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三度(みたび)のインド(2016/1/13-1/20)1

1月13日から8日間の日程でインドのツアーに参加しました。参加者は13名、旅行社はクラブツーリズム、添乗員はSさんでした。
インド訪問は過去、30年ほど前に一度、11年前に一度と、今回が3度目になります。最初に訪問した時にはあまりの不潔さと暑さに参り二度と来るかと思ったのですが、三度目になったのはそれだけインドという国に魅力があるからだろうと思います。
今回は暑さを避けるためと、この時期が乾季である所から1月を選びました。

今回の旅の目的はズバリ、インド中央部に位置するデカン高原にある二つの宗教遺跡―アジャンタ石窟とエローラ石窟―の見学です。インドを、と言うよりは世界を代表する宗教遺跡ですが、ようやく訪れる事が出来ました。

下にインドの地図を掲げますが、東西と南北の端から端までの距離でいえばヨーロッパの主要部がスッポリと埋まる程の長さの大国です。
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正式国名はインド共和国。政治は連邦共和国で州の権限がかなり強い。観光バスが州をまたがる時に州税を支払う姿が見受けられました。首都はニューデリー。
国土は329万㎡で世界7位、人口は13億人を突破し世界2位ですが中国を追い越すのは時間の問題です。
人種はトルコ・イラン系、インド・アーリア系、ドラヴィタ系、モンゴロイド系などに分かれます。
宗教の割合はおよそ次の通り。
ヒンドゥー教 80%
イスラム教 14%
キリスト教 2%
シーク教 2%
仏教 1%
ジャイナ教 0.4%
仏教徒が少ないのが驚きです。
言語はヒンディー語が公用語で、他に州の公用語として認められているのが21語あります。インドの紙幣に沢山の言語が書かれているのはこのためです。英語は準公用語で、かなりの人に英語が通じます(通じないのは、コチトラの方)。
識字率は74%と読み書きが出来ない人が全体の4分の1に達していますが、地域差が大きく南部のケララ州では30年程前で識字率が100%と言われていました。
国民一人当たりのGDPは4060ドルですが、現地で聞いた勤労者の平均年収が約6000ドルとのことでした。
通貨はルピー(Rs)で、現在のレートはRs1=1.8円。
インドといえばかつては貧しい国というイメージでしたが、今では中国と並ぶ新興国として世界経済のけん引役を期待されています。

成田での団体集合時間は午前9時でしたが、私はいつも1時間前には着くようにしています。もし途中で電車事故があっても1時間の余裕があれば通常は遅れずに済むからです。現に昨年8月に中国へ行った時は事故に引っ掛かりましたが何とか時間に間に合いました。
旅程は成田空港発11時30分のエア・インディア307便で17時50分デリー空港に到着。そこからデリー発20時のエア・インディア805便に乗り継ぎ、22時15分にムンバイ空港に到着しました。
感心したのはデリーームンバイ間の国内便がほぼ時間通りだったことです。この後も3回エア・インディアの国内便を利用しましたが遅れは最大で1時間程度で、以前に比べれば夢の様です。
空港もかつての汚い臭いというイメージは一掃され、近代的な設備に生まれ変っていました。
現地ガイドはサルマさんで、スルーガイドです。
空港内にいる時はこれがインドかと疑う程でしたが、バスでホテルに向かうといきなりスラムが眼に入りやっぱりインドだと実感できました。
ムンバイのホテルに到着し荷物整理しシャワーを浴びて就寝したのは現地時間で午前0時を回っていました(日本との時差は3時間30分)。翌朝は5時45分にモーニングコール、6時より朝食で出発が7時ですから大忙しです。
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by kanekatu | 2016-01-26 10:07 | インド | Comments(2)

中国シルクロード旅行記(2015/8/14-21)(1)出発

2015年8月14日から21日まで中国シルクロードのツアーに参加しました。旅行社は阪急交通社、添乗員はMさん。
参加者は20名で、通常のツアーに比べて男性の一人参加が多いのが特長です。
コースは西安―ウルムチ―トルファン―敦煌―西安を巡るのですが、途中に新疆ウイグル自治区を通るため、治安上の問題から一時期ツアーが中断されていました。昨年頃からようやく再開され、徐々に参加者は増えてきているようです。

