カテゴリ:レバノン( 12 )

憧れのレバノン・12(ベイルート・最終回)

最終日はベイルート市内観光です。
レバノン議会。
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レバノンでは、国会の議員数も各宗派人口数に応じて定められています。
キリスト教マロン派は34人、イスラム教スンニ派は27人、イスラム教シーア派は27人などと配分が決まっています。
大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から選出されるのが慣例です。
内戦を経てこうした政治機構になったのですが、これからも波乱要因になりかねない危険性をはらんでいます。

ローマ浴場(ハマム)。
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市内にはこうしたローマ時代の遺跡が残っています。右手奥には列柱が見えています。
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聖ジョージ教会は1767年に建てられたギリシア正教の教会。
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真新しいムハンマドアミーンモスク。
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アルオマーリモスクは十字軍時代の教会を。13世紀にモスクに変えたもの。
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旧市街の風景。
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旧市街の中心部付近、ブランド店が立ちならんでいます。
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バスの車窓から見た、高層ビルが林立する新市街。
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内戦の傷跡を生々しく残す旧ホリディイン。復興から取り残された様ですが、将来への戒めのためにも負の遺産として遺した方がいいかも知れません。
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最後の昼食、メインは魚のから揚げ。美味しかったですよ。
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これで全工程が無事終了です。
とても充実した旅行で、いい思い出になりました。

帰路のエミレーツ機内の様子を紹介しておきます。
ドバイ-成田間の座席配列は1-1-1で、ファーストクラス並です。
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左側はサイドテーブル。
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右側は物入れがあり、小さな荷物はここに収納できます。
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夜食は和食をチョイス、前菜代りに寿司がでました。
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なかなか豪華な夜食でした。
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レバノン旅行記も今回で最終です。最後までお付きあい頂き、有難うございます。
最初に記したように、家族とはこれを最後の海外旅行にすると約束しましたので、海外旅行記もいちおう一区切りと致します。


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by kanekatu | 2018-04-30 07:16 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・11(国立博物館)

ここで、レバノン内戦について触れたいと思います。
経緯を一通り読みましたが、複雑すぎてうまく整理できません。私の理解の範囲での説明になりますので、その点ご留意のほど。

内戦にいたる背景については、次の通り。
1、第一次世界大戦後に宗主国となったフランスが、レバノン独立運動を抑え込むためにシリアの領土であった地域をレバノンに組み込んだ。いわば人工的な国家になってしまったため、昔からのレバノン人に対して、新たな国民はシリアへの帰属意識が高く、同じ国民としての共通意識が生まれづらかった。
2、レバノンは中東の中では珍しくキリスト教徒が多く、イスラム教徒との割合がほぼ半々だった。さらに内部は細かな宗派に分かれていて、それぞれの内部対立もあり複雑な構成だった。
3、16ともいわれる宗派は独立性が強く、集落、学校、社会風習から軍隊の部隊までは宗派に所属していた。
4、その裏返しとして中央政府や国軍の力が弱く、問題に対処できなかった。

1970年代に入り隣国イスラエルでのPLOによる武力闘争の影響で、PLOを含む多数のパレスチナ難民がレバノンに流入してきた。
これによりキリスト教徒とイスラム教徒のバランスが崩れるのと、PLOが武器を保持していることが反発を生んだ。
そこでキリスト教マロン派は民兵を組織し、米国やソ連から武器を調達し始める。
対抗してイスラム教徒側も同様に民兵を組織し、シリアやイランから武器を調達する。
一触即発の状況の中で1975年に起きたベイルート市内での小さな銃撃戦が、全国に拡大し、マロン派対イスラム・パレスチナの内戦が本格化してゆく。

中央政府は機能マヒに陥り、シリアや多国籍軍の介入も失敗に終わり、加えてPLOやレバノンの過激派ヒズボラに対抗するとしてイスラエルの侵攻や占領があり、宗派同士の対立では「捕虜なき戦争」と称されたほど血で血を洗うような残虐な殺し合いが行われた。
1990年にシリア軍が再侵攻して紛争を鎮圧し、レバノンはシリアの実質的支配下に置かれた。約15年間に及ぶ内戦は一応の終結をみた。

