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四谷第六小時代(7)

通学してくる子供は、大きく3つの階層に分かれます。
先ずJRの陸橋を渡ってくる神宮外苑方面からくる生徒達ですが、見るからに裕福そうな子供たちで、概して成績も良かった。同級生同士、自宅に遊びに行き会っていましたが、この子たちの家には遂に行くチャンスが無かった。
次は学校から千駄ヶ谷方面に向かう子供たちで、いわゆる中流階級の子たちでした。
自宅に行くと、若い綺麗なお母さんがいて、お菓子も出してくれて、本を読み聞かせてくれて、といった思い出が残っています。
後は四谷3丁目方向へ向かう子供とJR信濃町駅方向に向かう子供、この中に私も含まれますが、この子たちは最も庶民的で、成績も中から下の子が多かったように記憶しています。

同じクラスに横田という男子生徒がいまして、こいつの仇名が物知り博士でした。とにかく百科事典のようなヤツで、何でも知っていました。何か尋ねると、直ぐに答えが返ってくるのです。
相撲の大ファンで、歴代横綱の名前をスラスラ言えましたし、東京六大学野球のこと、自動車の車種から、政治問題まで、とにかく良く知っていました。
彼から、今日本が再軍備に向かおうとしていて、それをどの党が推進し、どの党が反対しているか説明を聞きました。彼は再軍備阻止のためには、反対党が勢力を伸ばさなくてはならないと言ってました。小学校2年生ですよ。
西郷隆盛をそのまま子供にしたような風貌をしていた横田君、どうしてますかね。
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by kanekatu | 2005-03-21 00:30 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(6)

3年生の私たちのクラス担任は佐藤正典先生といって、福島の猪苗代湖の近くの出身でした。
戦争中は台湾戦線に行っていたらしいのですが、とにかく厳しい先生でした。
授業中は、常に先生の目を見ろと言われ、視線を外すと“集中!”の掛け声が飛んできます。
胸をはれ、目を見ろで、従わないと容赦なくビンタが飛んできます。
ビンタといっても、手の甲をピシリと叩くのですが、これが結構痛い。
体育の時間は雨が降ると、体育館(これも中野の新井、向台両小学校には無かったし、アタシの場合中学にも無かった)で行進の練習をさせられるんですが、背中が曲がったり、手足が真っ直ぐに伸びていないと、これまた男女に関係なくビンタです。
だから授業中は、いつもピリピリした空気が漂っていました。
今の人からは想像がつかないでしょうが、昭和30年くらいまではどの学校でも、先生が生徒に体罰を与えるなどということは、ごく普通でした。細い竹の棒を持って授業する先生さえ、珍しくなかったのです。
しかし厳しい反面とても優しい良い先生で、生徒には人気がありました。
毎朝今でいうホームルームの時間は、作文を書かされました。翌日には添削されて戻されます。
この繰り返しが、私の作文能力を多いに高めてくれました。
話すときは人の目を見る、手足を伸ばして歩く、そして文章を書く、この3点は佐藤先生に鍛えられて、現在でも私の身に付いています。

〔追記〕
担任の佐藤正典先生について、新宿区立四谷第六小校長・菅野静二様よりご連絡頂きましたこと、深謝いたします。
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by kanekatu | 2005-03-17 22:29 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(5)

c0051938_21105121.jpg中野の小学校から四谷第六小学校に転校して、そこは別世界でした。
場所は慶応病院の裏手で、正門側のJRの陸橋を渡ると、神宮外苑です。
校舎の横の坂を下ると、千駄ヶ谷になります。
校舎が鉄筋コンクリート造りなのに 先ず驚きました。中野は木造で、一度台風が来たときには屋根が飛んで、しばらく休校になったような校舎でしたから、大違いです。
廊下も壁もコンクリートで、窓はスチールのサッシでした。
それから音楽室があるのに、ビックリしました。中野の小学校では、教室の隅にオルカンが置いてあり、音楽の時間になると先生がそこでオルガンを弾いてましたが、四谷は違うのです。音楽の時間になると、音楽室に行きます。部屋にはグランドピアノが置かれていました。
サイドの壁にはベートーベンやモーツアルトといった大作曲家達の肖像が飾られ、正面の壁にはシューベルトの“魔王”をモチーフにした油絵が飾ってありました。
やがて、授業開始時刻になると、音楽の女教師が白いブラウスと脛まである長い黒のスカート姿で、入ってきます。もう何か、とても荘重な雰囲気に包まれていました。
図画の時間になると、同級生に山本という女の子がいて、その父親が画家なのですが、その人が教室に入ってきて勝手に教えてました。図画の先生も黙認してました。
それから運動会の応援歌も、“♪勝って兜の緒を締めよ、共に手をとり助け合い、明日に備えん一戦の 第六健児の意気込みよ 意気込みよ♪”と歌っていたのですから、まあ実に格調高い学校でした。
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by kanekatu | 2005-03-16 00:06 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(4)