中国訪問は今回が5度目(香港を除く)で、前回から9年経ちました。この間の中国の経済成長は目ざましく、GNPでは日本を追い越し世界2位になりました。しかし、今年に入ってからは不動産バブルの崩壊や金融市場の不安定などの要因から、経済成長の鈍化が顕著になっています。
日中関係は領土問題や南シナ海の埋め立て問題をめぐる対立から、国交回復後では最悪の状態になっています。
今の日中関係について中国側に全ての責任があるかのような言説が流れていますが、現在の安倍政権の歴史認識、とりわけ大東亜戦争(日中戦争+太平洋戦争)における中国への侵略を否定するがごとき態度にも大いに責任はあります。当時の行動を正当化し反省しないとなれば、相手国としては日本が再び同じことをしてくるのではという疑念が生まれます。
そうした相手国の危惧を払拭するためには、過去を直視した正しい歴史認識の上に立った誠実な態度が求められると思います。

今回のツアーのタイトルである「シルクロード」という言葉ですが、定義は分かってるようで良く分からない。
「シルクロード」という名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが著書の中で、「Seidenstraßen」(ドイツ語で「絹の道」の意味)として使用したのが最初で、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼びました。絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられたものです。
今日では中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称として、広くは近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指しています。
東側の起点としては西安(長安)とする説が一般的ですが、他に洛陽や、日本の奈良という説もあります。西側の起点もローマ、イスタンブール(コンスタンチノーブル)、シリアのアンティオキアなどの説があります。特定の国家が定めたものではないので、定説が無いのは当然のことです。

「シルクロード」というと何か決められたルートがあるように思われるかも知れませんが、そのルートも多様です。
ルートは大きく、
・「草原のシルクロード」
・「オアシス(砂漠)のシルクロード」
・「海のシルクロード」
に分かれます。
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この内の「オアシスのシルクロード」も大きく、
・天山山脈の北側を通る「天山北路」
・天山山脈の南側を通る「天山南路」
・崑崙山脈の北側を通る「西域南路」
に分かれます。
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加えて交易は東西だけでなく南北でも行われていたので、ルートはさらに複雑になります。
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時々、自分はシルクロードを全て制覇したなどと自慢する人がいますが、実際には不可能に近い。
この旅行記のタイトルも本来は「中国国内のシルクロードの極く一部」とした方が正確です。

スタートは8月14日、キャリアは中国東方航空。成田空港16時55分発で、上海でトランジット(入国審査)、西安着が23時45分(日本との時差は1時間)。ホテル到着は15日の午前1時頃になりました。スーツケースと手荷物の整理を終えシャワーを浴び終わったのは午前2時近く。
朝からの観光に備えて先ずは一眠りです。
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by kanekatu | 2015-08-25 16:19 | 中国 | Comments(2)

西バルカン6ヶ国周遊記13(ボスニア紛争・考)

ボスニア・ヘルツェゴビナの地図は下記の通り。大まかにいうと北部をボスニア地方、南部をヘルツェゴビナ地方とよび、この両者が合わさって国名となっています。
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ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側2辺をクロアチア、南側1辺をセルビア、モンテネグロと接しています。
国旗は下記の通りで明らかにEU指向です。
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この国の現状はもう少し複雑です。
いわゆるボスニア紛争は、1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し終結しました。
デイトン合意の定めにより、クロアチア人およびボシュニャク人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が主体のスルプスカ共和国という二つの構成体によって構成される事になりました。両者が権利を主張して合意に至らなかったブルチコについては、2000年の裁定によって独自の行政区「ブルチコ行政区」として、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の直轄地とされました。
このようにボスニア・ヘルツェゴビナという国は三つの構成体から成っています。
下の地図はその構成体を示しますが、それぞれボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(青)、スルプスカ共和国(赤)とブルチコ行政区(緑)で表示しています。
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それではボスニア紛争について簡単に振りかえってみましょう。
その前に少し歴史をさかのぼると、バルカン半島の国々は中世以来オスマン朝の支配下にありましたが、これに抵抗してボスニア・ヘルツェゴビナの住民が蜂起し、やがてこれが露土戦争へと発展します。オスマン朝の敗北とともに自治権を獲得しますが、オーストリア=ハンガリー帝国の軍事占領下に置かれてしまいます。こうした中でスラブの統一を目指す青年ボスニア党が結成されます。
1914年、青年ボスニア党のメンバーの一人が、サラエボを訪問中だたオーストリア皇太子夫妻を暗殺し、これが引き金になって第一次世界大戦が勃発します。大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国に組み入れられますが、1941年のドイツの傀儡国家クロアチア王国が出来ると今度はそちらへ組み込まれます。
1945年ドイツから解放されるとユーゴスラヴィア連邦共和国が結成され、ボスニア・ヘルツェゴビナもその一国となります。

1990年に一党独裁が放棄され多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになります。1991年から旧ユーゴ各国が次々と独立し独立戦争や民族紛争が始ると、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備し始めます。
正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちはユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人(旧ムスリム人)や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望みます。