シリア軍の駐留は2005年まで続き、シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シリアによる平和)」とも呼ばれている。
2005年になって、国民の抗議行動の中でシリア軍が撤退。
2006年にはイスラエルが再侵攻し、南部を占領するが、同年に撤退。
その後も国内では断続的に戦闘があり、2008年になってようやく正常な状態を取り戻す。
長期の内戦や外国軍隊の侵攻により、レバノンの国土は荒れ果てた。
現在は、再開発や観光施設の充実を図るなど経済的回復を進めている。

以上がレバノン内戦の概要です。

観光6日目は首都ベイルート市内で、先ず国立博物館を訪れました。
内戦の主戦場となったベイルートは東西に分裂し、国立博物館は「グリーンライン」とよばれる東西の分離帯の真上に位置していました。
内戦の破壊から収蔵品を守るため、関係者は小さなものは地下の倉庫に、大きなものは周囲をコンクリートで固めて守り抜きました。
そのお陰で、私たちは素晴らしい収蔵品を見ることが出来るのです。
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アルファベットの原形となったフェニキア文字。
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フェニキア文字の解読のきっかけとなったアヒラムの石棺の彫刻。
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石棺に刻まれたフェニキア文字。
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これは別の石棺で、王と王妃を収めたと思われます。
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棺に刻まれたレリーフでは、ホメロスにあるトロイ戦争におけるアキレスの活躍が描かれています。
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その裏側のレリーフでは、アキレスの死を描いています。
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出土した紀元前の彫刻にはエジプトに影響が見られます。
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天使のレリーフは、ローマ時代のものでしょうか。
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墓地から出土した石棺。
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国王の墓から出土した副葬品、兵士を象ったものと思われます。
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貝紫色は巻貝の分泌液を特殊に処理して得られる紫で、フェニキアのティルスで多く生産されたことからフェニキアの紫と呼ばれていました。貴重な交易品です。
カエサルの紫のマントやエジプトの女王クレオパトラの旗艦の帆が、この貝紫に染められていたことは有名です。
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大理石像で、大理石はレバノンでは産出されないのでエジプトから調達したのでしょう。
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その他、いくつか。
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この後はベイルート市内観光になります。
連載は次回が最終回となります。


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by kanekatu | 2018-04-28 04:15 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・10(バールベック・下)

バールベックのランドマークともいうべきバッカス神殿です。
これが見たくてはるばるレバノンまでやって来たのです。この角度から眺められるは、ジュピター神殿の床面がいかに高いかを示しています。
私も今まで世界の色々な遺跡を見てきましたが、これほど巨大でこれほど美しい建築物を見たことはありません。
写真中央の一番下あたりに、米粒ほど人の姿が見えますが、それで大きさが想像できると思います。
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人の姿を拡大したもの。
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この神殿は破壊からは免れたのですが、何度か大地震にあって風化も進み、壊れてはきています。これは柱の最上部にあった彫刻で、雨水はこのライオンの口から吐き出されていました。
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神殿入り口の階段、神殿の床の高さは5m。
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アーチの天井部分にはこうした細かなレリーフが施されています。
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バッカス神殿の内部で、ただただ巨大。かつてはレバノン杉で天井が作られていました。
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柱にはこうした細かなレリーフ、気が遠くなるような作業だったんでしょう。
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壁面のレリーフ。
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壮麗さと繊細さの融合とでも言えましょうか。
柱の最上部には全て彫刻が置かれています。
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これは壁面の落下物ですが、クレオパトラが彫られています。
神殿にクレオパトラとは意外な感じもしますが、祀っているのが酒神バッカスだからでしょうか。
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これも壁面のレリーフですが、日本の見ざる聞かざる言わざるの三猿に似ていて面白いと思いました。
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さて、長いバールベックの観光も終わり、昼食です。
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レバノン観光での昼食は14時から15時でした。朝食をしっかりとっておかないともちません。
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これからはレバノンワインの産地クサラで、ワイナリー訪問とワインの試飲。
このお嬢さんがワインの銘柄を説明しながら、グラスにワインを注いでくれます。すっかり出来上がってしまったせいか、写真がぶれてます。
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この日はいつもより早くホテルに入り、近くのスーパーで買い物を済ませました。
夕食のメインは、忘れました。
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スイーツ。
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次回はベイルートの国立博物館見学ですが、レバノン内戦について触れてみたいと思います。