c0051938_1633415.jpg何せ信濃町という所は場所が良いのです。
歩いて2-3分のところに慶応病院や池田勇人、犬養健、高碕達之助といった戦後の政治史に残るそうそうたる代議士の自宅がありました。吉田内閣の大蔵、法務、通産の各大臣が、近い距離に揃っていたのです。
近所の遊び仲間というと、この高碕さんの孫と、隣の米軍将校の息子、犬養家の門番の息子、そしてアタシの4人でした。高碕さんの孫は学習院、米軍の子はアメリカンスクール、後の二人はもちろん区立小学校なのですが、なぜか当時は一緒に遊んでました。
遊びの中心は西部劇ごっこなのですが、その米軍の子は映画に出てくる様なカウボーイの衣装を持っていて、しかもライフルや拳銃のおもちゃを持っているのですから、圧倒的に立場が有利です。
いつもヤツが保安官で、日本人の我々がインディアンという役なのは大いに不満でした。最後は必ず撃たれて倒れる役なんですから。
でも当時持つとズッシリくるおもちゃの銃なんて、誰も持っていないのですから、これに触らせて貰えるだけで感激でした。第一、日本は未だアメリカの占領から独立して間が無かったのですから、余り文句も言えなかった。
米軍の子は英語しか喋らなかったのですが、ガキ同士はちゃんと意思が通じて遊んでいました。“ヘイ、ラリー(そいつの名前です)、カモン!”ってなもんで。
アメリカ人の家に上がる時土足のままだったのが、とても奇妙に感じました。
米軍将校夫妻は子供好きで、優しくしてくれました。
当時通産大臣を務めていた高碕達之助さん(左上写真)が帰宅するときは、家族、使用人全員が門前に整列し待ち、車から降りてくると一斉に頭を下げて挨拶していました。
達之助さんは家いる時は大抵ガーデニングをしていて、庭で顔を合わせて挨拶するといつもニコニコ笑っていました。
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by kanekatu | 2005-03-14 00:30 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(3)

反対側の隣は、新婚の運転手でした。
この人は、戦争中足に銃弾を浴びて負傷したときに米軍の捕虜になったそうです。太ももに銃弾が貫通した痕があり、もし日本軍の病院に送られたら足を切断されただろう、自分はアメリカに助けられてと云ってました。昭和26年当時の日本人は、概してアメリカに好意的でした。
オヤジたちコックは役員の賄いだけなく、BOAC航空機の機内食を作っていました。この信濃町から羽田空港へ毎日機内食を運ぶのも、運転手の仕事です。私は、毎日夕方になると運転手たちに頼んで、この運搬車に乗せてもらいました。途中銀座通りを通るのですが、ネオンに包まれた街の風景を見るのが、最高の楽しみでした。
BOACの乗客向けに当時珍しかった二階バスが運行されていました。
時々従業員達が集まって、家族同伴の小旅行をしたのですが、その時はこの二階バスを利用しました。そうすると、通行人が皆珍しそうにバスを眺めるんです。この時は、ちょっと得意な気分になりましたね。
夏休みに入ると、ゴザを持って神宮外苑に行き、一日中木陰に寝そべっていました。
アイスキャンディを食べたり、アメリカ人たちが野球をするのを見たり、昼寝をしたり、ノンビリと過ごしたものです。また住宅の裏が林になっていたので、木登りをしたり、ターザンごっこをしたりして、友人達と遊びました。
中野と比べても当時の信濃町は、はるかに子供の遊び場が沢山あったわけです。
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by kanekatu | 2005-03-12 00:34 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(2)

そのBOAC役員の屋敷を取り囲むように、従業員の家がありました。
役員達はむろん全員が英国人ですので、英語しか話しません。日本人の中では、マネージャーと呼ばれていた年配の男の人が英語が達者なくらいで、中学1年生の英単語を話す程度でした。
英国人は無愛想で、私たち子供を見ても声を掛けることはありませんでした。この点は、子供好きのアメリカ人とは雲泥の差です。
それに、良く言えば物を大切にする、悪く言えばケチでした。しかも細かいと、よく従業員の人たちがこぼしていました。今でも覚えているのは、ハンカチに穴が開くとメイドさんにいい付けて、繕わせていました。当時日本人でも、ハンカチを穴が開くほど使う人は滅多にいなかったので、このしまり屋ぶりは強い印象が残っています。
メイドさんは二人いて、一人は若くてきれいな人でしたので、独身の男性従業員から良く声を掛けられていました。
もう一人のメイドさんは当時40歳過ぎくらいのオールドミスで、若林さんという人でした。この人が隣に住んでいたのですが、大の寄席ファンなのです。若林さんに連れられて、母親と私が新宿末広亭に頻繁に通うようになり、私の落語好きが始まるのです。
ところが、この若林さんは、寄席に行っても絶対に笑わない人なのです。私はいつか笑うだろうと、ずっと彼女の顔を見ていたことがありましたが、一切笑いません。この人、一体何が楽しくて寄席に来るんだろうと、いつも不思議でした、
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by kanekatu | 2005-03-10 00:11 | 生い立ち | Comments(0)

四谷第六小時代(1)

私は生まれも育ちも東京・中野で、22歳のときに母親の実家がある川崎・多摩に移るまでは、通算すると20年は中野にいたことになります。
途中1年半ほど四谷の信濃町という駅から歩いて2-3分の所に住んだことがあります。
昭和26年の夏で、小学校2年の夏休みの時です。
ここに引っ越したのには訳があって、中野の店が立ち行かなくなったことと、借家が立ち退きを迫られたことです。
元々オヤジは腕の良いシェフ(当時はコックと言ってましたが)でしたが、ああいう仕事をしている人というのは、最後は店を持つのが夢なんです。
それで戦前中野にカフェ(今で言うバーかスナックのようなもの)を開き、一時はホステス(当時は女給)を何人も置くほどの繁盛だったようですが、何せ戦争が始まったものですから、もう店どころじゃあない。戦後も混乱期で、そんなに客も来ない、最後は店をたたむしか無くなったわけです。
オヤジは、当時BOACというイギリスの航空会社の役員が住む住宅の調理人に就職しました。
その宿舎が信濃町の近くにあったものですから、そこの長屋に調理人やらお抱え運転手やら、メイドさんやらが住んでいた、その一軒に家族が移り住んだというわけです。
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by kanekatu | 2005-03-08 00:23 | 生い立ち | Comments(0)

憂きな中にも旅の空


by kanekatu
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