1992年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立します。多数者のボシュニャク人の指導者たちは、自分たちが実質的にボスニア・ヘルツェゴビナを支配できると考えていました。これに対してセルビア人やクロアチア人はボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗します。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、それぞれ独自の議会を持ち、武装を進めてゆきます。

ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、やがて「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言します。
独立に伴い1992年5月にユーゴスラビア人民軍が撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となりました。
またヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、軍事組織としてクロアチア防衛評議会を設立します。

2つの民族ごとの分離主義国家とボシュニャク人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈してゆきます。その結果それぞれの民族から異民族を排除する目的で虐殺や暴行といった民族浄化が繰り広げられました。
1994年にはアメリカの主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立しますが、これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、これに対抗したセルビア人側の勢力に対しNATOによる空爆などの軍事介入も行われました。
1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結しました。

合意により、クロアチア人・ボシュニャク人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国というそれぞれ独立性を持つ国家体制を形成し、この二つが国内で並立する国家連合として外形上は一国と成しています。
領土配分は、スルプスカ共和国が約49%、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が約51%とされ、両国はそれぞれの主体が独自の警察や軍を有します。

およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万人、難民・避難民200万人が発生したほかレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となりました。

ざっくり言ってしまえば、ユーゴスラヴィアから独立しようとしたボシュニャク人とクロアチア人に対し、これに反対したセルビア人とが戦い、当初はユーゴスラヴィアから支援を受けてセルビア側が優勢だったが、アメリカとNATOの支援を受けたボシュニャク人とクロアチア人側が勝利し独立が維持されたという事になります。
この紛争では自分たちの「正義」をいかに国際世論に訴え正当化するかという情報戦が、紛争の帰趨を決定づけたという見方があります。国際的なPR企業の存在で、時には写真が捏造され加害者と被害者を逆転して宣伝する事まで行われました。
いまわが国でも問題となっている「集団安全保障」が往々にして「悪いヤツを皆で懲らしめる」手段として使われてきましたが、その「悪いヤツ」が世論操作によって作り上げられる事もあるわけです。
こうした「戦争広告代理店」の暗躍には、これからも十分注意してゆかねばならないでしょう。

旅行記からだいぶ外れてしまったようですが、ボスニア・ヘルツェゴビナを訪問したのを機会に改めてあの時の紛争を振りかえってみました。
長くなってしまったので、本論の旅行記は次回に回します。
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by kanekatu | 2014-06-27 07:16 | ボスニア・ヘルツェゴビナ | Comments(2)

西バルカン6ヶ国周遊記10(モンテネグロ1回目)

観光6日目の夜に4番目の訪問国モンテネグロに入国、つまりこの日でツアーの半分が終わったことになります。
「黒い山」という国名通り、国境を越えると黒い山が目の前に現れます。
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街の風景も今まで通ってきた国々とは様子が異なります。
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地図は下記の通りで、南西部はアドリア海に面し、北から時計回りにクロアチア・ボスニア=ヘルツェゴビナ・セルビア・コソボ・アルバニアと国境を接しています。
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国旗は下記の通り。
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正式国名はモンテネグロ、余談ですが日本の漢字で国名は「黒山」と表記されます。もしこの国と同盟を結ぶと「日黒同盟」となりますね。面積は1万3812k㎡で福島県とほぼ同じ、小国です。人口は62万人。
首都はポドゴリツァとされていますが、憲法には首都はツェティニェとあるそうで良く分かりません。
政体は共和政。民族構成はモンテネグロ人45%、セルビア人29%、モスレム9%、アルバニア人5%など。
宗教は、74%が東方正教会、イスラム教が18%となっています。
公用語はモンテネグロ語。通貨はユーロ。

モンテネグロは中世以後オスマン朝に支配されますが、1799年に独立を勝ち取ります。1910年にはモンテネグロ王国となりますが第一次大戦でオーストリアによって占領され国王は逃亡。その後セルビア軍によって解放され、1929年にユーゴスラヴィア王国に、第二次大戦後はチトーの下に連邦制の社会主義国に移行してゆきます。
1990年代になってユーゴが解体するに伴い、他の共和国は次々と独立を果たしますが、モンテネグロは最後までセルビアと歩調を合せます。しかし1999年にNATO軍によるセルビア空爆が始まり、ミロシェヴィッチ政権が崩壊するとモンテネグロも次第に独立を志向するようになります。
2006年の国民投票で独立支持が過半数となり独立を宣言します。
現在はEU加盟を目指しています。
ただ小国であり農業以外にこれといった産業がなく、経済的に自立してゆけるか不安視する向きもあるようです。