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by kanekatu | 2018-04-26 09:35 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・9(バールベック・上)

6日目はいよいよバールベック遺跡の観光です。
その前に2ヶ所の観光がありました。
一つは、バールベック近郊にあるニハ神殿の遺跡、ニハ村にあるのでこう呼ばれています。
バールベックとほぼ同じ時期、ローマ時代に建てられたようですが、目的など詳しいことは分かっていません。
こちらの神殿を便宜的に太陽の神殿と呼んでいます。
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そしてこちらが月の神殿。
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名前の由来はこの神官のレリーフで、神官の冠の上に月の形が描かれているからあです(撮影のミスで頭が切れている)。
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神殿の柱の上部にはライオンが彫刻されていて、雨水h雨どいを通ってこのライオンの口から下に流れていたようです。
この構造は、後から見るバールベックのバッカス神殿と同じ形になっています。
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次はバールベックとは目と鼻の先にある石切り場です。距離からしても、ここがバールベック建設に使った石材の供給工場の一つだったんでしょう。
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面白いのは、ここに使用不能と思われる巨大な石材が残されていることです。
一つが1100tや1600tもする石材を何に使おうとしたのでしょうか。
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あまりに大き過ぎて運搬もできずに、このまま放置されてしまったと想像されています。
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レバノンの中央を走るレバノン山脈と、
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シリアとの国境線となっているアンチレバノン山脈。
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その間に挟まれた地帯をベカー高原と呼んでいます。
バールベックとは「ベカー高原の主神」を意味していて、ここにフェニキアの神ハダド(バアル)が祀られていた事に由来します。本来はフェニキア系の神々の聖地だったわけです。
しかし後にギリシア・ローマ系の神々と習合し、祭神はジュピター・ビーナス・バッカスと呼ばれるようになり、遺跡はこれら三神をそれぞれ祀る三つの神殿から構成されています。
世界でも有数のローマ神殿跡として、世界遺産に登録されています。
BC1世紀頃からローマ帝国の手により最初にビーナス神殿が築かれ、続いてジュピター神殿やバッカス神殿が建てられ、皇帝ネロの時代には神殿はほぼ完成したと見られます。
2.3世紀には中庭や柱廊などの造成も行われました。全体の建設には約400年間を要しました。
しかし4世紀になって、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教を国教と定めた後は、キリスト教徒によって神殿が破壊されました。その後、ジュピター神殿跡はキリスト教の教会に変わったと考えられています。
低い土地にあったバッカス神殿だけは土に埋もれてしまっていたので、破壊を免れて、今日もその雄姿を見ることができます。

バスの車窓から列柱の一部が見えてきました。
いよいよ憧れのバールベックに着きました。
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ビーナス神殿です、神殿の周囲には列柱が配され、庭や池などがあるのでこの様な大きなスペースになるのです。
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ビーナス神殿。
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当時の神殿の復元イラストで、ビーナスという名の通り優雅な姿をしてたんですね。
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この復元イラストがバールベックの全景を表しています。
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右上が主神殿であるジュピター神殿、一段と高い位置にあることに注目ください。土台の高さが7mもあり、この石を敷き詰めるだけでも大工事だったでしょう。
階段を上がると玄関で、次に六角形の前庭があり、そこを通ると神殿の庭になります。ここで様々な宗教的行事が行われていました。
庭の周囲は列柱で囲まれていました。
奥に雄姿を見せているのがジュピター神殿ですが、ここは完全に破壊され、今は神殿左側にあったコリント式の柱6本だけが残されているだけです。
左下がバッカス神殿で、唯一原形を保っています。
左下が、今見て来たビーナス神殿で、大きさの相対比較が出来ると思います。

