました。
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♪酒は美味いしネエちゃんはきれいだ、うっわー、うっわー、うっわっわー♪

この村ではまだ馬車が使われています。
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こうした教会がある所を見ると、比較的大きな村なのでしょう。
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バスでキシナウに戻ります。
途中の日没風景。
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泊まりはキシナウのブリストルセントラルパーク。
機能的な良いホテルでした。
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全工程が終了し、復路はキシナウ空港から出発、モスクワ経由で成田着です。
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帰着便では、装置の故障とやらでエンターテイメントは利用できず、モニターも消えたまま。
機内食も往路と比べるとかなり落ちました。上から前菜、サラダ、メイン。
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ここら辺りがアエロフロートらしさでしょうか。


さて、この連載も今回が最終回となります
全体的には、期待していたより楽しい旅行となりました。
どこの国でもそうですが、来てみないと分からない事って沢山あります。
今回の4ヶ国は、特にそれを感じました。
訪問した4か国はいずれもソ連崩壊まではソ連邦の一員で、崩壊後にそれぞれ独立を果たしました。
しかし、未だに旧ソ連の残影が見て取れるという共通点がありました。それはEUとロシアの境界にあるという地政学的なものかも知れません。

最後までお付き合い頂いた方に感謝します。
―終り―

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# by kanekatu | 2017-08-18 10:24 | モルドバ | Comments(2)

ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ訪問記(9)

6日目の夕方、沿ドニエステルを出国し、最後の訪問国モルドバに入国。
モルドバはヨーロッパで最も貧しい国です。アパートも今まで通ってきた3国に比べ簡素な印象です。
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真っ直ぐに夕食レストランへ。
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前菜。
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メインはシャケの揚げ物でした。
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ここでモルドバの概要を説明します。
正式国名は、モルドバ共和国。
国旗は、ルーマニアの国旗にモルドバ国章を配したもの。
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面積は約3万4千km2で九州よりやあや小さい。
地図は下記の通り。
西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接している。
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人口は、約290万人。
首都はキシナウ。
政体は、共和制。
民族構成は、モルドバ人が78%、ウクライナ人が8%、ロシア人が6%、その他。
宗教は、ロシア正教、ルーマニア正教。
言語は、モルドバ語(ルーマニア語)とロシア語。
一人当たりGDPは、4666ドル。
通貨は、モルドバ・レウ (MDL)。


現地ガイドに、これだけルーマニアとの関係が深いのなら、なぜソ連崩壊後にルーマニアと統一しなかったのか、訊いてみました。
ガイドは大変いい質問ですと言ってから、答えはルーマニアが当初からEU加盟志向だったのに対し、モルドバ国民の間では反対の声が強かった。
現在はEU加盟を目指しているが、経済状況が悪く財政基盤も弱いため難しい。国民の間では、EU加盟によりインフレが起きて物価が上昇することを警戒する声も根強いそうです。


7日目の午前中は首都キシナウの見学です。
中央広場。
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凱旋門。
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シュテファン大公の像。15世紀のモルドヴァ公国の公で、シュテファン大公と呼ばれています。
反オスマン帝国闘争を展開し、ローマ教皇から「キリストの戦士」とたたえられた聖人でもあります。
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正教の大聖堂と、手前は鐘楼。
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中心部にあるシュテファン・チェル・マレ公園。
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いかにも首都の中心部らしい、落ち着いた佇まいを見せていました。


次は昼食を兼ねてのミレスチ・ミーチワイナリーの見学です。
ここのワインセラーは地下100mにあり、全長が120kmという途方もない広さです。その一部を見せて貰いました。
ワインの樽で、かつてはこうした木製のものが使われていました。
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今ではこうした容器に詰められています。
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膨大な数のボトルが寝かれています。
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特別に契約すれば、この様に個人がセルを貸し切ることができます。
良かったら、あなたもどうですか?
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入り口にあるワインの噴水、かと思ったら中身は水でした。
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ソ連時代は、ワインはここモルドバで集中的に生産していたようです。
ゴルバチョフ時代には、ワインを飲むと働かなくなるという理由で、このワインセラーの全てのワインを廃棄させらたそうです。
でも秘密の倉庫を作って一部のワインは保管し続けたとか。
映画になりそうですね。

さあ、いよいよお待ちかねのワインの試飲会。何種類かのワインのボトルが並び、係員からそれぞれの説明がありました。その後は各自のテーブルに置かれたグラスに、次々とワインが注がれます。
説明が終わると係員はボトルを置いたまま出て行き、ここから後は飲み放題。テーブルに並んだおつまみを食べながら、あれだこれだと言いながらグラスを飲み干していきます。
終りの頃は、全員がかなり出来上がっていました。
写真が無いのは、撮る暇がなかったからです。
食事のメイン。
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おまけに、全員に赤白ワインフルボトル1本ずつのお土産付、もう天国でしょ。


バスの中で爆睡しながら、次の観光地へ。
次回が最終会です。

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# by kanekatu | 2017-08-17 11:55 | モルドバ | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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