バスがアドリア海沿岸に出ると景色は一変します。夕暮れのアドリア海
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最初の訪問地ブドヴァに到着、先ずは夕食でビール。
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写真を撮り忘れてしまいましたが、この国はワインが美味い。今回の旅行で唯一の土産としてモンテネグロの赤ワインを買って帰りましたが、家族には大好評でした。ボトルが6ユーロ位で買えます。
メインが魚なのはさすが海辺です。
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ホテルは”MONTENEGRO”、分かり易い。
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リゾートホテルなのでプール付き。
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ブドヴァはモンテネグロ屈指のリゾート地で海水浴場としても有名ですが、なんと言っても中世の面影を残す旧市街の街並みが魅力です。
さあ、ご一緒に街を散歩してみて下さい。
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スロヴェンスカ・ビーチは未だシーズンで無いので人影が少ない。
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よく見るともう泳いでいる人もいました。
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中世気分をタップリ味わった後は、次の観光地コトルに向かいます。
次は11、12回を同時にアップします。
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by kanekatu | 2014-06-25 09:06 | モンテネグロ | Comments(2)

西バルカン6ヶ国周遊記8(アルバニア1回目)

今回のツアーの訪問国は6ヶ国ですが、途中クロアチアも通過するのでバスでの国境越えは6回となります。それぞれに出国、入国手続きが要りますからこれで12回、この他にボスニア・ヘルツェゴビナではNATOの検問所での手続きが加わり13回、ドライバーのトメさんはその度に我々のパスポートと現金を握りしめ走り回るのです。
観光5日目はオフリドを出発、アルバニアへ入国した後ベラートの街に向かいます。

アルバニアの地図は下記の通りで、バルカン半島南西部に位置し、西はアドリア海に面し、北はモンテネグロ、東はマケドニアとコソボ、南はギリシャと国境を接しています。
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国旗は下記の通り。
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正式国名はアルバニア共和国、面積は2万8700㎡で四国の約1.5倍、人口は280万人、首都はティラナ。
民族構成はアルバニア人が大多数、宗教はイスラム教徒が多いが、他にカトリックやアルバニア正教などキリスト教徒もいる。無宗教の人が多いのはこの国の特長。公用語はアルバニア語。
通貨はレク(Lek)、1Lek=約1円と分かり易い。

アルバニアは15世紀からおよそ400年間オスマン朝の支配下にあり、第一次バルカン戦争を経てようやく独立を達成。しかしその後も政情不安は続き1939年にはイタリアに併合され、二次大戦でイタリアが降伏するとドイツが侵入、1945年にドイツが降伏するとソ連が入ってきます。
1946年にホッジャを首班とする共産主義政権が樹立しますがスターリン主義に傾倒してゆき、当時ソ連と対立していたユーゴスラヴィアとは断交してしまい孤立を深めます。
中ソ論争の際はソ連と対立、中国へ接近し文化大革命を支持します。その影響から世界で初めて無宗教国家を宣言、中国の文革が挫折し開放路線に転じると今度は中国から離反します。
時々の最高権力に従って右往左往しているかの様です。
ホッジャが死去し1990年になってようやく民主化が行われ資本主義へ移行します。処が1997年には全国的なネズミ講により国民の財産の3分の1が失われるという信じがたい事態を招き、政府の責任を追及する暴動が各地で起こります。
現在は混乱から復活して経済も順調に伸びているようです。
かつては鎖国状態でしたが、今は観光客も積極的に受け入れています。
EU加盟を目指して現在準備中。
NATOには2009年に加盟しています。

アルバニアに入って先ず気付くことは道路事情が悪いという点です。至る所で拡幅工事が行われていて、未舗装の道を曲がりくねりながら走ることになります。なぜかというと、民主化前のアルバニアには全国で乗用車が500台しかなく、幅の広い道路は必要が無かった。そこへ一気に資本主義化が始まったので、インフラが追い付かないのです。
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もう一つ目に付いたのは、工事の途中のまま放置されている住宅です。下の写真のように新しいものなら分かる気がしますが、中には建て始めてかなりの年数が経っているものも少なくない。取り敢えず枠組みだけ建てて資金が出来てから完成させるのかも知れませんが。アルバニアでは共産主義政権が崩壊し民主化が始まった混乱期には他人の土地に自由に住宅を建てる人も多かったそうで、あるいはその名残りでしょうか。
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全ての住宅の屋根に給水タンクが取り付けてあるのも特長です。時々水が止まるので予備のタンクは必須のようです。
インフラの整備はまだこれからという状況の様です。