入り口の階段で、これも残っているのは一部です。
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六角形の前庭部分。
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前庭から神殿の庭に入る入り口。
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床にゴロゴロと転がっている石材にも、こうした彫刻が見られます。
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神殿を取り囲んでいた列柱ですが、向かって左側は完全に破壊され、右側の一部だけが残されています。写真左の一段高くなっている所に神殿がたっていました。
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列柱の一部。
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壁面に残る動物のレリーフ、ライオンでしょうか。
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ここだけ比較的保存状態が良いのは、キリスト教の教会に使用したのでしょうか。
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神殿に残された柱の一部で、直径が2m、長さが3.5mあり、これをタテに3段重ねて柱を作っていました。石材と石材の間はカミソリの刃1枚も入らないほどの精度で、石材の加工技術といい、建築技術といい、現在の技術をもってしても相当に難しいものですから、驚異的としか言えません。
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本来は右側にただ一か所だけ残された神殿の6本の柱が見えるのですが、残念ながら補修中でカバーがされていました。
全てが大きすぎて、写真では伝えられません。

次回はバッカス神殿です。



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by kanekatu | 2018-04-24 07:09 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・8(アンジャール)

アンジーャルはレバノン山脈の麓にあります。
660年から約100年間イスラム帝国を支配したウマイヤ朝の最盛期のワリード1世の命により、アンジャール宮殿は建設されました。
ウマイヤ朝の首都はダマスカスでしたが、アンジャールはベイルートの中継地点に位置して古くから繁栄してきました。
ここからダマスカスまでは50㎞、道路さえ整備されていれば1時間強で着ける距離です。国境の向こうでは今なお血なまぐさい戦闘が行われているかと思うとぞっとします。
遺跡の全景で、総面積は11万4000㎡という広大なものです。
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町は上下水道が完備されていました。
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レンガ積みの間に柔らかい層を作っているのは、地震で壊れないようにするためです。
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通りの両側には600以上の店が立ち並んでいました。
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道路は十字路で仕切られていて、それぞれ東西南北の方向に向かっていました。
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列柱の中で唯一原型をとどめています。これが道路の両側に並んでいたんですから、さぞかし壮観だったのしょう。
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神殿です。
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神殿内部で、かつてはレバノン杉で作られた天井がありました。
壁のデザインがいかにもイスラムです。
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ハマームで、構造は下から蒸気が出てくるローマ風呂と同じです。
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夕食のメインは、ご飯の上に羊肉をいためてトロミをつけたものを乗せた料理。どうもレバノン料理というのはメーザ(前菜)主で、メインが副食という印象です。
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現在、レバノンには約150万人の難民が暮らしていることは以前に紹介しました。
難民キャンプというと何となく仕切りがあって、その向こうに1ヶ所に集められているという印象でいました。
バスの車窓から見る限りでは、あちこちにキャンプがあり、一か所の単位もそれほど大人数というわけではなさそうです。ベイルートの町の中にもありました。
灰色のテントの群れが見えるだけで、市民との間の壁や仕切りはありません。
現地ガイドにどうしても訊きたかったのは、難民に対してレバノンの一般市民はどう思っているのかでした。
微妙な問題だと思いましたが、ガイドは次の様に答えてくれました。
パレスチナ難民については、レバノンでは仕事をしてはいけない事になっているので、直接的な影響はない。他国へ出国する人もいるし、それは自由だ。今でも故郷に戻りたいという人が引き続きレバノンに留まっている。
一方、シリア難民についてはレバノンで仕事をしても良いことになっている。
現在レバノンは不況で、失業率は30%に達している。そこに新たな低賃金の労働力が供給されれば、失業率はますます高くなるのは避けられない。
シリアの内戦も収束しつつあり、早めに帰還して欲しいが、これだけはレバノンだけでは決められず関係各国との調整が必要なので、今は見守るしかない。
同じ難民でもパレスチナとシリアでは扱いが異なるようで、それは恐らくかつての内戦からの影響もあるのでしょう。
ガイドの立場もあるでしょうから、これ以上深入りしないことにしました。