ベラート(ベラテイ)はアルバニアで最初に博物館都市を宣言した街です。
先ずは昼食、前菜。
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メインはビールとワインのお供に。
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ベラート城は歴史が古く紀元前4世紀には砦が建てられていたそうですが、現在の城内の建物は13世紀の建造のものが多いようです。
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古い教会。
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城の上からは「千の窓を持つ街」と称されるベラート市街が一望できます。
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城壁の上にはこんな可憐な花が。
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城から下ってベラート市街へ。
建物が同じ方向に向き同じ窓を持っている様子が分かります。
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ただあまり人気がなく街に活気がありません。世界遺産の街としては少々寂しい。
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一歩郊外に出ると、こうした段々畑も見られます。
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この後、首都のティラナへ向かいます。
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by kanekatu | 2014-06-22 09:14 | アルバニア | Comments(2)

ポーランド・北東ドイツ旅行記(2)

ポーランドの地図は下記の通り。
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正式国名はポーランド共和国、国土の面積は約32万k㎡で日本から四国を除いた面積と同等です。
”ポーランド”というのは”平たい土地”を意味していますが、その名の通りどこまでも平地が広がっています。
北はバルト海、西から反時計回りにトイツ、チェコ、スロバキア、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、そしてロシアの飛び地と国境を接しています。

人口は3820万人、宗教はローマ・カトリックが94%で圧倒的、史上初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ二世はまだ記憶に新しいところです。公用語はポーランド語、通貨はズロチ(ズウォティ)、政体は共和政で首都はワルシャワ。
一人当たりGDPが12538米ドルで世界ランキングでは57位というのが最新データです。
ポーランドには日本からトヨタ、ブリヂストン、味の素、シャープ、東芝など254社が進出しており、中東欧諸国の中では断トツです。
それでも若者の失業率は高く、多くの人が他国へ出稼ぎに行っているという現状があります。

国土が同じ陸地でつながっているヨーロッパ諸国は常に他国からの侵略や干渉を受けてきましたが、その中でもポーランドの近代史をみると、東からロシア、西からドイツの領土的野心によって翻弄されてきたことが分かります。
ドイツがロシアを攻めようとする、あるいはロシアがドイツを攻めようとすればどうしてもポーランド攻略は避けて通れません。
14世紀から17世紀にかけては王国を形成しましたが後衰退し、18世紀には3度にわたり国土が隣国に分割されて消滅しています。
第一次世界大戦後の1918年に独立しましたが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツとソ連の侵略を受けて再び国土が分割されました。
戦後の1952年に人民共和国として国家主権を復活、しかし依然としてソ連の影響下に置かれていました。
1989年に民主化を果たして現在の共和国となりました。
かつては東欧の一部でしたが、現在は中欧または中東欧に分類されています。

2日目から観光スタート、この日はワルシャワ市内観光です。
ワルシャワ市内はトラム、地下鉄、バスと公共交通機関が発達していますが、そのトラムを短時間貸し切りで中心部を一周するという企画です。
ちょうど朝の通勤時間帯なので、トラムの駅から大勢の通勤客が降りてきました。
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車窓から見た市内の風景で、これは教会でしょう。
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こちらは共同住宅だと思います。
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これも教会、立派な建物なので有名な教会なのかも知れませんが詳細は不明。
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写真の右側に地下鉄の入り口があり、バスの乗り換え客だと思います。
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超高層ビルを背景に軽食スタンドという取り合わせ。
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ピウスツキ元帥の銅像、第二共和国の建国の父だそうです。
この裏に無名戦士の墓が祀られています。
ワルシャワ市内にはこうした銅像が多数あります。
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見たようなシルエットだと思ったらフランスのド・ゴール将軍の銅像です。
反ナチズムでは共同して戦ったのでしょうけど、他国の人の銅像まで建てるのは珍しいんじゃないでしょか。
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次回はショパンゆかりの地を案内します。
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by kanekatu | 2013-07-30 10:03 | ポーランド | Comments(2)

ジャワ島・バリ島旅行記(1)

2011年7月15日-19日にインドネシアのジャワ島とバリ島を訪れました。目的はジョグジャカルタにある二つの世界遺産の観光です。
私にとって64ヶ国目の訪問国となりますが、なにせインドネシアは東西5100㎞、1万数千の島々からなる大きな国で、そこを3泊5日で行ったのですから、ほんの一部をかすめて来たといった所です。

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正式国名はインドネシア共和国、首都はジャカルタ。
国土は日本の約5倍、人口は2億3千万人を超え世界4位。
約490の民族が住む多民族国家です。
宗教は87%がイスラム教ですが、バリ島に限るとヒンドゥー教。
GDPは約7000億ドルで世界18位、一人当たりでは約3000ドルで106位(いずれも2010年推計)、東南アジアの中では特に貧しい国とはいえません。
通貨はルピアで、現在は1円=100Rpです。

インドネシアは我が国とも深い関係にあり、例えばジャガイモは元々は「じゃがたら芋」の略で同国から渡来したものです。
江戸時代には鎖国政策のために、外国人と結婚した日本人女性はインドネシアなどに追放されました。
その女性たちが故郷に送った手紙が「じゃがたら文」、そうした女性の一人が「じゃがたらお春」です。
戦前の人ならインドネシアよりジャワという名前のほうが通りがいいでしょう。
それぞれ歌謡曲にもその名が登場しています。

「長崎物語」
歌 谷真酉美
(昭和13年)
赤い花なら 曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の あゝ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る

「長崎の雨」
歌 藤山一郎
(昭和26年)
今宵港に きく雨は
沖のかもめの しのびなき
ジャガタラ文なら 片便り
恋の長崎 夜もすがら
ああ 夜もすがら 雨が降る

「ジャワのマンゴ売り」
歌 灰田勝彦&大谷冽子
(昭和17年)
ララララー ララララー
フレームトゥッリーの木陰に
更紗(さらさ)のサロンを 靡(なび)かせて
笑顔もやさしく 呼びかける乙女よ
アー ジャワのマンゴ売り

「バリ島」の名前を始めて知ったのは、1952年に公開された米国映画「バリ島珍道中」で、ビング・クロスビーとボブ・ホープの人気コンビが繰り広げる実に他愛のないストーリーでしたが、わたし同様に多くの日本人がバリ島の名前を憶えた功績は大きかったと思います。

それから中学の時に、「ピテカントロプス・エレクトス」という名のジャワ原人について習いましたが、これはウジェーヌ・デュボワという人が、1891年にオランダ領であったジャワ島トリニールで発見した化石人類です。
当時は直立猿人とされていましたが、その後の研究で人類の祖先であると結論づけられ、名前も「ホモ・エレクトス・エレクトス」 (なんだかイヤラシイ)に変わっています。

そうそう、デヴィ夫人を忘れちゃいけませんね。
インドネシアの国父である故スカルノ元大統領の第三夫人というハイソなご身分だそうですが、それにしちゃぁTVで三流タレントをいじめては小遣い稼ぎをしているような印象で、意外にフトコロ具合は厳しいのかと拝察する次第であります。

前書きが長くなりましたが、今回のツアー名は「神々の郷インドネシア バリ島・ジャワ島 ハイライト周遊5日間」、添乗員は無しで現地ガイドのみ。旅行社は「クラブツーリズム」で、参加者は28名。

次回から本題の旅行記に入ります。
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by kanekatu | 2011-07-24 08:21 | インドネシア | Comments(0)

スペイン・ポルトガル旅行記(1)

スペイン北西部とポルトガルを訪れるツアーに参加し、先日帰国しました。
日程は2010年7月12日~21日の10日間です。
旅行社は阪急交通、添乗員は女性のSさん、往復のキャリアはエール・フランス航空です。
参加者は12名と小ぶりで、一人参加は私以外に一人。
スペインへは2度目で、ポルトガルは63ヵ国目の訪問国となります。
この両国はヨーロッパの中でも西端のイベリア半島に位置し、大航海時代には大西洋を中心に、東はポルトガル、西はスペインで分け合うほどの勢力を持ちながら、その後はヨーロッパの中の後進国の地位に甘んじてきました。
両国の地図は下記のとおりです。

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1990年代には一度繁栄期を迎えますが、ここ数年は経済成長が停滞し、失業率は10から20%にまで上昇、国の財政赤字は対GDP比で10%前後に達し、財政危機といってよい状況に陥っています。
何とかなるさと楽観的なのがスペイン人と、現地ガイドが言ってました。
不況で失業する人も多く、住宅ローンが払えない人もいるけど、払えない人は払わないだけのこと。そのまま住み続けているので何も問題ない。そういう人を追い出そうとしても、法律が守ってくれる。
かつては他人の土地に勝手に家を建て、そのまま住んでしまうことさえザラにあった国だから。
と、まあそんな具合なんだそうです。
私たちからすると、理解不能ですが。
不況や財政危機などどこ吹く風と、いつも通り夏は家族揃って3週間のバカンスにでかける、うらやましい国民性ですね。

さて、スペインというと多くの日本人の頭に描かれるのは「南の国」「情熱の国」というイメージでしょう。
「00スペイン村」などと称する施設にいくと、たいがいは南国の雰囲気が演出されています。
この原因は、私は歌からきているんじゃないかと推測しています。
それは戦後まもない1948年、ボレロ調の軽やかなリズムにのって近江俊郎が歌い大ヒットした「南の薔薇」という曲です。