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by kanekatu | 2018-04-22 08:52 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・7(シューフ)

宿泊したティールのアブディーブホテル。
ドアのカギを空けるのに悪戦苦闘、ようやく空けて中からカギを閉めたら今度は開かない。これも悪戦苦闘してようやく空けたが、もし火事でも起きたら焼け死んじゃうという恐怖心から、ずっとカギは開けっ放しにした。
そういうホテルです。
これから泊まる方はご注意を。
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2日目の午前中は、バスで内陸側に向かいシューフへ。
最初の観光はベイト・エッディーン宮殿です。
バシール・シハブ2世が山岳レバノン(レバノン首長国)の首長として、オスマン帝国から任命された1788年から建設が始まりました。
建設には30年を要し、シリアやイタリアから建築家が招かれ、その結果アラブとイタリアのバロックが融合した建物になっています。
宮殿の入り口で、広い庭になっています。
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宮殿より見たダニエルカマル村の風景。
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階段を上がると宮殿の中庭に出ます。
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中庭の噴水。
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来客のレセプションルームで、当時は客が来ると3日間は黙ってもてなし、3日過ぎて初めて訪問の目的をたずね、国王に面会をさせたいたそうです。
悠長なもんですね。
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国王の第一夫人の部屋。
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天井の細工が豪華です。
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国王の浴場(ハマーム)。
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こちらは複数の人が使った浴場ですが、暖かい、とても熱い、冷たいといった部屋に分かれていました。要はサウナです。
天井のデザインが凝ってます。
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宮殿内で結婚式を挙げたお二人。年の差婚? どうでもいいですけどね。
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子どもたちも大勢見学に来てました。
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バスでダニエルカマル村に移動。
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次の観光は、ダニエルカマル村にあるマロン典礼カトリック教会です。

マロン典礼カトリック教会は、レバノンを中心に信者を擁するキリスト教東方典礼カトリック教会の一派で、マロン派と呼ばれています。名前の由来は4 - 5世紀に活躍した聖マロンに由来します。
レバノン国内では人口のおよそ3割程度を占める最大宗派であり、大統領がマロン派から選出される慣行を持つなど、国内外の政治・経済両面において大きな影響力を持っています。
レバノンから外国へ移民し成功をおさめた人も多く、日産のカルロス・ゴーンやブラジル大統領のミシェル・テメルもマロン派の信徒です。
後に述べるレバノン内戦では、マロン派はパレスチナ難民を排斥する側に立って戦いました。
教会の外観。
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この日は特別の日だったらしく、子どもたちや聖歌隊の後進があり、最後はみんなが集合してお祈りをしていました。
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午後からはバスでレバノン山脈を越え、シュトゥーラに向います。


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by kanekatu | 2018-04-20 10:02 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・6(ティール)

ある日ゼウスが天空からフェニキアの王女エウローペーを見初めます。何とか彼女をモノにしたいとゼウスは白い牡牛に姿を変えて近づきます。警戒心のないエウローペーが牡牛に乗ると、雄牛は大空を駆け抜けます。その範囲が今のヨーロッパとなったいうのです。
ヨーロッパの地名もエウローペーが語源となっています。
この伝説も「エウローペーの誘惑」として絵画で題材になっています。
下の絵画はマールテン・ド・フォス作。
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この話がティールと重なるのは、フェニキア文字がティールからギリシャに伝わり、やがてアルファベットとなってヨーロッパ全体に拡がったとされているからです。
かほどにティールはフェニキアの都市国家として隆盛を極めていました。
BC1000年頃に陸地から1㎞ほど離れた小島にティールは都市形成し、フェニキアの首都となります。
BC332年にアレキサンダー大王がここを攻撃しますが、猛烈に抵抗します。苦戦した大王は艦隊を終結し、陸と小島の間を埋め立てティールを陥落しました。
以後、小島は陸続きとなり今は半島になっています。
現在はローマ帝国時代の遺跡が残されています。
ローマ時代は一つの町でしたが、間に道路や家がたち陸側と海側に分断されています。
最初は陸側の遺跡から観光。
凱旋門。
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町の入り口で、ここからが東西に走るメイン道路です。真ん中を馬車が通り両側が歩道となっていました。
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道路の両脇にはこうした列柱が並んでいて、今は一部が残っています。
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ローマの象徴ともいうべき水道橋。
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水道橋を断面から見ています。
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競技場で、2頭だての馬車の競技が行われた会場ですが、今はこのスタンド部分だけが残されています。これが全周を囲んでいたんですから、さぞかし壮観だったでしょう。
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ミータと呼ばれる石を7度回って早さを競うというルールでした。映画の場面を想像してしまいます。
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長さが480mあり、オリンピックの競技場を思わせます。
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ここからは海側の遺跡の観光となります。
遺跡がここで切れていますが、この先が陸側とメイン道路で結ばれていました。
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家屋が並んでいた跡で、おそらく商店だったと思われます。
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モザイクの通りの跡です。馬車は通らなかった道路だったんでしょう。
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道路脇の列柱。
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ローマ浴場。
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競技場で、陸側に比べ規模は小さいですが、観客隻がよく残っています。
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遠くに見えるのが古代ギリシャの柱。
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遺跡を先に進むと海が見えてきます。
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ここが港で、方向がエジプトに向いていることからエジプト港と呼ばれています。
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ティールの町で出会った花嫁花婿、幸せそうですね。
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夕食で、この日のメインは海鮮料理でした。
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フルーツはカットされずに丸ごと出てくるのがレバノン流、どれも美味しかったですよ。
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by kanekatu | 2018-04-18 09:54 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・5(シドン)

4日目の最初の観光はシドン郊外にあるエシュムーンです。
エシュムーンは狩りの好きな美青年でしたが、愛の女神アステルタに言い寄られ、逃れるためにエシュムーンは自殺してしまいます(モッタイナイ)。
悲しんだアステルタは彼を神として生き返らせます。

そうした伝説に基づきBC7世紀に建立されたのがエシュムーン神殿ですが、4世紀にローマによって破壊されてしまいます。
エシュムーン神殿でわずかに壁の一部が残されています。
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床にモザイクが敷き詰められていたようで、一部がこの様に残っています。
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大学のボランティアによってモザイクの修復作業が行われていました。
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シドンはベイルートから地中海に沿って南に40㎞、レバノン第3の都市です。
紀元前12世紀にはフェニキア人の都市国家として、交易の拠点として繁栄します。
BC6世紀からのペルシャ時代にはペルシャ第5の州都として最盛期を迎え、またガラスの産地としても有名でした。
その後は沿岸部の重要な軍事拠点として、ローマ、十字軍、トルコなどから侵略を受けて、多くの遺跡が残されています。
海の城塞です。
12-13世紀にかけて十字軍との攻防の砦となり、最終的には十字軍の城塞となりました。
その後破壊され、ビザンチン時代に橋がかかり陸とつながりました。
城門。
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城塞よりシドン旧市街をのぞむ。
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城塞の内部。
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城塞の先端から地中海をのぞむ。
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旧市街のスーク近くにあるキャラバン・サライです。陸上輸送されたものはここで交易が行われました。
1階にラクダや馬が繋がれていて、2階は宿泊施設がありました。
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シドン旧市街のスーク。この一角に名物の石鹸博物館があります。
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スークの外には露店の店も。
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昼食では、生野菜タップリのメーザ。レバノンは比較的水がいいので、安心して食べられます。
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こちらはモロヘイヤ。
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メインの揚げ物も大皿で出され、取り皿に移して食べます。
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米とナッツと乾燥アラビアパンの盛り合わせで、これもメーザです。海外では米を野菜として所が多いです。
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午後からはティール観光です。


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by kanekatu | 2018-04-17 09:45 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・4(ビブロス)