【南の薔薇】
南のバラそよ風に ほほえむ君の姿
胸に抱き接吻ける 花よバラの花
麗しの月の宵 ともに杯あげ
君よ歌え 恋の歌を
なやましこの胸 燃えたつ恋
南の国スペインの 君はやさしの薔薇

南のバラあこがれの 君こそ花のクイーン
夢の間も忘られぬ 花よバラの花
麗しの月の宵 ともに杯あげ
君よ歌え 恋の歌を
なやましこの胸 燃えたつ恋
南の国スペインの 君はやさしの薔薇

この歌により、
スペイン=南国=情熱の国
というイメージがインプットされてしまったのではないでしょうか。
しかし実際のスペインは、コスタ・デル・ソルなどの一部地域を除いては、イメージとは全く違います。
首都マドリッドを例にとれば、北緯40度を少し超えた位置にあります。
これを日本に置き換えると、秋田県の男鹿半島付近ということになり、むしろ北国といってもよい。
もう一つ、国土の平均標高が意外なことに、ヨーロッパではスイスに次いで第二位なのです。山国なんですね。
知らずに冬にでも行けば、寒さで震え上がるということになりかねません。
そんなスペイン、前回はマドリッドから南に反時計回りでバルセロナまでの周遊でしたが、今回は北へ向かって反時計回りに進み、ポルトガルに入るという行程になります。

(続く)
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by kanekatu | 2010-07-28 09:42 | スペイン | Comments(0)

ラオス旅行記 その1

2009年1月11日~15日、ラオスのツアーに参加しました。旅行社はクラブツーリズム、総勢19名ですが、珍しくご夫婦は1組だけでした。
この時期、乾季の地域ということになると東南アジアか中南米でしょうが、家の事情で短期の旅行しかできないためアジアをというわけで、旅行先にラオスを選んだものです。

ラオスという国は、東南アジアの中でも最も馴染みのない国でしょう。どこにあるのかも良く分からない。そこで先ずは地図で位置を確認します。
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インドシナ半島にあり、東にベトナム、西にタイ、南はカンボジア、北は中国とミャンマーとそれぞれ国境を接していて、海を持たない国です。
ラオス、正式国名はラオス人民民主共和国で社会主義国家です。
国土の多くは山岳地帯で、広さはおよそ日本の本州程度、人口は約600万人です。森林資源に恵まれていますが、近年、急激な森林破壊が進み、環境問題が深刻化しています。
住民の殆んどはラーオ族で、大きく高地ラーオ族、丘陵地ラーオ族、平地ラーオ族に分類されていて、この他49の少数民族が存在しているとのことです。
6割の人が仏教を信仰していて、そのほか伝統宗教としてアニミズムへの信仰がありますが、両者の境界はそれほどはっきりとはしていません。

ラオスが歴史上最も栄えたのは14~17世紀にかけて興隆したラーンサーン王国で、それも18世紀の初めには分裂して王国は崩壊してゆきます。その後はタイやビルマの影響下におかれます。
19世紀に入ってフランスがインドシナ半島に進出してくると、仏領インドシナ連邦に編入されます。第二次大戦中の一時期日本が占領しますが、1953年に独立するまでずっとフランスにより支配されます。
独立後は長期にわたる内戦が行われ、同時にアメリカのベトナム戦争の影響も受けます。
1975年になって人民革命党が支配する社会主義国家が誕生しますが経済の混乱が続き、1986年になってようやく市場原理主義を導入、同時に西側諸国との関係改善が進み、1990年代になって経済が安定してゆきます。今はベトナムの影響力が大きい。
2000年からは外国の観光客を積極的に受け入れるようになりました。
ラオスの歴史というのは、仏米といった西洋の大国や周辺国から翻弄されてきた歴史であると言えます。

GDPは世界の下から数えた方が早く、東南アジアの中でも繁栄から取り残された形になっています。鉱物資源の埋蔵量は多いのですが、資金不足と交通インフラの未整備で採掘は一向に進んでいません。
唯一国土の地形を利用した水力発電が盛んで、隣国タイへ電力を売っています。
経済が立ち遅れているので人々の生活は貧しいのですが、その分伝統的な生活様式が守られていて、素朴で穏やかな国民性が保たれています。この点はミャンマーと類似しています。

旅行会社のキャッチコピーに、ラオスを「微笑みの国」とか「アジア最後の国」と書かれていますが、あながち誇張ではありません。
次回から旅行記の中味に入ります。
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by kanekatu | 2009-01-22 10:17 | ラオス | Comments(0)

クロアチア・スロベニア旅行記(1)