ビブロス観光に先立ち、レバノンの歴史について簡単にまとめてみます。
・古代オリエント世界
古代にはこの地に住む人々をフェニキア人と呼んでいて、BC3000年頃には歴史の舞台に登場します。
この地からフェニキア人は地中海を渡り、カルタゴ・バルセロナ・マルセイユ・リスボンなど各地に植民地を形成します。
その後フェニキアの勢力は弱体化し、紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれます。
アッシリアの後は新バビロニアやペルシャ、紀元前525年にはアレクサンドロス大王のマケドニア王国の支配下、その後継のセレウコス朝シリアの一部となります。
紀元を挟んでローマ帝国の支配下に、7世紀にはアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれます。
その後も東ローマ帝国、オスマントルコに支配されます。
・レバノンのアラブ化
アラブの一員となったレバノンの山岳地帯は、西アジア地域の宗教的マイノリティの避難場所となります。
キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、独自の共同体を維持してきました。
19世紀頃からマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透してきます。
・20世紀のレバノン
第一次世界大戦後の1919年、サイクス・ピコ協定に基づきフランスの委任統治下に入ります。
1920年にいったんシリア・アラブ王国とし独立を図りますが、フランス・シリア戦争でフランス軍と衝突すると、4ヶ月あまりで王国は瓦解しました。
・フランス委任統治領時代
第一次大戦後、キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノンはシリアから切り離されて、フランス占領下で大レバノンとなりました。
フランスによる委任統治は第二次大戦中まで続き、現在でもフランスとの緊密な関係を維持していますし、国内でフランス語が通じるのもこのためです。
第二次世界大戦後の1941年11月26日に、レバノンが独立しました。

ビブロスですが、フェニキア人の発祥の地として有名です。つまりこの町は5000年も続いているわけです。
アルファベットの元になったフェニキア文字もこの地で生まれました。このことからアルファベット発祥の地と言われます。
フェニキア人はビブロスからレバノン杉をエジプトへ輸出し、地中海貿易の主役へと躍り出ました
後にローマ帝国の支配下に入り、12世紀には十字軍を迎え撃つべく要塞化されます。
「ビブロス」は聖書を意味する「バイブル」の語源ともなりました。
当地の港からエジプトにレバノン杉材が輸出され、その代価としてパピルスなどが輸入され、さらにそのパピルスがこの都市を経由してギリシャなどに運ばれていたので、ギリシャでは紙は原産地のエジプトではなく、積出港のビブロスとして知られる様になりました。やがてパピルスを意味するビブロスから「ビブリオン」(本)という言葉ができ、さらに「ビブル」(聖書)が生まれたというものです。
いずれにせよ歴史的に重要な町で、世界遺産に登録されています。
先ずはビブロス旧市街で昼食を。
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こんな風景も。
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レバノンはワインの産地でもあります。グラスで6ドルほど。
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メーザとしてポテトも多い。
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メインは焼き魚、アジでしょうか。
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ビブロスの港で、フェニキアの時代には地中海交易の中心となっていました。今も漁港として使われています。
建物はかつての城塞です。
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ここからビブロスの遺跡観光です。
城門はBC1600年頃のものの様です。階段と城壁の一部が残されています。
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BC3000年頃の家屋跡と見られます。
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遺跡の高台から見ると海に近いことが分かります。
また遺跡群が町の中にあることも分かり、5000年ものあいだ連綿と続いてきたビブロスの歴史を思い起こさせます。
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神殿がいくつかありますが、これはBC2000年頃に建てられたレシェフ神殿と思われます。レシェフ信仰はオリエント時代にエジプトにも拡がっていきました。
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オベリスク神殿もレシェフ信仰の時代のもので、エジプトの影響を感じさせます。
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十字軍の城は12世紀に十字軍によって建てられた強固な城。
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王の泉は、先史時代からローマ時代まで使われていた井戸です。女神イシスの伝説と結びついてこの名が付きました。
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小さなローマ劇場は3世紀に建てられたもので、もっと大きなものでしたが座席の3分の2が失われています。
現地ガイドはアリーナ(闘技場)だったと言ってました。
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この遺跡では他にフェニキア文字の解読のきっかけとなったアヒラムの石棺も発掘されていますが、実物は国立博物館に移されています。
悠久の5千年の町ビブロス、見ごたえがありました。


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by kanekatu | 2018-04-15 05:08 | レバノン | Comments(2)

憧れのレバノン・3(レバノン杉)

私たちが宿泊したブシャーレは標高1450mですが、周囲は普通の民家が立ち並び高度を感じません。この辺り一帯はガディーシャ渓谷と呼ばれていて、レバノンでも屈指の景観を誇ります。
ブシャーレからバスでさらに5㎞ほど上ると、レバノン杉が自生する神の杉の森に到着しました。
世界遺産に登録されています。
レバノン杉は、紀元前にフェニキア人の繁栄の原点になったことでも有名です。フェニキア人は、当時レバノン山脈全域に自生していたレバノン杉からガレー船を始め、船舶の建造材として使用し、地中海貿易を制覇していました。
レバノンの沿岸部各地にフェニキア時代の遺跡が数多く残るのは、そのためです。
また、木材やレバノン杉からとった樹脂をエジプトなどに輸出していました。
旧約聖書によればソロモン王の宮殿内部はレバノン杉で装飾されていたとあり、建材としても広く使われていたことが分かります。
レバノン国の象徴として、国旗中央にレバノン杉が描かれています。
しかしレバノン杉は長年の伐採がたたり、2004年現在は1200本程度が残るだけになってしまいました。まだ樹齢1200年以上のものが、400本ほど残っています。
現在はレバノン杉を保護すると同時に植樹を行い、その中心がこの杉の森です。

国内で2番目に大きいと言われるレバノン杉です。
木の形から分かるように実際は杉ではなく、マツ科の樹木です。
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標高が高いので、この時期でも雪が残っています。
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樹齢2000年と推定されている木です。
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森の中はこうした遊歩道が整備されています。
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新しい木を植樹していますが、なにせ成長が遅いので育つには長い年月を要します。
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1本の木が二つに分かれたもの。
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枯れてしまった木に彫刻されたもの。一番高い所にあるのが、キリストの磔刑を彫ったものです。
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近くのハリッサ展望台から見たレバノン山脈で、3000m級の山頂は雪に覆われています。
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眼下に見えるのがガディーシャ渓谷にある家々。この景観も世界遺産に含まれています。
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次の観光は、聖アントニオス修道院です。
聖アントニオス(アントニウス、アントニヌス、アントニー)は251年にエジプトに生まれ、キリスト教の聖人です。。
様々な苦行を通して聖人にまで達するんですが、苦行中に悪魔が現れたり、豊満な女性の幻覚を見せたり、暴力で恐喝したりと何とか彼を堕落させようとしますが、アントニオスは悪魔に屈せずにキリストを信じ、人々に信仰を伝え続けたと言われています。
このエピソードは「アントニウスの誘惑」という題材で多くの画家が描いています。
その一つは、ロヴィス・コリント作の下の絵画です。ヒェーと頭を抱えて悲鳴を上げている様子です。
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私ならコロッといかれてますね。聖人になるのは絶対に無理です。
彼を信仰する修道院は各地にあるようで、このブシャーレ近郊のものもその一つです。
崖の中腹にある小さな洞窟は、修道僧が神と出会う場所です。
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修道院に付設された博物館。
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館内に展示されている印刷機。17世紀に制作されたもので、マロン派の聖書が印刷されました。
それまでは手書きだった聖書は、印刷機の登場で一気に大衆の間に拡がるのです。
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狂人の洞窟と呼ばれる岩屋で、精神錯乱になった人を鎖でつないで治すというもの。随分と荒っぽいですね。
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修道院としては12世紀には機能していましたが、この建物は1861年に建てられたものです。外観がイスラム教の寺院に似ています。
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礼拝堂は洞窟の中に作られています。
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午後はビブロスの観光です。


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by kanekatu | 2018-04-13 10:32 | レバノン | Comments(2)

憂きな中にも旅の空


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