2008年5月2日より10日間の日程で「クロアチア・スロベニア」のツアーに参加しました。旅行社は「消えた添乗員」以来久々のクラブツーリズム社、参加者は21名で珍しく男性の数の方が多いというメンバーでした。添乗員はベテランのSさん(ツアコンというよりは中学の社会科の先生タイプ)。
クロアチア、スロベニア両国は、いずれも旧ユーゴスラビアから独立した国で、バルカン半島の西部に位置しています。
両国の地図は下記の通りです。
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バルカン半島という言葉を聞くと、団塊の世代の方なら若かりし頃にうたごえ喫茶で歌った「バルカンの星の下で」を思い出すでしょう。
♪輝くバルカンの 星の下にて
 幼き日の思い出 瞼に描く♪
あるいはもっと年配の方なら、禁断の秘本「バルカン戦争」を心ときめかせて読みふけった経験があるかもしれません。
「バルカンは欧州の火薬庫」などという物騒な表現もありましたが、これは今もって死語になっていません。

ここで、簡単にクロアチアを中心に両国の歴史に触れてみたいと思います。
10世紀から11世紀後半にかけてクロアチア王国が形成されますが、12世紀に始めから1848年までハンガリー帝国、ハプスブルグ帝国に支配されます。
この間、15世紀の一時期にオスマン帝国による支配に代りますが、間もなくハプスブルグの支配に戻ります。
その一方、アドリア海沿岸のダルマチア地方だけは10世紀以後ヴェネツィア共和国のより支配され、1815年からはオーストリアの直轄地となるなど、他の地域と異なる歴史を歩みます。
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1848年の3月革命により、ハンガリーからの独立を目指しますが鎮圧され、再びハプスブルグ帝国による支配に戻ります。しかしこの経緯の中で、クロアチアの自治権が拡大します。
1918年に第一次世界大戦で敗北したオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、セルビア王国などと手を結び、セルビア・クロアチア・スロベニア王国を成立させ、1929年には南部スラブ人を意味するユーゴスラビアと国名を変更します。
しかしこの国は、実態としてセルビアが支配的であったため、クロアチアの不満が鬱積してゆきます。その結果、1941年にナチス・ドイツの後押しでクロアチア独立国を成立させますが、この時に報復と称して多くのセルビア人を殺害し、その仕返しにセルビア側はクロアチア人を殺害するという事態に発展します。
この事が、後年クロアチア紛争の火種になってゆきます。

ユーゴスラビアの混乱は、チトーを指導者とするユーゴスラビア共産主義同盟らによるパルチザン闘争によりナチス・ドイツからの自力解放を勝ち取り、1945年にユーゴスラビア連邦人民共和国が成立します。
ユーゴスラビアは俗に、「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成される1つの国」と表現されていました。 7つの隣国とは、イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア。6つの共和国はスロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア。5つの民族はスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人。4つの言語はスロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語。3つの宗教はカトリック、東方正教、イスラム教。2つの文字はラテン文字とキリル文字のことです。
こうした複雑な他民族国家を一まとめに出来たのは、専らチトー大統領という人物のカリスマ性に拠るものでした。

ソ連のスターリンと対立した結果、社会主義陣営からは除名され、西側からは共産主義とみなされたユーゴスラビアは、ソ連型の統制経済に対抗して自主管理社会主義という独自の経済モデルを作り、西側との経済交流も活発にするなど、非同盟の独自の道を歩んでゆきます。

しかし余りにチトー大統領個人の力に頼りすぎたため、彼の死後一気に矛盾が噴出します。
先ず、1991年にスロベニア、クロアチアが独立を宣言し、ユーゴスラビア軍とスロベニアとの戦闘は10日間で終結しますが、クロアチアとの戦争は長引き、1995年に戦闘が終結するまで多数の犠牲者を出すに至ります。
更にセルビア対クロアチアの対立は、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争にも大きく影響し、今日に至っているわけです。
その凄まじさは、「これからは誰が自分を守ってくれるのか?という疑問に、我が民族だという答しか出なくなるのだ。」という言葉に如実に示されています。

下の写真は故チトー大統領の銅像ですが、泉下でさぞかし悩んでいるのでしょう、その表情からも窺われますね。
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独立後の紛争と混乱からようやく脱して平和を取り戻したクロアチアですが、危機に瀕していた世界遺産の修復も進み、今では世界中から沢山の観光客が訪れています。
我が国も例外でなく、ここ数年はちょっとしたクロアチア観光ブームになっています。

次回から旅行記の中味に入ります。
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by kanekatu | 2008-05-16 10:04 | クロアチア | Comments(0)

憂きな中にも旅の空


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